涙目筑前速報+

詰まるところは明日を知る。なだらかな日々につまずいて
向かうところはありもせず、未来の居場所だって未定―秋田ひろむ

夏目漱石『こころ』を読んだ所感

2015-03-30 23:54:51 | 書籍
夏目漱石の『こころ』を本日読み終わった。
初めて読んだのが中学か高校の教科書だった。
そのため、覚えている内容がかなり薄く、もう一度しっかり読もうと思い、チマチマ読んでいたのだ。
今回の日記では、その内容と所感について、書いていくことにする。


物語は大まかに「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」3章に分かれる。
1章で主人公である「私」は先生と呼ばれる男性(名前は出てこない)に出会う。
先生は厭世的な性格だけではなく、他人も自分も信用ならないと私に言う。
その考え方に主人公は興味を持つ。
いや、興味を持つというよりも、1人の人間をとことんまで理解したい・知りたいという、情熱に近いような深いものではないかと思った。

そうして都度先生に対して答えを求めるうちに、あるとき先生はこう彼に問い掛ける。

「あなたは本当に真面目なんですか」
「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。
しかしどうもあなただけは疑りたくない。
あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。
私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。
あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。
あなたははらの底から真面目ですか」

―夏目漱石『こころ』上・先生と私より


ここで主人公は真面目だと答えるのだが、後程になって、先生が考える真面目の意味を知ることになる。

2章になって主人公は実家に帰り、両親や親族とのやり取りの中から先生へ思いを馳せるのだが、最後になって先生から手紙が届く。
手紙の中身は、私が知りたがっていた先生の過去であり、そして手紙を読む頃には、すでに先生はこの世にいないだろうというものであった。

そして、3章ではその手紙の中身が明かされる。
内容はこの物語の核心ともいう部分で、先生がいかにして人を疑り深い性格になっていったか。
そんな先生が聖人のように潔癖であったかというと、決してそんなことはなく、寧ろ友人に対して、取り返しのつかない不誠実な想いや行動であったということだった。
そして、そのことに対する慚悔の念からくる自己嫌悪が綴られる。
3章の下記のような言葉が、その暗鬱とした想いが込められている。

叔父に欺かれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。
世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。
それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。
他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

―夏目漱石『こころ』下・先生と遺書より


先生は学生時代に叔父に財産を騙し取られた過去があり、他人をあまり信用できない人間になっていた。
そのせいか下宿先の奥さんやお嬢さんにも時折疑いの目を見てしまうのであるが、友人のKに対して不誠実を働いてしまった時の自分の心情や行動から、自分にもその叔父の様な嫌悪するような性根が潜んでいたことに気付くのである。
それに気付いた先生は、他人はおろか、自分にも嫌気がさしてしまったのだ。

その後の先生には、何をするにしてもこの嫌悪感がつきまとってしまい、酒を飲んでも本を読んでも、何も入ってこないような心持ちになってしまう。
自己嫌悪が進んだ先生は、そこに人間の罪を感じたと書き記す。
その罪を償うために、妻に優しくしてみたり、友人の墓参りをする。
その罪悪感のために、知らない路傍の人から鞭打たれたいと思う。
知らない人にそんな手間をかけさせるよりも、自分の手で鞭打たれたいと思う。
自分で自分を鞭打つよりも、自分で自分を殺したいと考えるようになる。
結果として、生きた屍になって行こうと決心したのである。

しかし、明治天皇の崩御と乃木大将の殉死によって、明治の精神が終わり、明治の影響を受けた自分の精神も終わったと感じ、自殺に至る。
これは今の風潮からは理解できない考え方かもしれないが、徳川幕府が倒れ、天皇という立場がより重要視された明治という時代の考え方だからこそ、この結論なのかもしれない。

最終的には死んでしまった先生が、何故自分の不誠実さを主人公である私に手紙で打ち明けることになったのか。
それはやはり、主人公の先生に対する「彼を理解したいという情熱」であると考える。
先生は手紙の中の冒頭に、以下の様な内容を書いている。

あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。
私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。
その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。
それで他日を約してあなたの要求を斥けてしまった。
私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。
私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿ることができるなら満足です。

―夏目漱石『こころ』下・先生と遺書より


自身の死を考えた時、自分を一番理解してもらえる「私」に自分という人間、ひいては人間全体が持つ浅ましさや不誠実さを伝えたいという念もあったのだろう。
また、それ以上に、自分が歩んでしまった人生を吐き出すことで、一種の救いを求めたかったのかもしれない。


僕自身がこの本を読み終わって先生について思ったことは、先生は確かに不誠実であるが、自殺するほどまでだったかという疑問がある。
正直、友人であるKが死んでしまったのは、先生のせいでもある。
迷いが生じているKに対して、手を差し伸べることもなく「精神的に向上心のない者はばかだ」と言い放つ。
しかも、念を押すように2度も言うところに、人間という生き物の浅ましさを表していると思う。

それが、何かに前向きに挑戦していたが一時期迷っている者に対しての発言であればまだ良いのだ。
先生がこの言葉を言い放った背景に「自分が好きな娘をKに取られようとしていた」という至極男の女のもつれに近いものであることに、僕の中の言い知れぬ性的な劣情感を湧きたてるのだ。
自分の好きな娘を取られるのが嫌だから、わざと友人自身の言葉を使って、友人を始めの様な求道者のような態度に戻させ、娘から遠ざける。
なんとも陰湿な心情じゃないかと、僕は興奮した。

激昂ではなく興奮だ。
僕はこういう心情はとても重要であるし、僕自身も持ち合わせている。
しばしばこういう下衆じみた劣情というものは、非常に自虐の種にしやすく、妄想する分には悪い気はしない。
しかしこの先生、妄想ではなく実の友人に対してやってしまったのだから始末が悪い。
反面、こういうことを臆面もなくする人間は、現代でもごまんといるだろうと感じるのだ。

友人のKはさらに迷いを深め、最終的には自殺してしまう。
遺書には先生を責めたてるようなことは描かれてはいないが、先生は自責の念にかられ、上述の様な生きた屍と化す。
実際、僕が先生の立場なら、恐らく同じようになっていた気がする。
自分の友人が自殺し、しかもその責任が自分にあるかもしれないことを考えると、流石に居心地が悪いどころの話ではない。
とはいえ、生きた屍でもいいから生きて行こうと思っていた先生が、明治天皇の崩御と共に自身にも終止符を打ってしまうくだりは、やはりピンと来なかった部分でもある。
やはり、ここは時代背景の違いが大きいのだろう。

では先生はどうすればよかったのかというと、個人的にはKを下宿先に呼ばず、さっさとお嬢さんと契りを結んでしまえば良かったのではないかというところに行きつく。
下手に同情心を起こしたり、時機を逸してしまうところに、先生の不器用さが見て取れる。
だが、これは結果論でしかなく、自身にもこういうタイミングや積極性の問題で、他人を不幸にするという事もあり得ない話ではないため、ある意味気を付けなければならないだろう。


この作品を通じて感じた事は、人間の持つ心の浅ましさの部分を如何に許容しつつ、自身を高められるかというところだろう。
「自分のようになってはいけない」
先生の手紙からはそういった悲鳴のような願いが込められているような気がする。

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