道徳的、という言葉と概念を、ヨーロッパ方面の人に
どう説明したものかと悩んで、ふと思いました。
『道』という概念の無いヨーロッパ人は、
『道徳』という概念自体そもそも持ち合わせてもおらず、
理解もできないのでは
日本含むアジア方面は、『道』というのは社会の中にしばしば現れます。
よって、人の『道』に外れた奴、
と言えば想像できるものは大体同じですし、
人の『道』をはずさないようにすると言って
概念も通じ合えます。
この『道』というものは、
『自分がうつくしくあり』
『周りと調和するもの』
というような概念であり、意味です。
だから神『道』と言えば、自分を美しく見せる所作があり、
周りと調和する行動や儀式があります。
自分勝手に、食べ物を社に投げつけて、神様神様~! と
叫んでみても、それは美しくもなく
まわりと調和もとれていないので神道などではありません。
日本の『道徳』も、『人の道』『人の徳』に基づくものですが……
『道』の概念が無い外人は、
自分の行動、自分の根本をどこにおいているのだろうかと
ちょっと気になったわけです。
一般的な日本人なら、人を殺すのは人の道に反することだと
感じることでしょう。
だから、やりません。
道の概念がないところの人は、
道徳の変わりを宗教がになっているのでしょうか。
すると、宗教に、『異教徒は殺していい』と書いてあれば
宗教的道徳観、宗教的観念から、
正しい行為として人殺しを行うのではないのか、と思いました。
他にも、たとえば災害に見舞われたとき。
町がぐちゃぐちゃになり、周りの人も苦しんでいるとき、
どうするのが人の道かと言えば、
苦しんでいる人を助け、人を苦しめず、
周りによりそいながら生きることでしょう。
でも外国では、災害が起こったから暴動だ、とか、
同じく被害にあった店を襲撃してもちものを奪うとか
平気でやっている姿が報道されたりします。
これは個々人の中に『道』というものがないためではないかとも
考えた次第です。
まあ外人のことなんてぜんぜん知りませんが、改めて考えてみると、
思想の違う外国人はどういうなにを基盤として
精神活動しているのかということになんだか興味がわきました。
どう説明したものかと悩んで、ふと思いました。
『道』という概念の無いヨーロッパ人は、
『道徳』という概念自体そもそも持ち合わせてもおらず、
理解もできないのでは
日本含むアジア方面は、『道』というのは社会の中にしばしば現れます。
よって、人の『道』に外れた奴、
と言えば想像できるものは大体同じですし、
人の『道』をはずさないようにすると言って
概念も通じ合えます。
この『道』というものは、
『自分がうつくしくあり』
『周りと調和するもの』
というような概念であり、意味です。
だから神『道』と言えば、自分を美しく見せる所作があり、
周りと調和する行動や儀式があります。
自分勝手に、食べ物を社に投げつけて、神様神様~! と
叫んでみても、それは美しくもなく
まわりと調和もとれていないので神道などではありません。
日本の『道徳』も、『人の道』『人の徳』に基づくものですが……
『道』の概念が無い外人は、
自分の行動、自分の根本をどこにおいているのだろうかと
ちょっと気になったわけです。
一般的な日本人なら、人を殺すのは人の道に反することだと
感じることでしょう。
だから、やりません。
道の概念がないところの人は、
道徳の変わりを宗教がになっているのでしょうか。
すると、宗教に、『異教徒は殺していい』と書いてあれば
宗教的道徳観、宗教的観念から、
正しい行為として人殺しを行うのではないのか、と思いました。
他にも、たとえば災害に見舞われたとき。
町がぐちゃぐちゃになり、周りの人も苦しんでいるとき、
どうするのが人の道かと言えば、
苦しんでいる人を助け、人を苦しめず、
周りによりそいながら生きることでしょう。
でも外国では、災害が起こったから暴動だ、とか、
同じく被害にあった店を襲撃してもちものを奪うとか
平気でやっている姿が報道されたりします。
これは個々人の中に『道』というものがないためではないかとも
考えた次第です。
まあ外人のことなんてぜんぜん知りませんが、改めて考えてみると、
思想の違う外国人はどういうなにを基盤として
精神活動しているのかということになんだか興味がわきました。