直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
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道徳と外国

2021年07月03日 | ちょこのひとかけ
道徳的、という言葉と概念を、ヨーロッパ方面の人に
どう説明したものかと悩んで、ふと思いました。
『道』という概念の無いヨーロッパ人は、
『道徳』という概念自体そもそも持ち合わせてもおらず、
理解もできないのでは

日本含むアジア方面は、『道』というのは社会の中にしばしば現れます。
よって、人の『道』に外れた奴、
と言えば想像できるものは大体同じですし、
人の『道』をはずさないようにすると言って
概念も通じ合えます。

この『道』というものは、
『自分がうつくしくあり』
『周りと調和するもの』
というような概念であり、意味です。

だから神『道』と言えば、自分を美しく見せる所作があり、
周りと調和する行動や儀式があります。
自分勝手に、食べ物を社に投げつけて、神様神様~! と
叫んでみても、それは美しくもなく
まわりと調和もとれていないので神道などではありません。

日本の『道徳』も、『人の道』『人の徳』に基づくものですが……
『道』の概念が無い外人は、
自分の行動、自分の根本をどこにおいているのだろうかと
ちょっと気になったわけです。

一般的な日本人なら、人を殺すのは人の道に反することだと
感じることでしょう。
だから、やりません。

道の概念がないところの人は、
道徳の変わりを宗教がになっているのでしょうか。
すると、宗教に、『異教徒は殺していい』と書いてあれば
宗教的道徳観、宗教的観念から、
正しい行為として人殺しを行うのではないのか、と思いました。


他にも、たとえば災害に見舞われたとき。
町がぐちゃぐちゃになり、周りの人も苦しんでいるとき、
どうするのが人の道かと言えば、
苦しんでいる人を助け、人を苦しめず、
周りによりそいながら生きることでしょう。

でも外国では、災害が起こったから暴動だ、とか、
同じく被害にあった店を襲撃してもちものを奪うとか
平気でやっている姿が報道されたりします。
これは個々人の中に『道』というものがないためではないかとも
考えた次第です。

まあ外人のことなんてぜんぜん知りませんが、改めて考えてみると、
思想の違う外国人はどういうなにを基盤として
精神活動しているのかということになんだか興味がわきました。
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