似顔絵の練習は続けています。
何をどうすれば似顔絵になるのかわからなかった時代は終わり、
今はどうすればもっと似るのか、の観点から練習をしています。
そもそもデッサンができていないので、
写真を見ながらひたすらアタリからラフに入って失敗したら捨てて、
偶然なぜかパキッとした感じに線が入ったものを拾って
描き進めていくという方法をとっています。
いままではそれがうまくいくことはほとんどなかったのですが、
成功する頻度が上がってきた気がします。
思えばわたしは、ずっと人の顔に対して意識を払ってこなかったようです。
食事と言えば食べるものであって、それがおいしいかおいしくないかは
どうでもよかったのと同じく、
人の顔は人についているもので、それがどういうものでも
わたしには関係ないというスタンスでした。
学校や家など、限定的な場所で顔を付き合わせれば
それがその人だとなんとなくわかりますが、
出先や普段と違う場所で誰かに会うと、
たとえ肉親であっても顔では判別できないかもしれません。
……話しかけられれば、声ではわかりますし、
歩き方などを見ればわかるでしょうけど。
という感じなので、映画を見ていても4人くらい人が出てきて
髪型を変えたり服を変えたり、敵味方でゆれたりすれば、
もう誰が誰なのかわかりません。
常にその人の下に、誰なのか名札でも出ていて欲しいと思うくらいです。
それがわたしの世界。
人が好きで人と会うような人にはわからないでしょうが、
わたしの世界は常に誰かわからないような人が
そこらをうろついているようなものなのです。
一方、アニメのキャラはわかりやすい特徴がついていて、
服もたいてい同じで、わたしが見ても誰が何のキャラなのかは
ぱっと区別がつけられます。
わたしがアニメなどを好きなのは、
そういう理由もあるかもしれないとふと思いました。
そんな、微妙な差異しかなくて判別が難しい人間の顔を、
何をもってその人としているのかと探すのは、
肉や濃い味の料理しか食べてこなかった人が
白身魚や豆腐のほのかな味を理解しようとするのと
似ているのかもしれないとも、ちょっと思ったでゲス。
そのほかにも、似顔絵を練習しながら思ったのは、
似顔絵はゲシュタルトだということ。
それは、作曲にも通じそうです。
前に歌曲を作るとき、ひたすら悩みました。
現代ポップを作ってみたかったものの、
現代ポップとはなにか、なにをどうすれば現代ポップになるのか
わからなかったからです。
最近ごぶさたなので正しい単語は忘れましたが、
たとえば日本音楽では、日本的短音階、のようなスケールがあります。
西洋的音階のように明るくなく、
ねんねんころりのように、聞いていると不安になるような
すごく寂しい音の並びです。
でもあれは使用する音の構成要素であって、
ある瞬間の和音を抜き出して調べてみても、
それが日本的短音階であるとは分析できません。
スケールを使った曲であるとわかるだけ流してみて、
はじめてわかるものでしょう。
つまり、絵の一枚を抜き出しても絵でしかなく、
絵を何枚もずらして全体としてみたときに
アニメーションして見えるという、ゲシュタルト的観念です。
『誰か』が『その人』である部分は、ひとつではその人になりません。
そのいくつかを組み合わせて全体にしたときに、
絵は『似顔絵』になるのでしょう。
何をどうすれば音の並びが『ジャズ』になるのか、
『中国的』、『アラビア的』音楽になるのか、という
特徴を模索するのと似ています。
個人的な感覚では、似顔絵も曲も同じものだとわかりました。
音で頭の中に姿を描くのが曲、
ペンで紙の上に姿を描くのが似顔絵です。
世界は意外な場所でいろいろつながっているようです。
そして今回の絵。
◆◆画像12-04-24◆◆
今はまず特徴をつかんで描く練習をして、
それが落ち着いてきたら、線に味を出す練習。
わたしは線画に自分でペン入れをすると、
なぜかすごく古臭い絵になるので、
それを防ぎつつ、今までなるべく使わないようにしていた
オモ線を生かすような絵を作る練習が必要です。
その次は、抜き出した特徴を、強調するなどして
イラストにする練習。
先はまだまだ長いです。