峠の駅「紫波ふる里センター」は国道396号線にあります。
リンク→「紫波ふる里センター」
産直や、
レストラン(昼のみ)があります。
盛岡から遠野に行く際には休憩ポイントとして重宝する場所でもあります。
5月は鯉のぼりも…。
産直とレストランの間には小さな神社があります。
「乳神神社」です。不思議な名前ですが、由来があって、
↑こんな悲しい話(´;ω;`)があるのです。
この女の人かわいそうですよね。妊娠させてしまった家老がちゃんと責任をとればいいものを…。
↑こちらはちょっと古いですね。内容はさっきの看板と同じものです。
小さな祠が祀られています。手を合わせておきましょう。
さて、産直の隣にある、この看板。
「黄金とロザリオの風 歴史の里トレッキング」とか言って、大仰な名前。(*´▽`*)
何やら期待させる展開じゃないですか。
一度歩いてみたいと思っていたので、行ってみます!!!
今回、こんな風に番号を振ってみました。(画像加工)
この順番で歩いていきます。正味1~2時間くらいで歩けるかなあと思っています。
さて、駐車場から出まして、
あっちが入り口のようですね。
花巻市(旧大迫町)と紫波町の境目です。
ここから行きます。
「是より朴木金山」とあります。佐比内金山は「朴木金山」のことでしたか。
未舗装ですが、轍の跡があります。車も通るようです。
右側は谷になって、水が溜まっています。天然の沼になっているようです。
見下ろすと、残念なことに、
ゴミだらけです。どうも、不法投棄の現場になっているようです。
そのまま道なりに進むと、民家があります。
ここか、①「ミサ家」か?と思いきや、違うようです。
住民の方がいたので、話を聞いてみます。(声をかけないと不審者として通報されそうです。)
①「ミサ家」はご存じのようですが、行き方について詳しくはわからないようです。
とりあえず、「こちらではないか」という脇道を歩いてみます。
(民家の敷地内ではないのかな????これは。)
ここから、藪の中を通っていきます。とはいえ、道らしきものはあるので、それを頼りに行きます。
……、これ、絶対トレッキング・コースじゃないだろ…。(´・ω・`)
ちなみに、道案内の看板など、一切ありません。
道らしきところに出ました。最初の地図の通りに動いたのかわかりません。
しかも、この出口付近も、微妙に他人の敷地内っぽいところのような感じがします。
近くで農作業をしている方に、一応、あいさつします。
地図を見ると、おそらくはこっち、右手の方でしょう。
谷川が左手に流れています。
舗装路が終わりました。桂の集合木のところに祠があります。
裏手は川です。
近くに民家があったので、道を尋ねると、どうやらこの未舗装路を奥に進んでいけば「①ミサ家」にたどり着けるようです。
行ってみます。こんな山奥に、家があるのかな…???
何やら、見えてきました。
ポストがあります。…ということは民家があるということなのでしょうか。
ここが、「①ミサ家」なのでしょうか。
柱に「三沢家(ミサ)」と書いてあります。ここで間違いないようです。
ポストもあり、轍も新しい感じなので、多分、現在も人はお住まいなのでしょう。
奥に民家があるようです。
電線もありますし、電気が通っているようですね。
それにしても、「②切支丹墓石」というのは、見当たらないです…。
ルート的には次にこの民家の裏手から左に抜ける道があるようなのですが…。
大きな民家が右手に見えました。これが「ミサ家」で間違いないようです。
外観からは「教会」っぽさはありません。当然でしょう。「隠れキリシタン」なのですから。
家の中を見学したいところですが、お住まいの方もいますし、それは迷惑でしょう…。
(当時は家の近くの畑を耕してらっしゃいました。)
ありました。次のルートです。
「至 金山」とありますし、ここで間違いないようです。
ここから山中です。
雉がいました。
デカいやつです。
こんな見事な雉は見たことがないです。
おそらくは、メスですね…。
雉に誘われるように奥に入っていくと、墓石らしいものが見えてきました。
おそらくこれが「②切支丹墓石」なのでしょう。位置的にも間違いありません。
しかし、肝心の墓碑にはキリスト教らしき痕跡はありません。
普通に「南無阿弥陀仏」とか書いてあります。う~~ん、残念。
さて、ここからは山中をさ迷い歩きます。
道らしきものの痕跡をたどって次の目的地を目指します。
時折、目印はあるのですが…。
倒木もあり、そのうち、目印も見えなくなってきます。
一応、目印らしきものを見付けました。合っているようです…。
先ほどの民家の方が「道が分からない。うちらはほとんど使ったことがない。」と言っていましたが、納得…。
こんな山中の道は普通、使いませんよ…(*´Д`)
それでも、たま~~に、標識とかあるんですよ。
そういえば、さっきの民家の方が「この辺はクマが多い」と言っていました。
クマの糞らしきものはありませんでしたが、まあいることはいるんでしょう。
なんせ、岩手県は盛岡の街中でもクマが出るくらいですから。
一応、クマ鈴はもっています。ガッツリと山の支度をしてきたよかったなあと思います。
それにしても、昔の人はこんな山道を、ミサのために歩いたのでしょうか…。
なにやら、池らしきところに出ました。
多分、農業用のため池と思われますが、先の地図にはないようです。
国土地理院の地図を見ると書いていますが。
とりあえず、池沿いに進んでみます。
ため池があるということは近くに田んぼがあり、人家があるということでしょう。
実際、ため池の周りには別のルートもありました。
割と大きなため池のようです。
ため池からの水路は赤くなっていました。鉄を含んでいるのかもしれません。
ようやく道路に出ました。
正しいルートなのかはわかりませんが、これで一安心です。
残念ながら、標識は何が書いてあるかわかりません。消えています。(*´Д`)
今度は、山の方に向かいます。野立ての藤が咲いています。
川を挟んで向こう側に何やら見えてきました。
「③切支丹墓石群」のようです。ズームしてみましょう。
残念ながら、普通の墓碑です。キリシタンの痕跡らしきものは見えません。
しかも、川を挟んでいるので向こう側には渡れず、詳しくは見られないようです…。
さらにはどうも民家の敷地内にあるようです。
写真には撮っていませんが、こちらは工事現場事務所らしき廃屋と大きな民家の間にあります。
その大きな民家が、地図にあるところの「④牛首家」らしいです。大きな母屋と倉庫がいくつもあり、何頭も犬を飼っています。現役でお住まいのようなので、写真は控えました。
ただ、この「④牛首家」がなぜ地図に載っているのかわかりません。かつてのキリシタンだったからなのでしょうか…。説明板もなにもないので詳細は不明です。
「④牛首家」の前から道路が未舗装になります。
地図上はすぐに分岐のようになっていますけど、実際にはけっこう歩いてからです。
ここが分岐のようです。
まずは奥の方にまっすぐ行ってみます。まずは「朴木金山」を目指してみたい。
??ガードレールらしきものが見えます。
未舗装路にガードレール???
どうやら、右手の谷川への転落を防ぐためのようです。
なにやら、開けたところに出ました。いつの間にか、谷川に擁壁ができています。
ああ、そこから擁壁なんですね。
なんか、しっかり護岸までされて、けっこう開発されている…。特に民家もない場所なのにこうも整備されているのはなぜなのでしょう???
前方に大きなダム(盛り土??)らしきものが見えます。
ダムの方に近づきたかったのですが、「立入禁止」とあります。
地図にある「⑤砥ヶ崎溜池」のようです。
大きく見事な松が残されています。
江戸時代からある松かもしれません。
こちらが簡易トイレで…駐車場??なんでこんなところに駐車場が???
とりあえず、右手の山側を登ります。こちらにもガードレールがあります。
ダムの上の方に来ました。
どうやら脇の方から少しずつ流しているようです。
樹木で見えませんが、水門とかもあると思うので、一般人が操作できないように立入禁止にしているのでしょう。
とはいえ、ここまで入ってくる人はいないと思います。
さらに山奥に入っていきます。
もう明らかに、地図と違う…。
けっこう奥まで来ていますよ…(*´Д`)
道が分かれるところに来ました。
たぶん、右に行けば「⑧歓楽街跡」「⑨大工・堀子長屋跡」「⑩遊郭跡」とかです。
ちなみに、この辺で1時間半歩いています。疲れました。少し休憩します。
先ほどの「⑤砥ヶ先溜池」の端まできました。
さて、歩き始めましょう。目指すは「⑥精錬所跡」です。
もう、思いっきり山の中ですね。
それでも、ここくらいまでは車で来ることも可能なのかもしれません。
何やら、見えてきました。
「⑥精錬作業所跡」です。近くに説明板とかそういうものはございません。
この左手上の平らな部分がそうだったのかもしれませんね。
さて、進みましょう。
地図上はもう少し進めば、「⑥朴木金山」にあたると思われるのですが…。
けっこう、未踏の地ですね。
登山道でもないし、シダがこんなに生えているっていうことは、しばらく人の行き来はないように思われます。
道が川のようになっていますし…。
それでも、標識が埋め込まれていたり、ピンクリボンがあったりするので、人の手が入った形跡はあります。
しかし、進んでも進んでも山道。
う~~ん、ドラム缶なんかも落ちていますよ。
何やら見えてきました。トタンでできた山小屋のようです。
廃屋ですね、完全に。
採掘関係の山小屋のようです。どう見ても、昭和のころ…。江戸時代とかではなさそうです。
「株式会社 朴鉱山」とあります。そういう会社が金山の採掘を引き継いでいたのでしょう。
中はボロボロです。奥の方は崖崩れで壊れています。
机や椅子やヘルメットなど、まだ持ち物が残された状態ですね。
「片づけられて閉鎖」。
というわけではなく、
「使われていたが、いつのまにか閉鎖」という感じです。
事務所として使われていたんでしょうね…。廃墟マニアではないですが、心に来るものがあります。
何やら壁の黒板に落書きが。平成15年って20年前。
これは名前ですかね????
ちなみに、先ほどの休憩ポイントから30分ほど登ってきました。
周辺をみても、坑道らしきところは見えません。
これ以上、ルートも辿れないので無理そうです。
このルートはだいぶ前から地図にありません。
国土地理院地図を見ると、もう少し登ると、名もない山の山頂に行き当たるようです。
もしかしたら、この谷筋がかつて坑道があったところなのかもしれませんが、塞がってしまっていてどこかもわかりません。
結局、「⑦朴木金山」跡は見つからなかったわけです。
そして、帰りにこのような柵を発見しました。
行きのときは夢中であまり気に掛けなかったのですが、冷静になって辺りをよく見ると…、
看板が落ちていましたね。
よく見ると、「立入禁止」とか書いてあるような…。
う~~ん、やっぱりそのようなことが書いてあるような感じがします。
やっべえ……。(*´Д`)
だから、地図から抹消された場所なんだ…。
まいったなあ…。立ち入り禁止区域だったなんて…。
そんなところ「トレッキングコース」に紹介しないでほしいなあ…。
先ほどの分岐点まで戻ります。今度は「⑧歓楽街跡」などの方へ行ってみたいと思います。
けっこう広い道です。未舗装とはいえ、車が十分通れそうです。
とはいえ、地図にもない場所なので、誰も来る人はいないのでしょうが…。
(しかし、そういう「地図にもない場所」を歩いている私って一体何なんでしょう?…(´・ω・`))
何やら見えてきました。
この辺りが「⑧歓楽街跡」らしいです。
とはいえ、建物跡があるわけでもなし。説明板もないです。
この向かい側は「⑨大工堀子長屋跡」らしいのですが、案内の柱もありませんし、十分な広さのある平地も見当たりません。よってまったくその形跡らしきものは不明です。
さらに、奥に進みます。
「⑩遊郭跡」です。
この辺も、ちょっと平らになった場所があるくらいで本当に遊郭があったかなんてわかりません。
伝承で伝わっているのでしょうか。この辺、民家なんてないのに…。
「⑩遊郭跡」をちょっと離れて見るとこんな感じです。台の上に遊郭の建物があったのかもしれません。
何しろ大工堀子が一万三千人もいたというのですからね…。本当かな…?
ちなみに、この「遊郭跡」の先も道は伸びているのですが、何処に繋がっているかは不明です。
なにしろ、地図にもないのですから。
また「立入禁止区域」だとまずいのでこれ以上奥には進まないことにします…。
さて、今度は先ほどの「牛首家」近く(と言っても歩いて5分ほどはある)の分岐に来ました。
そこから奥に進みます。
目指すは「⑪丹波弥十郎屋敷跡」です。
道は狭いし、凹凸は激しいし、こっちは車で来られるようなところではありません。
この時、なぜだかは車でここから来た方に会いましたが、通れなくて引き返してきたのでしょう。
このトレッキングコースは車では不可能です。
奥まで行くと、こんなところに出くわします。
土管の前が沢になって思いっきりえぐれています。ここは徒歩でもわたるのは結構骨です。
っていうか、右奥。気付きましたか?
トラックがありました。どうも、乗り捨てられた模様です。
かなり古そうです。
まずは、ここを渡らなきゃいけないのですが…。
この渡った後に「切支丹長屋跡」があります。
峠の駅の案内板にはなかった史蹟です。この辺に切支丹がまとまって住んでいたということなのでしょうか。
こんな山奥に…。いや、大工堀子の長屋ももっと山奥ですが…。(*´Д`)
平らな土地になっています。まあ、これなら建物とかは出来そうですが…。
さて、この向かい側にはこんなものが。
崩れかかった鳥居を鉄パイプを組んで補強しているようです…。
こんなことするんだったら、建て替えりゃあいいじゃん…。(*´Д`)
奥にお堂らしきものが見えますね。山の上です。
近くには何やら額のようなものがありますが、なんのことかさっぱりわかりません。
お堂の方に行ってみましょう。
峠の駅にあった案内板の「⑫切支丹石文」かもしれません。
古くはなっていますが、階段が作られた跡があります。
石碑が見えてきました。お堂はこっちも鉄パイプで補強されています。
鉄パイプ……。足場かよ(*´Д`)
お堂と…、
石碑と…
……切支丹らしき痕跡はありませんね。思いっきり、「馬頭観世音」とか書いてあるし。
念のため、お堂の方の石碑も見てみますが…、
…十字架とかそういうものはないですね。これは切支丹っぽくはなさそうです…。
隣の祠も荒れ果てています。
おそらくは誰も手入れする人がいないのでしょう。なんせ地図にもない場所ですし…。
一番、近くの民家はあの「牛首家」ですが。インタビューとかしてみれば何か聞けるのかもしれませんが…。
さて、この祠から降りて、もう少し奥に歩くと…、
ありました。
この金山の採掘権を得たという京都の豪商「丹波弥十郎」の屋敷跡です。
おそらくはこの辺の平らになっている場所でしょうか。
そして、さらに、この奥は道らしきものは続いています。
「⑬洞ヶ沢金山」というのも探したかったですが、ちょっと道が分からないです。
今度はさっきのように道がついているわけでもなさそうです。
午後二時を回ってきたので、山の中は暗くなり始めます。
迷っても困るので、ここは潔く断念します。
また「立入禁止区域」になっていても困りますし…。無駄骨だし…。(´・ω・`)
「④牛首家」前から舗装路に出ました。久しぶりの舗装路です。
のどかなところですね~~。(*´▽`*)
水田や田畑は電気柵でおおわれています。
今は電気柵が多いです。鳥獣対策には有効なのでしょう。
山の方もよく下草が刈られ、手入れが行き届いています。まさに「健全な里山」って感じです。
そろそろ田植えの季節ですね。代掻きは終わっているところがほとんどです。
こういう屋根は農家独特のものですね。囲炉裏とかがあった時代の名残でしょう。
歩いていくと、珍しい蔵が見えました。
手前の柱には「叶蔵紋」と書かれています。
峠の駅の「⑭十字蔵紋」のことだと思われます。
漢字の「叶」に十字が隠されているという、隠れキリシタン独特の工夫の一つですね。
ここにきて、ようやく隠れキリシタン遺跡らしきものを見付けられました。
っていうかもう三時間以上歩いています。( ;∀;)
この近くにあるという「松坂家」はよくわかりません。民家が多くなってきて。
っていうか、なんで「牛首家」とか「松坂家」はガイドマップに載っているのでしょう…???
かつてのキリシタンだったから???そのへんも判然としません…。
現地に来ても、説明板も何もないのですから。
「⑮切支丹墓石」の近くまで来ました。
どうやら、ここで間違いないようです。
こっちには「キリシタン墓碑」とあって、峠の駅の表記と違いますね。
さっきから、そういうことがすっごく多いんですよ…。もう、いい加減すぎ。
こちらの「キリシタン墓碑」はもう完全に民家の一角です。
配慮でそちらのお家は写真に撮っていませんが、お家の方がいたら挨拶は必須でしょう…。
ありました。これが「キリシタン墓碑」のようです。
え????なにやらお花のような図柄が…???
これは一体…???????
右二つはよく見えませんね。
なぜ草花の模様がキリシタンの証になるのかよくわかりませんが、私的な解釈で言えば、三本の草が「三位一体」の「主と子と精霊」を表している、ということでいいんですかね???
そういうこととか、書けばいいのに…(´・ω・`)
とりあえず、このトレッキングコースで初めて説明板を見ることができました。
他にはあるかなあ(´・ω・`)
道を渡って佐比内郵便局の方に来ました。
「⑰北村家」はおそらく郵便局の隣の家なのでしょうが、どんなご家庭なのかさっぱりわかりません。
この辺、「⑯高札場」とかあったはずなんですが…、
何も案内はありません…( ;∀;)
「⑱検断屋敷跡」も同様。なんの案内もありません。( ;∀;)
おそらく、この辺????
そして、最後、
このへんの小山が「⑲経塚」と思われますが、削られて民家になっています。
もちろん、案内も説明板もなし。( ;∀;)
ここから峠の駅は歩いて5分ほど。
全てのコースを回ってみて、4時間半ほど歩きました。
ええ、もう相当な距離ですよ。疲れましたとも。
何かを探しながら歩くって本当に疲れますからね。
で、タイトルは何でしたっけ?
「黄金とロザリオの風 歴史の里トレッキング」???
どこが???(´・ω・`)
ねえ、どこが???
どこかに黄金とかロザリオとかありました????
まあ、そんな感じです。
このブログを参考にこれ以上被害者が出ないことを祈ります。
アーメン 人(-ω-`*)
【撮影日:2023/5/13】
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