去年の今日、相変わらず朝からルーティンワークをこなしているとスマホが鳴った。
誰?と見ると母のホームから。
娘さん、お母さんが倒れて救急搬送されました。意識はありません。すぐ来てください😨
着の身着のままバックを背負いタクシーに飛び乗り大宮駅へ。新幹線は6時を過ぎたら動く。一番早い新幹線に飛び乗り高崎へ。
そこから救急搬送された病院へタクシーで乗り付けると付き添いしてくれたホームのスタッフさんがいた。
スタッフさんが母の管理ファイルを持って来てくれており、万が一の時は延命治療を拒否します!と署名捺印した書類を見せてくれた。
えっ?それって?
母はそんな状況なんですか?とスタッフさんに尋ねた。スタッフさんには状況はわかっていなかったのだが、万が一母が救急搬送されたらまず最初に娘にこれを見せて欲しいと母から常々頼まれていたと。
医師から説明。
脳幹出血と水頭症を併発している。手の施しようがないと。延命治療をどうするか?の質問だった。
膝から崩れた。
まさか?昨日までLINEしていた母が?
金沢と永平寺のお土産を喜んでいた母が?
手の施しようがない?
延命治療をどうするか?
頭がぐるぐる回った。
が、さっきスタッフさんが見せてくれた母の延命治療拒否の書類を思い出した。
母は大病をなんども繰り返し、頑張って克服してきた。倒れてホーム暮らしになってからも前向きに生きてきた。実は1人では食事をするために店に入る事もできない母だった。環境の変化に順応する努力を惜しまず、たくさんのお友達ができて、母は毎日置かれた場所で頑張って咲いていた。
医師に聞いた。
意識は回復しますか?と。
医師は難しい顔。意識が戻る事はないでしょう!とキッパリ。
それを聞いて私は腹を括った。
母の意思を尊重しよう。
先生。延命治療は拒否します。
母の意思を尊重します。
色々な入院手続きを済ませ、ホームに保険証を取りに行き、また病院へ。
面会謝絶だか、なんとかお願いして10分だけ母に会わせてもらえた。
お母さん。もう頑張らなくてよいから!
自然とそんな言葉が口をついた。
一旦帰宅して腑抜けになっていたら病院から電話が。三親等以内で会わせたい人がいるなら大至急連絡を取ってください。特別に面会を許可します。と。ああ!お母さん。
金沢の弟夫婦、私達夫婦、母の弟である叔父。すぐに連絡して駆けつけた。
母の友人やご近所さんにも会って欲しかったがコロナ禍。三親等以内でないと許可が降りない。惨い。
まさかこのまま母が逝ってしまうのか?
待ってよお母さん。でも頑張らなくてよいよ。なんて矛盾した心境。
しかし母は強かった。
延命治療を施さず21日踏ん張ってくれた。
それはすぐにパニックになる私が腹を括れるように、色々困らないように、葬儀やらであたふたしないように段取りをする時間をプレゼントしてくれたに違いない。
なんと言う気遣い。
こんな子孝行な親はいないよ😢
踏ん張ってくれた母のところへ一日おきに面会に行った。夜は寝室ではなく服を着て和室で仮眠した。何かあればすぐ駆けつけられるように。そして21日が経過した日。
病院から血圧低下徐脈すぐ来てくださいの電話が。幸い夫がいたので車を飛ばして病院へ、11月11日12時56分。
母は愛してやまない父の元へ。
夏場はすぐ枯れてしまう仏花。
綺麗な造花を飾って凌いでいたが、今日から生花に💐
あれから1年。
クリーニングに出しておいた礼服。
クローゼットから出したら妙なシワが😅
アイロンでスチームして皺伸ばし。
来月3日は母の一周忌法要。
でも。
実はまだ私はどこか信じていない。
母が亡くなった事実は受け止めてはいるのだが。母が私の中に入って一緒に生きてくれているような感覚になるのだ。
母は夢にもよく出てくるし、ふとした時は無意識に私は母に話をしている。