goo blog サービス終了のお知らせ 

もの想う鷲 (A thinking eagle)

自然・環境を科学してみる

日本の政治経済的課題(その4- - 1970年代の総括(2))

2007-04-01 20:08:24 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題(その4- - -1970年代の総括(2))
前回に引き続いて、1970年代の総括を続けます。日本は脅威の成長がまた復活できると信じて、政界、官庁、産業界とも知恵を絞りますが、当然のことながら、世界第2の経済大国の問題点は、アメリカもOECDも看過してはくれず各種の圧力がかけられたのです。お金は使い方によっては暴力になります。日本人として世界への影響を常に考える態度が必要です。見方によっては、アメリカについで2番目に、世界で暴力を振るう危険性を日本は持っているのです。著者は続けます。
”1970年~1971年の期間の日本の反応はヒステリーであった。いざなぎ景気で日本の脅威の成長の機械が停止したことを日本人は誰も理解していなかった。1969年に円を切り上げずに緊縮政策を取り、経済を成長路線に戻す為に、その障害になる全ての政策をやめた。日本だけでなく、ドイツと他のヨーロッパ諸国におけるドルを防衛する為の、外国為替市場での介入の結果、国際市場での通貨が急速に増大した。アメリカはニクソン大統領の下で国際社会に対して全く無責任に振る舞い続けた。貿易収支を改善する為には、輸出と代替輸入を増やすべく資源を自由にする為に、国内需要を抑制することが必要なことは良く知られている。しかし財政抑制と金融引き締めの政策を採用するどころか、ニクソン政権の政治は1972年の再選挙にのみ焦点を当てて、より一層放漫になった。税金は下げられ消費は増加し、利率は下げられた。貿易収支の赤字は減るどころか更に増えた。アメリカは世界にドルを注ぎ続けた。1970年の終わりから1973年初めまでの間に、国際通貨の流動性は2倍になった。円の切り上げにも拘らず、日本の経常収支は増加し続けた。表面的にはその理由は、世界規模の国際市場での通貨の増大により作り出された1972年~1973年の世界需要の増加であった。Bretton Woodsの固定外国為替システムの崩壊に続いて、最初の世界規模の大きな同期したブームが起こった。そこでは全ての大国の経済が同時に拡大したので、その需要の増加は記録的なものだった。”
”円の切り上げを抑える為になされた金融刺激は、1950年代1960年代の様に、脅威の成長機械を再スタートさせなかった。そこで政府支出である財政支出により、さらに財政刺激が行われた。均衡財政は1965年に放棄された(国債発行を禁止する法令は廃止された)が、1970年までの国債発行は、ごく抑えられたものであった(1970年で国債残高2.8兆円)。(この時点を境にして、日本は国債発行を漸増的に続けていくことになる)1971年佐藤内閣は前例のない1650億円の減税を発表した。1971年12月のSmithsonian Agreementに続いて、佐藤内閣は政府消費を22%増やし、公的投資を32%増やした。1972年7月に、田中首相は、年率で10%GNPを増やすことを目標にした日本列島改造論をもって、佐藤内閣を引き継いだ。同時に国際的にも、日本の構造的な経常収支の黒字の状態が続いていたので、日本のに対しての国際的な圧力が、繊維品の様な個々の貿易カテゴリから、一般貿易やマクロ経済政策に至るまでの問題に広げられたのである。1972年にはOECDさえもが、日本に1973年度は膨張政策を取るように要求した。ニクソンショックと円の切り上げを経験したにも拘らず日本の経常収支の黒字は減る気配がなかった。その故に田中内閣は1972年10月補正予算を組んで公共工事予算を更に増やした。1973年の予算は、(1972年10月補正予算を含んだ)1972年の合計予算に基づいて作られたが、政府消費は25%、投資はほぼ30%増やされた。会計と金銭の過剰の結果は予想されたものではなかった。それは、成長を加速するより、インフレを加速した。それはまた1つの新しい悪現象を生み出した。(ドルを守るために金を余らせ、金利を、再度、安くした1980年代にも出てくることになる)資産インフレである。ローンが豊富で安くなった時に、設備投資の必要がないので、土地と株式市場に投機する為に金を借りる競争が生じたのである。土地の購入のラッシュは田中内閣の列島改造論にも煽られて、開発が予定されている地域での土地の購入競争に発展した。資産投機は、不動産会社だけに留まらず、貿易、建設、投資会社、銀行、からさらに個人にまで広がった。製造メーカーは製品を作るより、財政資産を投機から儲けることに使ったのである。対象は土地だけではなくなった。会社は、他の会社の株式を購入する為にお金を借り始めたのである。さらに株式市場への投機で得た、資本利得は、営業利益とともに会社利益に計上できたから、株式市場の株式価格の上昇そのものが、会社の利益を押し上げ、それがまた株式市場の株式の価格の上昇を加速した。1972年3月と1972年12月の間に日経平均株価は66%上がった。工場のプラントや設備への投資ではそんなに短期間にそれほど多く儲けることはできなかったであろう。日本の宣伝の行き届いた貿易上の譲歩とこの野心的な経済刺激策もSmithsonian Agreementの固定外国為替制度の救済計画の崩壊を防ぐことは出来なかった。1973年2月13日、ドルは SDR (IMFのSpecial Deposit Receipts- - 外国通貨を一括したもの) に対して10%下げられた。そして円を含む全てのメージャな通貨は、ドルに対して浮動させられたのである。円は素早く 280円/ドル に上がった。日本とドイツの刺激策はドルを救うことは出来なかったけれども、経済が大きく過熱することを防ぐことには成功した。1970年~1971年のリセッションはニクソンショックの時に底をつき1972年の中ほどまでの1年間にはGNPは10%に加速した。しかしこれは今までとは異なった種類の成長だった。生産と製造能力が同じ率で上昇するというのではなく、製造能力一杯まで現存の余分の製造能力を使い切って生産を増やした結果であった。需要の圧力がかなり増えインフレを加速したのである。脅威の成長機械は、もはや10%の年率でGNPを増やすことは出来なかったのである。神武景気の末(1957年)の時の様に、1973年の夏ごろまでには、設備の不足とボトルネックが経済を息切れさせていた(throttlingさせていた)のである。発電所は需要の電力を賄えなかった。旱魃の結果、水でさえも不足した。石油化学の工場はその限度を超えて操業された結果、数多の爆発や事故を生んだ。これが全てではなかった。1972年~1973年の世界の同期的な経済のブームは原材料の世界規模の不足を生んだ。最初は建設材料、セメント、木材、鋼、しっくい、に集中したがすぐに紙やプラスティックにまで広がった。異常な気象条件が同時に世界の食料生産に打撃を与え、小麦、大豆、コーヒー、砂糖や綿花の供給を減少させた。ニクソン大統領はアメリカの食料品の価格を下げる為に穀物輸出を減らしたのが更に事態を悪化させた。物資の不足は供給品の争奪を生み投機の買いや隠しを生み、事態を更に悪化させ、価格を更に吊り上げる結果になった。土地と株式への投機に過剰で低利率の金を投資してきた日本の会社は、今度は投機的な原料買いや隠しに方針変更した。1972年~1973年に、日用品の価格は、世界的に、劇的に上がった。その結果各国は自国のインフレに、輸入したインフレを加えることになった。日本国内のインフレは大抵のOECDの加盟国より悪かったが、世界インフレを輸入した結果は災害的であった(1972年は12%、1973年は24%のインフレであった)。1973年の3月頃には、日本政府は警戒を強めていたが、この問題に対して強力な対策を講じることが出来なかった。過度の流動性を正す唯一の試みも、不動産取引への融資に対するの抑制であったが、お座なりなものであった。経済企画庁は  ’市場を囲い込み物資を隠す試み’ を防止する法律 を 作ったが、その法律は、既にその行為を行っていた大企業を抑える というよりも 中小企業の自殺の可能性を 増やすことになってしまった。大企業は、常に政治家や官僚と手を携えてやって来た。政府は法律を通すことによって、ひとかどのことをするという表示はするが- - -しかし効果的に実現されたものは1つも無かった。これが日本政治のやりかたであった、あるいは、日本人はその様に信じるようになって来た。”
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の政治経済的課題(その3- -1970年代の総括(1))

2007-03-25 15:58:02 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題(その3- - -1970年代の総括(1))
著者は言う。”日本の1950年~1970年の脅威の成長は、日本が、その旧設備を、西欧がその20~30年前に成し遂げた技術革新を生かした設備に入れ替え、その優れた国民をその西欧の技術に習熟させ、殆ど全ての国民をその設備の使用に充て、その革新された設備をフル稼働させ、得られた富をほぼ公正に分配して国民一丸となってその成長を支えさせ、政、官、業のコンセンサスで全てを管理したから達成できたのである。しかし一度最新式の設備を装備した国は、それからは、自らその技術を革新して生産性を上げ、労働力を増やしてそれに見合った設備を新設することによってしか、実質のGNPをあげることは出来ない。 従ってOECD加盟国の常識で言えば、技術革新で年率2~3%、労働力の成長が1~2%、合計で年率3~5%のGNPの成長しか期待できない。しかし日本人は1970年代はまだこのことを理解していなかった。” 
”現代国家の資本財はGNPの約3倍である。その磨耗損失はその5%になるので、その磨耗の修理費はGNPの15%になる。労働人口の2%増加は彼らの為に、約GNPの3% に相当する設備投資が必要になる。労働人口の2%増加そのものもまた、約GNP3%の費用になる。現存の労働人口もまた技術革新された設備を必要とするし、社会資本も必要である。結局年率5%のGNPの成長の為には、GNPの約30%の投資が必要であるが、日本は1970年~1980年の投資はGNP対比で、1970年の39%から1980年の30%へ漸減している。またGNPの成長は、円の固定相場制から変動相場制への移行、ニクソンショック、第1次オイルショック、第2次オイルショックなどがあり大きく変動したが、第1次オイルショック時の1973年10月~1974年4月を除けば、OECD加盟国平均より少し上であり、10年を平均すれば約年率4%であった。また貯蓄と投資の関係も1965年を境に変化した。それまでは投資の慣性が貯蓄のそれを上回り、周期的に投資が貯蓄を上回ったが、1965年以降は慢性的に貯蓄が投資を上回り、常にGNP比約40%であった。(上記の投資(GNPの39~30%)を上回った訳である)”
著者はまた、Bretton Woods固定為替レート制度の崩壊とその当時の情勢を次の様に分析している。
"1967年までは、日本のインフレは他のOECD加盟国と同じ位で推移したが、1967年には他国と同じく上昇に転じた。1949年以来初めて、経常収支の問題に対処するより、物価上昇を抑える為に、需要を抑える緊縮政策を取った。このときの経常収支はGNP比+1%であった。これまでこのレベルに達したのは、1959年と1964-1965年のみであった。この政策は1969年から1年間導入された。これは国内需要を消沈させインフレを抑制したが、経常収支は、1971年1972年ともGNP比+2.5%となり大きな国際問題となった。ドイツがマルクを再評価した1969年の同じ時に円を再評価する方が賢明な政策であったであろう。そうすることにより、輸出の競争力を弱め輸入をより魅力的にして、国内需要を抑制し、輸入をより安くし、経常収支を増やさずにインフレを抑えたであろう。この経常収支のGNP比+2.5%はニクソン政権下のアメリカの怒りを買い、日本はデフレ政策を余儀なくされたのである。引き続いて起こったBretton Woods固定為替レート制度の崩壊の唯一の原因が日本の取った行動であるという訳ではない。より根本的な原因は、この制度のアンカーとして行動することをアメリカが拒否したからである。アメリカはその経費をアメリカ国民に負わせることなしにベトナム戦争を戦った。世界のその他の国々との貿易収支の赤字も抱えながら、アメリカは、特にヨーロッパに対しての、長期の資本の流出を制限する努力をしなかった。ヨーロッパはアメリカと同じインフレの道を取るべく通貨を膨張させることが出来ただろう。もしアメリカからの輸出が高くなれば、その解決策は、日本とドイツが彼らの輸出を同じ程度に高くする対策をとることであった。円を再評価する覚悟が無いのならば、日本は予算と金融政策において、アメリカと同じようにインフレ政策をとることによってその様に出来たであろう。単純な事実はアメリカが、ドルの交換レートを保護する為に、遅い成長と緊縮財政の政策を追求する覚悟が無かったということである。全く反対であった。1968年に大統領になったニクソンは1972年に再選に直面していた。1971年の初めは経済は弱かった。アメリカの経常赤字または資本の流出への影響に拘らず、彼はその故に経済の刺激策を取った。確かに彼はドルを消費することを奨励した。Bretton Woods固定為替レート制度から大いに利してきたその他の国々はこの制度を救うことができた。しかしそれをしなかった。外国資本は1971年3月ドイツに逃げて来た。ドイツはマルクを浮動させざるを得なかった。逃げ込んできた資本はその目的地をベルギーとフランスに変えた。フランスは素早くアメリカ連邦準備金システムでドルを金に交換した。アメリカのFort Knoxの金をフランスが ’銀行強盗’ したために、アメリカはドルの金との交換性を中止せざるを得なかった。これが所謂ニクソンショックである。1971年8月15日、ニクソン大統領は、外国の中央銀行はもはやドルを固定レートで金と交換できないと発表した。国々はドルは金と同じであると信じてドルを保持したが、利子も稼いだ。ドルはいつでも金に交換できるので誰も売りたくなかった。交換できなくなったので誰もそれを保持したいと思わなくなった。ニクソンは輸入品に10%の課税をしたが、これはドルを下げた分だけ税金で上げる秘密の方法である。外国援助も10%減らした。そしてアメリカの賃金と物価を90日凍結した。それとともにアメリカの需要を刺激する為に減税を行った。このことは、アメリカはもっと輸入を増やし、経常収支の赤字を更に増やすことを意図したのであろう。このことは他の国々が彼らの準備金により多くのドルを保持することによってのみ融資されることができたのです。日本はショックのあまり直ちに反応出来なかった。東京株式市場は値崩れした。しかしヨーロッパがその外国為替市場を閉鎖して、外国為替を変動させたが、日本の外国為替市場は開けたままだった。ドルは円に流れ込み日本銀行は円の上昇を防ぐ為ドルを買わざるを得なかった。しかし円の上昇を止めることは出来ず8月28日円は浮動させられ直ちに値上がりした。1971年12月ワシントンのSmithsonian Institutionで行われた固定為替レート制度を復活させる努力(Smithsonian Agreement)が行われたがこれも保持されたのはたった14ヶ月間だった。このAgreementにより、円は360円/ドルに対して17%上げられ308円/ドルに固定されたが、ドイツマルクに対しては3%、英国ポンドとフランス・フランに対して7.7%上げられた。しかしアメリカはこの協定で10%の輸入税を廃止した。アメリカは日本の最も重要な貿易相手であったので、円の17%の上方修正は問題であった。しかしこの時の円の17%の上方修正のパニックは、時間が経過した現在では、評価することは難しい。そのパニックは未知のものに対する恐れであった。円レートは20年強の間、固定されて来ただけでなく、この間、円の価値を保護するべく周期的に経済政策は緊縮政策を取られてきた。安定した為替レートは、長期に亘る急速成長に不可欠であるという根拠に基づいて、急速成長よりも、短期的には、優先されて来たのである。そのパニックはまた1969年の財政引締めのために既に始まっていた経済の下降傾向の為でもあった。1971年の円の17%の上方修正は、金融引き締めを再度行うこととして見られたから、リセッションを不況に変える可能性があった。これらの恐れは、1970-1971年のリセッションは、日本だけに限ったことではないという事実の故に、複雑なものだった。全ての大国に同時進行する経済の下り傾向があったのである。”

出来るだけ厳密な翻訳を心がけましたので、こなれた文面になっていませんがご容赦戴きたい。1970年代は後2回くらい継続する必要がありそうです。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の政治経済的課題(その2)

2007-02-26 14:17:27 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題(その2- - -1970年までの総括)

1951年9月8日にサンフランシスコで、連合国48ヵ国と日本との対日講和条約が締結されましたが、この時の日本の全権大使の当時の吉田茂首相がこの調印の時に言われた言葉として、次の言葉 を この本の著者 Brian Reading は、本の 緒言に引用しています。
 ”The United States was once a colony of Great Britain but it is now stronger of the two. Likewise, even if Japan becomes a colony of the United States, it will eventually become the stronger."
(アメリカはかってイギリスの植民地でしたが、今はイギリスより強い。同様に、日本も、もし仮にアメリカの植民地となっても、究極的には日本の方が強くなるでしょう)
この調印後、直ちに日米安全保障条約をも締結し、アメリカ軍の駐留を認めたのですが、まだ復興も緒についたばかりの日本の首相が、これだけの気概を持っていたのかと思うと畏敬の念が湧いてきます。

著者は言います。”日本はアメリカの植民地の様になったが、アメリカは防衛の保護とアメリカの市場を日本に与え(1950年~1970年の期間の日本のGNPの成長率はアメリカのそれとほぼ平行している。即ちパーセントの値は違うが、グラフの形状が酷似している。)、日本は殆ど代償を払う必要が無かった。その結果工業的には日本の方が強くなった。吉田首相はこのことをいみじくも予言した” と。さらに”法律は制定されたが、大雑把なもので、とても法律とは言えない。法律の足りないところを省庁の担当課長の口頭の窓口指導(window guidance)で補足し、殆どのことが、政、官、業の話し合い(価格設定カルテルの黙認、4大証券会社による証券市場の操作の黙認、等)で行われた。さもなくば1950年~1970年の間のGNPが6倍になる経済成長は無かった。法律を厳正に運用する民主主義と資本主義の市場主義のもとではこんな成長は成し得ない” と。(著者は日本のシステムを”新封建会社主義(neo-feudal corporatism)(*下記注参照)" と呼ぶ)

しかしこの時から56年もたった今言えることは、アメリカより強くなることが必ずしも日本国の目標ではない と私は思います。もっと多くの選択肢を模索し、国としての目標を持つ必要があります。工業的にはアメリカを目指すべきですが、今 一番工業先進国で安全な国の一つは日本であります。環境先進国では頭抜けてトップがキューバです。持続可能な開発を、経済制裁をアメリカから受けながら、遂行しており、、病院も学校も無料で、人々は、有機農業、自転車、風車、太陽電池、自然医療等、エコロジストが長年夢見てきたユートピアを、現実のものとして来ていると報告している本もあります(吉田太郎著”1000万人が反グローバリズムで自給自立出来るわけ”(築地書館刊行))。カストロ首相の指揮下で、環境と調和したスローライフを目標として頑張っているのです。共産主義国で成功している唯一の国です。カストロ首相は常に人民の目線で考え行動しているようです。1992年6月のリオ・デ・ジャネイロでの地球サミットのカストロ首相の演説は圧倒的な人気を博しました。安全も日本より上かもしれません。

また国民総生産ではなく国民総幸福度を目標としているブータンがあります。小乗仏教を信奉しており、日本人には、タイや、チベット の様に精神文化的に近い国です。

今、日本は、次世代の人から仕事を奪う、工場の後進国への急速なシフトや、人々から職を奪うリストラをやり、従業員の40%もの契約社員、パートをもつ会社を許容して格差を生み、将来の年金さえ不安視される状況になりました。年金を払える人たちを大幅に減らす施策が次々と行われているのです。何故次世代の人たちのことを考慮した20年先30年先の目標を見据えて、その目標を実現する為の中短期計画にしないのでしょうか。

リストラをする代わりに、全従業員の給料を下げ、一丸となって目標達成に勤しむことを、経営者も労働組合も目指すべきです。年金が、積立方式であれ、賦課方式であれ、老いた世代は若い世代に養ってもらわなければならない 事を胆に銘ずべきです。
環境を守りながら、若い人たちの職業を守り、新しい職業を創出することに国民の努力を傾注することを心がけるべきです。
また医療保険が払えない人の保険証を取り上げて病院にも行けない様にしている行政があるとテレビでも報じていますが、このようなことは 憲法に保証する基本的人権を犯す行為です。そのようなことをする前にいくらでもする事があるはずです。行政の長たるべき人はしっかりと監督をして戴きたいと思います。

少し横道にそれましたが、SCAP(マッカーサー連合軍最高司令官)の日本統治の方針から始めましょう。
その目的は以下の通りです。
日本の軍国装置を分解しそれが依拠した工業力を破壊すること。経済的には1926年~1930年に到達していた産業化の状態に戻すこと。政治的には民主主義を課すこと。その殆ど唯一の目的は、集約的に、無差別に 日本の軍国主義そのものと非難された日本の支配階級の権力、特権、富を破壊することであった。そして日本の重工業の設備は賠償で該当国に移すつもりだった。
”日本政府に課した経済政策の条件は、国債発行を許さぬ厳しいものであり、工業への再建ローンや間接の奨励金も中止され、一方で労働組合は団結権や争議権を与えられ、共産主義も人々の心を捉え、朝鮮戦争が起こらなかったら、日本は無政府状態に陥り、SCAPの統治は完全な失敗に終わったであろう” と著者は言う。
従って、共産主義の脅威が無かったら、アメリカは寛大に日本の援助をしなかったであろうと思われます。

韓国や北朝鮮の方々には不運でしたが、朝鮮戦争の為に、経済も成長を始め、SCAPも6年間の統治を終え帰国し講和条約も締結し日本の経済成長がスタートした。日本国民は、衣、食、住 以外は殆ど全て貯金し、政府はそのお金で産業の設備を近代化し、欧米の技術を習得して、神武景気(1955年~1957年)、岩戸景気(1958年~1961年)、池田首相の所得倍増計画、いざなぎ景気(1965年~1970年) を経験し、1950年から1970年の間にGNPを6倍に伸ばした(世界歴史の中で未だ嘗て無い快挙)。また1965年には国債を発行できるように法律を改正し、国債も発行を始めて、政府の財政運営も楽になってきた。

次回は、1970年代の総括をしたいと思います。

注記:
日本の”新封建会社主義(neo-feudal corporatism)"の著者の定義
西欧の資本主義:会社はその所有者、即ち株主の利益の為に運営される。会社の経営陣、従業員、協力会社、や顧客の利益は二次的である。確かに彼らも重要であるが、利益に影響を及ぼすからという範囲において重要なのである。
日本の”新封建会社主義(neo-feudal corporatism)":会社はその債権者、債務者、経営陣、従業員、協力会社、と顧客の利益の為に運営される。日本の大会社の上層経営陣は自己永続的な(self-perpetuating)寡頭経営陣(oligarchy)である。会社間の株の持ち合いの為に、それ以外の外部の株主の数は限られている。株主が新しい取締役の任命を妨害したり、古い取締役の辞任を強要することは事実上無かった。日本の会社の社長や会長は不名誉なことが起きたら、早めに辞任する。これは稀ではない。というのは彼らは、自身が悪くなくても、会社に影響を及ぼすスキャンダルの責任をとるからである。日本では大企業とスキャンダルは不可分である。かくして健全なトップの交代が保証されるのである。しかしながら経営陣は短期の株価の動きに対して殆ど責任がないから、その優先順序のトップに長期の利益と成長を置くという贅沢を享受している。結局において 債権者、債務者、経営陣、従業員、協力会社、と顧客の利益は、概して株主の利益と合致するのである。   



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の政治経済的課題(その1- -1970年までの日本経済の歩み)

2007-02-17 02:11:45 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題(その1- - -1970年までの日本経済の歩み)

私は技術屋ですから、政治経済の知識については、歴史的、理論的、体系的な知識は皆無と言ってよいので、日本の政治経済的課題など論じる力はありませんが、今の時代には、皆様も同じだと思いますが、黙認できないことが多々出てきます。一般人の常識で私なりに日本の課題について考えてみたいと思います。

イギリスの有名なエコノミストのBrian Readingが1992年に発刊した"Japan, the coming collapse" (LondonのGeorge Weidenfeld and Nicolson Limitedの発刊の本)(日本、来るべき崩壊)とでも訳しておきます)は素人の私でも的を得たと思われる点が多くあるのでこの本の力を借りて、私の考え を纏めたいと思います。

日本は先進国の中では、唯一の人種的に単一民族であり、また稲作を中心とした灌漑農業が中心の歴史を持ち、その故もあり、非常にグループ意識の強い国家であります。(ゆわゆる村社会であります)また精神的には仏教と神道を中心とした穏健な思想をもった国民から成っています。また東洋の常である様に封建制度を現代に持ち込みました。
明治維新でも薩長中心の、復古神道に立脚した形を変えた封建主義が残った、新封建制度 とも言える、皇族、貴族、薩長閥、財閥、軍閥、地主 (支配階級)と 一般民衆(被支配階級) という構成でした。
明治維新は、幕末のペリーの来航によって危機を感じた幕府や薩長が必死に成し遂げた富国強兵でした。
明治維新で列強のしんがりに辛うじてついたのですが、日清戦争、日露戦争を経て、停滞期を迎えて、軍部が徐々に力を強め、文官を押しのけて、軍部独裁に陥り、当時の列強と同じく、経済の停滞を外国侵略によって、打開しようとしたのは、皆様もご存知の通りです。
太平洋戦争は無理な侵略戦争でありましたので敗戦は当然でしたが、そのおかげで、SCAP(マッカーサー連合軍最高司令官)のもとで行われた統治は、当時のアメリカの理想とした憲法や税制(シャープ税制)、のもとに、財閥解体、農地解放による 新封建制度 の打破、など彼らの理想を押し付けられたものでしたが日本の民主化には大きな功績を挙げました。長期の国債の発行は禁止され(1947年)、短期の国債は期限での償還を義務付けられ、それもまた1949年禁止(ドッジ計画)され、国政の舵取りはは大変だったようです。
行き詰まりを打開してくれたのが朝鮮戦争でした。これを境に経済は活気を取り戻し、1950年代の日本は年率7%(1960年までの10年間でGNPは2倍)、1960年代は年率11.6%(1970年までの10年間でGNPは3倍)の世界歴史上でも未だどの国も成し遂げたことの無い、脅威の高度成長 を達成しました。
またSCAPは1951年成功裏に日本国民に感謝され帰国し、それに替わって、日米安全保証条約が締結されました。
日本国民の努力は讃えられるべきですが、、ソ連と中国の共産主義の脅威が増してきて(ベトナム戦争も含め)、アメリカが日本をベースにしてこの脅威に対抗する必要が出てきて、日本への援助に本腰を入れてくれたこともこの 脅威の成長 を支えた一因でもあります。これらの運にも恵まれて今日の日本があるということが出来ます。
しかしこの結果日本はアメリカに次ぐ世界第2の経済大国に成長したのです。
成長至上主義の為に、水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病などの公害も本格化し、その痛みも経験しました。
SCAPが引き上げてから、シャープ税制の骨抜きが政治家と官僚の手によって始まり、日本の税制は屈曲した先進国では唯一の複雑なものになりました。また1952年からは財政投融資計画(Fiacal Investment & Loan Program)という、短期国債を禁止したドッジ計画を骨抜きにする巧妙な国債発行が行われ始め、1965年には長期の国債の発行禁止を解き今日の国債垂れ流しの始まりとなりました。

1970年代は国際社会にとって大きな試練が襲ってきました。1970年には、Bretton Woodsの固定相場制が崩壊し、1972年から翌年にわたってインフレが進行し1973-1974年には第1次オイルショックが起こりこれが1974-1975年の世界経済のリセッションに発展し1976-1977年は少し回復しましたがすぐに息切れし、1979-1980年は第2次オイルショックを経験しました。

次回は1970年までの総括を簡単にしてみたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする