“靖国問題”に対する私見 ---- 一仏教徒として (その一)
“靖国問題”は、日本にとって、今後の 東アジア との関係において、大変重要な問題であると思います。
日本は、東アジアの優れた哲学(仏教と儒教)の恩恵の下に、自らの文化を発展させて来たにも拘らず、その恩のある東アジアを侵略したこと を 認識することなしに、“靖国問題”を乗り越えることは出来ないと思うからです。
江戸末期の尊王復古の思想である、“復古神道”により、薩摩、長州、土佐の武士達を中心とした人達は、倒幕、王政復古、明治維新を起こし、西洋文明を取り入れて、文明開化を成し遂げて、日本国を発展させてきましたが、西洋の先進国と同じ様に、国土拡張のために恩のある中国をそしてインドまでも、侵略しようとしたのです- - -第二次世界大戦。
その結果敗れてアメリカの庇護の下に立ち直り、先進国へと進化していったのですが、今になっても第二次世界大戦の過ちを本当の意味で認識出来ていない政治家が多く居るのが残念です。
その理由のうち一番大きいのが、この“復古神道”の考え方を、知らず知らずに、今も多くの政治家が引き継いでいるからだと思います。
“復古神道”は、江戸時代に、荷田春麿、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤と引き継がれ発展した神道であり、“儒教、仏教を外来のものとして排斥し、古事記、日本書紀を中心した 日本の神道は、独立して発展し、儒教や仏教より優れたものであり、日本は神に守られた無敵の神州である”とするものです。
この神道は、それまで、儒教や仏教の下に置かれていた神道を、これらより優れたものとする思想でありますが、その理論は専門家の言を待つまでもなく、一般人が読んでも牽強付会で創作であることが判ります。江戸末期の列強の開国要求に応じた幕府政治では、当時の難局を乗り切れないと判断し、王政復古に望みをかけざるを得なかった情勢が、薩摩、長州、土佐の武士達をして、この復古思想に向かわせたのです。
その結果、倒幕、王政復古、明治維新、と進んでいったのです。
当然、王政復古(大政奉還)と同時に神仏分離令が出され、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。
その後の発展の過程で、日本は、日清戦争、日露戦争へと進んでいったのです。
昭和に入って、海軍は米内光政(陸中-盛岡)、井上成美(陸前-仙台)、山本五十六(信濃-長岡)、等の儒教を思想の根幹にもつ、優れた人材の参謀部を持ち、英国式教育(幹部候補生のオックスフォード、ケンブリッジ大学留学)も合わせ、首尾一貫した統率の下、到底勝ち目の無いことを感知していた、英国、米国との戦争を回避すべく全力を尽くし、日本の発展は希求しましたが、中国の侵略は意図しなかったのです。
しかし陸軍は、薩摩、長州、を中心に維新以来の復古神道を信奉する人々が参謀を占め、また統率力無く、頻繁に起きた前線での国際法違反の無法行為をも取り締まれず、また政府も、数で圧倒した陸軍に引きずられ、遂には第二次大戦に突入せざるを得なくなったのです。
儒教や仏教の信奉者にとっては、今まで一度も日本を侵略したことの無い、孔子と孟子の国、中国を、況や、釈迦の国インドを、侵略することは、到底思いもつかないと思います。
(蒙古来襲は、中国の侵略ではなく、蒙古人による侵略です)
上述の様に、明治維新を起こした人達は、岡倉天心の様に中国やインドを崇拝していた人は、殆ど皆無で、当時の科学技術の進歩の著しい、西洋崇拝の人達ばかりであった様に思われます。
第二次大戦後も、日本は西洋に追いつき追い越せの西洋崇拝一辺倒で、東洋の心を忘れてしまったと言っても過言ではないでしょう。
“靖国問題”は、日本にとって、今後の 東アジア との関係において、大変重要な問題であると思います。
日本は、東アジアの優れた哲学(仏教と儒教)の恩恵の下に、自らの文化を発展させて来たにも拘らず、その恩のある東アジアを侵略したこと を 認識することなしに、“靖国問題”を乗り越えることは出来ないと思うからです。
江戸末期の尊王復古の思想である、“復古神道”により、薩摩、長州、土佐の武士達を中心とした人達は、倒幕、王政復古、明治維新を起こし、西洋文明を取り入れて、文明開化を成し遂げて、日本国を発展させてきましたが、西洋の先進国と同じ様に、国土拡張のために恩のある中国をそしてインドまでも、侵略しようとしたのです- - -第二次世界大戦。
その結果敗れてアメリカの庇護の下に立ち直り、先進国へと進化していったのですが、今になっても第二次世界大戦の過ちを本当の意味で認識出来ていない政治家が多く居るのが残念です。
その理由のうち一番大きいのが、この“復古神道”の考え方を、知らず知らずに、今も多くの政治家が引き継いでいるからだと思います。
“復古神道”は、江戸時代に、荷田春麿、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤と引き継がれ発展した神道であり、“儒教、仏教を外来のものとして排斥し、古事記、日本書紀を中心した 日本の神道は、独立して発展し、儒教や仏教より優れたものであり、日本は神に守られた無敵の神州である”とするものです。
この神道は、それまで、儒教や仏教の下に置かれていた神道を、これらより優れたものとする思想でありますが、その理論は専門家の言を待つまでもなく、一般人が読んでも牽強付会で創作であることが判ります。江戸末期の列強の開国要求に応じた幕府政治では、当時の難局を乗り切れないと判断し、王政復古に望みをかけざるを得なかった情勢が、薩摩、長州、土佐の武士達をして、この復古思想に向かわせたのです。
その結果、倒幕、王政復古、明治維新、と進んでいったのです。
当然、王政復古(大政奉還)と同時に神仏分離令が出され、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。
その後の発展の過程で、日本は、日清戦争、日露戦争へと進んでいったのです。
昭和に入って、海軍は米内光政(陸中-盛岡)、井上成美(陸前-仙台)、山本五十六(信濃-長岡)、等の儒教を思想の根幹にもつ、優れた人材の参謀部を持ち、英国式教育(幹部候補生のオックスフォード、ケンブリッジ大学留学)も合わせ、首尾一貫した統率の下、到底勝ち目の無いことを感知していた、英国、米国との戦争を回避すべく全力を尽くし、日本の発展は希求しましたが、中国の侵略は意図しなかったのです。
しかし陸軍は、薩摩、長州、を中心に維新以来の復古神道を信奉する人々が参謀を占め、また統率力無く、頻繁に起きた前線での国際法違反の無法行為をも取り締まれず、また政府も、数で圧倒した陸軍に引きずられ、遂には第二次大戦に突入せざるを得なくなったのです。
儒教や仏教の信奉者にとっては、今まで一度も日本を侵略したことの無い、孔子と孟子の国、中国を、況や、釈迦の国インドを、侵略することは、到底思いもつかないと思います。
(蒙古来襲は、中国の侵略ではなく、蒙古人による侵略です)
上述の様に、明治維新を起こした人達は、岡倉天心の様に中国やインドを崇拝していた人は、殆ど皆無で、当時の科学技術の進歩の著しい、西洋崇拝の人達ばかりであった様に思われます。
第二次大戦後も、日本は西洋に追いつき追い越せの西洋崇拝一辺倒で、東洋の心を忘れてしまったと言っても過言ではないでしょう。