2013年2月15日 アインシュタイン博士 と お釈迦さま
2012年2月15日の日記に仏陀の哲学(存在観(生命観)、宇宙感)とアインシュタインの相対性理論の世界とは共通するものがあると記しましたが、マレーシアの友人が私のこの記述を見て、インターネットで同じようなことを言っている人がいると教えてくれました。
インターネットで調査した結果、以下のことがわかりました。
Mr. Thomas McFarlane はオレゴン州の田舎で育ち、文学をOregon Honors Collegeで、Stanford大学で物理を、数学をUniversity of Washingtonで、哲学と宗教をCalifornia Institute of Integral Studies で、それぞれ学ばれた。この本のエッセイは過去10年以上の間に、彼が行った講演、と雑誌に寄稿した彼の論文と会議で行った彼の講演の記録によっています。
彼は現在、カリフォルニア州のPalo Altoで特許事務所の共同経営者をされています。但し、この彼の来歴は「アインシュタインと仏陀」という本を出された2002年までのものです。
その1
アインシュタイン
一般相対性理論によれば、物質的内容を持たない 宇宙の観念は 存在しない。
仏陀
太陽や遊星を持たない 唯の空虚な宇宙があるならば、その時宇宙はその実質を失う。
その2
アインシュタイン
物理の観念は、人間の自由な創造物であり、外見はその様に見えるかも知れないけれども、外的な世界によって一元的に決められているのではない。
仏陀
因果関係、連続、原子、元素のような全てのこの様な観念は、全て 人間の想像と啓示の産物である。
その3
アインシュタイン
屡、理解したいという熱情のために、如何なる経験的基礎なしに- - -簡単に言えば、形而上学によって- - -人間は、客観世界を純粋な思考によって合理的に理解できるという幻想に陥って来た。
仏陀
名前と形は、精神活動そのもの以外の何物でもないということを悟ることなしに、名前と形に執着することによって、過ちが起こり、- - -そして解脱への道が閉ざされるのである。
その4
アインシュタイン
我々の思考において- - -元来それ(形のある物体)を生んでいる 感覚による印象 から 高度に独立している意義 を 形のある物体に、我々は与えている。我々が、形のある物体に「現実の存在」を与えるとき、これが、我々が意図しているものである。その様な観念と観念と意義の間の関係の力によって、我々は感覚による印象の迷路に陥ってしまう。これらの観念と関係は- - -個々の感覚による経験自身より、強く、より変更しがたく見える。そしてこれらの観念と関係は、幻想や幻聴の結果以外のものとして、決して完全には保障されないのである。
仏陀
多様な物質はそれら自身には実質を持たないが、人間の精神の働きにより、したがって末那識と夢の性質により、見えるのである と私は説いている。- - -確かに、ある観点ににおいて、それら(多様な物質)は、個別化された物体として、感覚によって見られ区別される;しかし、観点を変えれば、その本質に如何なる特徴的なものをも欠いているために、見ることができなくて、ただ想像されるだけである。ある観点に立てば把握可能だが、観点を変えれば把握できないのである。
その5
アインシュタイン
知覚している主体から独立した外部世界があるということを信じることは、全ての自然科学の基礎である。しかしながら、感覚による知覚はこの外部世界の情報、言い換えれば「物理的現実」を間接的に与えるだけであるから、我々は「物理的現実を」思考の手段によって把握することができるだけである。このことから、物理的現実の観念は決して最終的なものではないということになる。知覚された事実を、論理的にもっとも完全な方法で正しく扱うために、我々は常にこれらの観念- -すなわち、物理学の公理的基礎 - -を変える用意がなくてはならない。
仏陀
如来は、教えの中で、観念と観念についての考え方を利用するが、弟子たちは、全てのこの様な観念や考え方の非現実性を心に留めるべきである。弟子たちは、如来が仏法を説明する時、観念や考え方を利用するが、川を渡るためにのみ有用な筏の様な形で、如来は 観念や考え方を常に利用するということに思いを馳せるべきである。川を渡ってしまったら筏はもう役に立たないのだから、それは捨てられるべきなのである。だから事物と事物についてのこれらの任意の観念は、悟境に達した後は、全面的に放棄されるべきである。
以上は私が日記の中で記した、漠然とした考えとは、違った側面ですが、興味があります。Mr.Thomas John Macfarlaneの上記の本を私は未だ読んでいませんが、近く購入して読むつもりです。
合掌
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
2012年2月15日の日記に仏陀の哲学(存在観(生命観)、宇宙感)とアインシュタインの相対性理論の世界とは共通するものがあると記しましたが、マレーシアの友人が私のこの記述を見て、インターネットで同じようなことを言っている人がいると教えてくれました。
インターネットで調査した結果、以下のことがわかりました。
Mr. Thomas McFarlane はオレゴン州の田舎で育ち、文学をOregon Honors Collegeで、Stanford大学で物理を、数学をUniversity of Washingtonで、哲学と宗教をCalifornia Institute of Integral Studies で、それぞれ学ばれた。この本のエッセイは過去10年以上の間に、彼が行った講演、と雑誌に寄稿した彼の論文と会議で行った彼の講演の記録によっています。
彼は現在、カリフォルニア州のPalo Altoで特許事務所の共同経営者をされています。但し、この彼の来歴は「アインシュタインと仏陀」という本を出された2002年までのものです。
その1
アインシュタイン
一般相対性理論によれば、物質的内容を持たない 宇宙の観念は 存在しない。
仏陀
太陽や遊星を持たない 唯の空虚な宇宙があるならば、その時宇宙はその実質を失う。
その2
アインシュタイン
物理の観念は、人間の自由な創造物であり、外見はその様に見えるかも知れないけれども、外的な世界によって一元的に決められているのではない。
仏陀
因果関係、連続、原子、元素のような全てのこの様な観念は、全て 人間の想像と啓示の産物である。
その3
アインシュタイン
屡、理解したいという熱情のために、如何なる経験的基礎なしに- - -簡単に言えば、形而上学によって- - -人間は、客観世界を純粋な思考によって合理的に理解できるという幻想に陥って来た。
仏陀
名前と形は、精神活動そのもの以外の何物でもないということを悟ることなしに、名前と形に執着することによって、過ちが起こり、- - -そして解脱への道が閉ざされるのである。
その4
アインシュタイン
我々の思考において- - -元来それ(形のある物体)を生んでいる 感覚による印象 から 高度に独立している意義 を 形のある物体に、我々は与えている。我々が、形のある物体に「現実の存在」を与えるとき、これが、我々が意図しているものである。その様な観念と観念と意義の間の関係の力によって、我々は感覚による印象の迷路に陥ってしまう。これらの観念と関係は- - -個々の感覚による経験自身より、強く、より変更しがたく見える。そしてこれらの観念と関係は、幻想や幻聴の結果以外のものとして、決して完全には保障されないのである。
仏陀
多様な物質はそれら自身には実質を持たないが、人間の精神の働きにより、したがって末那識と夢の性質により、見えるのである と私は説いている。- - -確かに、ある観点ににおいて、それら(多様な物質)は、個別化された物体として、感覚によって見られ区別される;しかし、観点を変えれば、その本質に如何なる特徴的なものをも欠いているために、見ることができなくて、ただ想像されるだけである。ある観点に立てば把握可能だが、観点を変えれば把握できないのである。
その5
アインシュタイン
知覚している主体から独立した外部世界があるということを信じることは、全ての自然科学の基礎である。しかしながら、感覚による知覚はこの外部世界の情報、言い換えれば「物理的現実」を間接的に与えるだけであるから、我々は「物理的現実を」思考の手段によって把握することができるだけである。このことから、物理的現実の観念は決して最終的なものではないということになる。知覚された事実を、論理的にもっとも完全な方法で正しく扱うために、我々は常にこれらの観念- -すなわち、物理学の公理的基礎 - -を変える用意がなくてはならない。
仏陀
如来は、教えの中で、観念と観念についての考え方を利用するが、弟子たちは、全てのこの様な観念や考え方の非現実性を心に留めるべきである。弟子たちは、如来が仏法を説明する時、観念や考え方を利用するが、川を渡るためにのみ有用な筏の様な形で、如来は 観念や考え方を常に利用するということに思いを馳せるべきである。川を渡ってしまったら筏はもう役に立たないのだから、それは捨てられるべきなのである。だから事物と事物についてのこれらの任意の観念は、悟境に達した後は、全面的に放棄されるべきである。
以上は私が日記の中で記した、漠然とした考えとは、違った側面ですが、興味があります。Mr.Thomas John Macfarlaneの上記の本を私は未だ読んでいませんが、近く購入して読むつもりです。
合掌
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏