ねこのみなさんごきげんよう。
おさむいきせつがやってきます。
おけなみの生やし変えはおわっていますか。
しもべのいるねこさんは、このじきはしもべに
おていれをしっかりさせましょう。
よりみつなおけなみとなり、さむさが
ほんのちょっとだけましになります。
ぜんかいねこさんのおねんねについてかきましたので、
こんかいはねむるしもべについて、ぼくはいいます。
いつか、ぼくはねむるしもべがきらいだと
かいたことがあるようにおもいます。
ねむるしもべから、ぼくはとんでもないしうちをうけるからです。
しもべは、ねむるしもべになりますと、ぼくがどれほどつよいおきもちで
にゃーんをしても、ぼくのところにかけつけることもなければ
きのぬけたへんじのひとつもしないありさまです。
おきているしもべにはありえないこのふるまいに、
しんぱいになったぼくがそっとよりそえば、
ぼくのおからだめがけてようしゃもなくふりおろされるしもべのうなるうで、
きけんをさっちしてみをひるがえしたぼくにつきだされるまるたのようなあし、
おどろきのあまりたちすくむぼくをひっくりかえし、
ひっくりかえされたままぼうぜんとしているぼくにあたまをごんごんぶつけてきたり、
しっぽっぽをしたじきにしてうごけなくしたり、
そのついでにぼくさえもしたじきにしようとしてきたり
とつじょとしておおごえをだして
ぼくとしっぽっぽにきょうふをあたえる
など、ぼくがこうむるきけんはまいきょにいとまがありません。
このような非道をはたらくいきものと、
せいいをもってつかえているしもべが
おなじものとはとうていおもえません。
そしてぼくはじっさい、べつものだと
ながねんのかんさつよりけつろんをしました。
たしかにみためはかわらずしもべでしょうが
べつものでなければ、はなしがはじまらないのです。
なぜなら、このような行いは、しもべでないにんげんにあっても、
おいそれとできるものではありません。
こんなことができるのは、もはやにんげんではないにんげんのみです。
もし、しもべとねむるしもべがいっしょだというならば、
しもべはにんげんでありながらにんげんではないという
たいへんふつごうなしんじつにたどりついてしまいます。
これがしもべとねむるしもべがべつのいきものである
というひとつめのりゆうです。
そして、もうひとつ、りゆうがあります。
ねこさんは、おねんねしていてもぼくはぼくですので
ごじぶんがちゅーるさんをすきということもわすれません。
だからこそ、しもべがちゅーるさんをよういしたならば
すばやくこちらのせかいでおきることができます。
しかしねむるしもべには、
ぼくがみみのそばでにゃーんをしてもまったくとどきません。
しもべのだいすきなにくきゅうをおしつけてみてもだめです。
おはなのちいさいといきでたんねんにふんふんしたってだめなのです。
これはすなわち、しもべはすっかり、しもべではなくなっている
ということのあかしです。
でなければ、しもべがもとめてやまない
ねこさんからのこれらのごほうびを
むげにできるものではありません。
おそらくしもべは、なにかにからだをのっとられて
ねむるしもべになってしまうのだとぼくはおもいます。
このなにかは、しもべのからだをのっとり
しもべのおからだからしもべのようそを
おいだすのか、なくしてしまうのか、するのでしょう。
のっとられているあいだしもべは、
ねこさんをめでることもできず
ねこさんからのごほうびにきづくこともなく
たべものみもせず、うたいもせず
ただ、よこたわりときにねこさんをきけんにさらす
ことしかできなくなるのです。
しもべの、なんといたわしいことでしょうか。
しもべのじんせいのよろこびとは、
はねこさんをめでたり
ねこさんのごほうびをいただくことだとういうのに
そのじんせいのうちのかなりながいことを
なにものかにのっとられ
よろこびをかんじることもかなわないのです。
ですのでぼくは、しもべがねむるしもべにならないように、
おこころをくだいています。
ねこさんはただあいされるためだけのそんざいですから
このようにきづかういことをするひつようはないのですが
それではあまりにしもべが、きのどくというものでしょう。
すざいのうえで、しもべがながくなったら、
のっとられつつあるあいずです。
しもべをのっとりから救うには、
このときにあれこれごようじをいいつけたり、
こまめににゃーんをしたり
はばかりでごようじをすませてとびまわったり
するのがこうかてきです。
もししもべに慈悲をとかんがえるねこさんがあれば
どうぞさんこうになさってくださいね。
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