気まぐれな一匹狼のブログ

ただの一匹狼が書き綴るくだらない雑記

修養の門出

2014年02月10日 17時04分03秒 | 日記


  これまで何冊かの本を読み、非常に共感させられたり、納得させられたりしたことが何度もある。けれども、よくよく考えてみると、それらの中でいったい幾つが実際に「自分のもの」になったのかは疑問だ。いや、疑わしいどころか、ほとんど身になっていないのである。本から教えを受けようとしたけれども、右から入って左へと抜けていく。これではただの空費だ。

 頭の中には古今東西の尊敬すべき偉人たちの言葉が蓄えられている。わざわざ原本を参照せずとも引用することは、今ではそう難しいことではない。しかしそれらは「彼らの体験」であって決して自分のものではないのだ。彼らの言葉に僕は親しみを覚えるけれども、一方ではどこか余所々々しくも感じられる。何度も読み返したというのに?

 僕は気づいた。要するに、「論語読みの論語知らず」だったのだ。良い習慣の獲得が目的のはずだったのに、いつの間にか良い習慣の目録を作ることにシフトして、最終的にその目録とみじめな自己との比較に落ち着いてしまっていたのである。僕は絶えず目標を目前に置いて、自分の不足分を無意識のうちに強調させていた。そこには実践もなければ、改善もない。目的化した自己観察と呵責癖の確立が僕の取り分だった。

 実践的な本――つまり、物事の真偽を読者が検証するべき本――を読むに際して、読者がもっとも忘れてはならないことは、実地にあたって試してみるということである。皮肉なことに、このことに気付いたのは他ならぬ「読書」によってであるけれども、事実はやはりこうに違いない。

 「読者も容易に気づくであろうように、」と、ある著述家は言う。「あらかじめあらゆる良い習慣の完全な目録をつくるよりも、実際に一つの良い習慣から始める方が、かえってずっと有効である」そろそろ自分自身の実験を積み重ねるべき時が来たようだ。