気まぐれな一匹狼のブログ

ただの一匹狼が書き綴るくだらない雑記

ちょっとした後悔

2014年12月31日 15時02分32秒 | 日記

もう 2014 年も終わりですね。「もう」ではなく「やはり」と言った方がよいのか、「しかし」と逆接的に言うべきか、「あるいは」と言ってみるのがよいのか、まあ、何はともあれ今年も終わりです。

さて、前置きと何の連絡もつけずに今年僕が経験した個人的な話をしたいと思います。先日のことです。普段は近寄りもしないのに、なぜかその日は古本屋に立ち寄ることになったのです。古本屋というのは、たとえば「ブックオフ」とか「古本市場」とかそういう類の店です。個人的にああいう店の雰囲気はあまり好きではないし、むしろ嫌ってさえいるのですが、僕は何となく入ってみようと決めたのです。

店内をぶらっと見て回ったところ、やはり興味を惹くようなものはありませんでした。そこではやかましい子供の声と、体験版のゲームにのめり込んで荒々しくボタンを連打するおじさんやその仲間たちとがその場の雰囲気を決定していました。なかばゲームセンターと化している古本屋に、何の目的も持たずにただぼーっとしてうろつく自分が、だんだん滑稽に思えてきました。

そこで家に帰ろうとして、売り場から出口に抜けようとした時に、ふと目に留まった物がありました。それはわけあって安く売られている商品がうず高く積まれたワゴンだったのです。そのまま帰ってもよかったのですけど、なんとなくその中のどれかひとつを買ったほうがよい気がして、立ち止まりました。10 分ほど考えた末、 Grand Theft Auto という、昔友達に遊ばせてもらったゲームを買うことにしました。どんなゲームだったのかあんまり記憶に残っていませんでした。暗殺稼業の人間が主人公だったか? 筋書はスパイになって北朝鮮に潜入、金正恩を仕留める話だったか? まあいろいろ空想して期待していたのです。

家についてから、さっそく遊んでみることにしました。物語は、こんな感じです。ドミニカ出身のヴィクターという人物が、病気に苦しむ弟の医療費を稼ぐために軍に入隊して昇進を狙っている。ある日、上官の何某(名前忘れた)から使いを頼まれるのだが、それは実は麻薬取引である。彼は、こんなことはこれっきりで、今後一切絶対に係わらないという決意のもと、その取引をこなす。後日、彼は上官からまた使いを頼まれる。今度は売春婦を内密に基地へ連れ込むという話である。そうして女を車に乗せて基地に戻ると、女を連れているのが見つかり、加えて先日の麻薬(彼がそれを持っておかねばならず、それをベッドの下に隠していた)についても詰問され、ヴィクターはついに除隊される。しかし彼には依然として金が必要だ。彼は渋々、この街の金になりそうな話に手を染めるようになる……。

なかなかヘビーじゃないですか。こういう筋書は結構好きですよ。「それで次はどうなる?」とか思いながら楽しく遊んでいました。しかしそれも最初だけで、しばらくやってるとだんだん飽きてきました。「昔はあんなに面白く感じたのになあ」と不思議に思いながら、「じゃあほかのゲームならどうだろう?」とほかのゲームもやってみるのですが、今度も面白くありません。6 年くらい前だったら、もっと楽しめていただろうけど、今はだめです。あの頃はほとんど毎日 FPS をプレイしてても飽きなかったのになあ……。

久しぶりにゲームで遊んでみたけれど、全然楽しめないからちょっと後悔しました。ああ、どうして僕はゲームを買う気になったんだろう? 最近はゲームよりも、散歩のほうが楽しいです。


追記

ゲームでも、ボードゲームはどうやら好きみたいです。FPS も、ひょっとするとサバゲーに変更したら楽しめるかもしれませんね。


つぶやき

2014年12月14日 13時33分00秒 | 日記


僕が世界を認識するとき、そこには僕と世界の二つしか存在していない。主体と客体があるだけで、両者の間には何の媒介も存在しない。なぜなら主体である僕は世界を認識する能力くらいは持っているだろうから。もし、僕が世界を認識する際に、おそらくその人自身世界に対して主体である他人に僕が助けられる状況に置かれたとしても、僕にとって彼/彼女もまた世界の一部にすぎないのだから、つまるところ僕は世界と対面しているにすぎない。僕は徹頭徹尾この世界と死ぬまで向き合い続けるのだ。

しかし奇妙なことに、僕の物理的側面はこの世界と密接不可分ときている。では僕が最初に述べたことは誤りだろうか? 僕がもし純粋に一個の物質にすぎず、今こうやってくだらない文章を書くような精神的活動すらもが単なる電気刺激とその受容みたいなものだとすれば、主体と客体という認識は誤りかもしれない。しかし仮に人の精神の働きを物理的な観点から説明可能であったとしても、それがそのまま精神というものの最後的説明となるだろうか。そのうえそのようにして説明された精神なるものは、結局のところ僕たちの感覚(おそらくは視覚がメイン)の知覚の描写ではないのか。だとすれば、物理的な観測から得られるものは、僕たちの知覚体系の範囲内に限定されているのだから、その範囲を越えたところに存在するものを説明することが可能なのか疑問だ。

物理的側面からの説明をとりあえず脇に置いておくとして、では最初に僕が述べた命題はいったい何に依拠しているのだろうか? 読み返してみると、僕は二項対立を前提としているが、その世界観をそのまま受け入れるなら僕が僕自身を乗り越えて僕を見つめることはできない。したがって僕は自分が世界を認識する主体と言う時、僕自身の感覚に依存していることになる。ならば物理的説明に対して抱いた疑義が、ここでもまた僕に突きつけられるのではないか。それに物理的観点より一層たちが悪いのは、僕は専ら気紛れな思弁のみで世界を云々しようとするところだ。したがって、僕は自分が最初に提出した命題を破棄しなくてはならない。

結論: 僕は何も論じてない。



ああ、ドラゴンボール

2014年12月07日 11時48分36秒 | 日記


 『ドラゴンボール』がまた映画化するらしいですね。前回のやつではスーパーサイヤ人ゴッドとかいうのが見れましたけど、今回のはフリーザが復活する話だそうです(なんでフリーザ?)。個人的にはセルがよかったけどなあ!

 セルならサイヤ人の細胞を持っているんだから、修行すればとんでもなく強くなれそうだし、しかも悟空とかベジータの技を全部使えるらしいしで、考えるだけでめちゃくちゃワクワクするじゃないですか。そもそも悟空とベジータの細胞が取り込まれてるんだから、言ってみれば「ベジット+その他諸々」の状態じゃないですか。たぶん、一番強くなるとしたら本気で修行したセルでしょう!

 閑話休題。『ドラゴンボール』は昔から好きだし、よく見てたんですけど、最近の画風(アニメのやつ)はあんまり好きじゃないんですよね。なんかテッカテカしてるし、変に色調が明るいし……。

 『ドラゴンボールZ』 の時は絵が上手い回と下手な回があって、それはそれで「安定しないなあ」と気になってました。一方で、最近のやつは安定してはいるけど、さっき言ったような感じだし、なんだかなと感じています。

あ、ちなみに最近の画風が云々っていうのはもちろん、『ドラゴンボール改』とかいう『ドラゴンボールZ』の使いまわしのほうではなくて、映画とかCMとかの最近の人が書いている絵のほうです。あと『改』のオープニングとエンディングも含めてます。

とまあ、幼稚で阿呆みたいな文章を長々と書いてしまいましたけど、要するに、ドラゴンボールをアニメ化する時はもうちょっと迫力満点にかつ原画に忠実に描いてほしいなあ、という文句だか希望だか、ともかくそういうことを言いたかったのです。