梅雨は僕にどのような印象を残してきたか? ほとんど何の印象も残さなかった。それは毎年やってきては意識にのぼることなく通り過ぎていく。無口な通行人だ。あなたは街ですれ違う通行人を覚えているだろうか? おそらく覚えていないに違いない。もちろん、ときどき何かのきっかけでふと心に留まるものを目にするかもしれない。知り合いに似ているとか、美しい容姿をしているとか、何かそういったような理由で。毎年とくに意識するでもなくすれ違う梅雨も、ときには記憶に残るような何かを手に僕の前に現れたりするのかもしれない。「かもしれない」と言ったのは、いまのところ心当たりがないからだ。それはちょうど通行人のなかの美人をみて、そのとき心に留まっても、時間と距離に応じて記憶が薄れていくのと同じだ。「通行人が目を惹く場合もある」という抽象化された認識だけが手元に残る。かつて僕が梅雨に見出したであろう具体的な何かも、いまとなっては所在が明らかでない。梅雨にも何かおもしろいことや悲しいことのひとつくらいはあるだろう、という一般論だけが口にできるのに過ぎない。
某日。重苦しい雰囲気をあたりに感じる。きょうから一週間はずっと雨が続くようだ。冬が去って春がやって来ると、日を追うごとに世界は色彩と熱を強めていくというのに、その絶頂に至る少し前に灰色のじめじめした暗い時期を挟むのになかなか慣れないでいる自分を発見する。それは毎年繰り返される経験であるのに、そのたびに新しい発見ででもあるかのように梅雨への違和感と驚きを覚える。しかしその古く新鮮な感情も日常の些事に隠れてどこかへ行ってしまう。曇天と生ぬるい雨を前にしては、倦怠と義務感と焦燥の間を揺れ動きながら、ともかく道を急がねばならないからだ。もし梅雨の時期が休みであったなら、少なくとも義務感と焦燥からは解放されていたかもしれない。これもまた梅雨のたびに空想することだが、とくに行き場のないものだ。基本的に無駄だけれど、ただ路面の滑りを恐れるのに注意を無駄に回さなくて済むくらいの効能はある。
いっそ冷たい雨が勢いよく降ってきて、街を震え上がらせたらいいのに。さいきんはそう思う。