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1990年結成。
フリーライター、編集者、写真家などが「おかしなことがあるぞ」との呼びかけで寄り集まった。やがて「なんだこれは?」の自問から、調査し資料を集め、「戦後処理」の経過を追いながら、弁護士から裁判の可能性を聞く。詳しい人から学ぶ。
日本の戦後責任をハッキリさせる会(ハッキリ会、臼杵敬子代表)。考えるとか支援するとかの前に、行動する。政府に協議に行く、議員に頼む。デモをする,座り込む。「日本からなにもない」「死んだのかどうなのかも知らされない」と韓国のあちこちでつぶやかれていた「どうして?」をわかろうとする。韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会が集め疑問と憤懣をぶつけていった。
1965年、日本からの「有償無償、計5億ドル」が、日韓政府間で決めた「解決金」。70年代はじめ、それを元に韓国政府から戦争動員死亡者遺族らに少額が出た。それへの不満から遺族会結成への流れができる。釜山からソウルまで訴えながら徒歩行進──そのメンバーに取材(臼杵)したことから始まった。ハッキリ会の原点だった。
戦後補償活動は、「慰安婦」問題で政府とのあいだで「基金方式」をめぐって切羽詰まった(追加)政策ができるかどうかとなった。そのときに、(「基金」役員予定の)有識者、知識人こそが「賠償で終わってるんじゃないの?」という状態。
知識、理窟に近いものが理解できないのは、実態やひとに理解がうすくなる「事実」をしこたま目のあたりにした。
反応の違いが、のちのちまであとをひく。「なに?!」と「そんなもん、終わったはなし」。政治(政治家、官僚)と同じ次元の「利口な」対応が、戦後も、被害者個人、当事者を見捨て、屈辱をのこしてきた。ひとと向き合ってこそ知る、心身をふるわせる事実。
提訴に向けて、こんな数字もつかんでいった。当時の厚生省交渉などで話題になり、それはマスコミにも具体的数字としてひろまっていった。
○朝鮮半島動員軍人・軍属──1993年返還名簿・厚生省
24万3992人 動員
22万1810人 復員
2万2182人 戦死・不明
韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会と靖国神社首相参拝反対で鳥居脇で座り込み。2001年8月
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韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会
アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件の全体
- 訴訟名称 アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件
- 提訴 1991年12月6日(原告35人)追加1992年4月
- 原告 当初35人 追加6人
- 裁判所 東京地方裁判所 (民事17部)
- 訴訟原告代理人・弁護士
高木健一 幣原廣 林和男 山本宜成 古田典子 渡邊智子 福島瑞穂
小沢弘子 渡邊彰悟 森川真好 梁文洙 - 支援 日本の戦後責任をハッキリさせる会(NGO)
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裁判に没頭したのではない。
たとえば、元日本軍人・軍属と元「慰安婦」の組み合わせで、全国のNGOと連絡しながら、当地を訪ね、大小さまざまな集まりで対話を重ねた。
裁判・司法と政治家・政党に働きかけ。マスコミ、記者と懇談し原告取材設定をして、社会・世論に理解を広げる。
市民グループも労組も、女性団体も、「在日」グループも。
北海道のNGOグループの集会で話した金田きみ子さん。
北海道新聞の設定で元日本軍人と対話し、記事になって残っている(下)。
*pdfファイルの文中、正しくは「訴訟」が「訴総」になっているところがあります。
金田きみ子さん聞き書き。証言にしたがって部隊と慰安所の跡を中国に行って調査した報告。写真は10代の金田さん。──「慰安婦」問題を考える都高教有志ネットワーク発行、1996年