プラハ滞在も6日目となるこの日は、プラハ郊外へと向かいますが、その前に、前日ビシェフラットからの帰りに地下鉄に乗車した駅がある、ゴットバルト橋(現 ヌスレ橋)へ立ち寄りました。
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-16>
今日では、プラハ市街地となっている渓谷を大胆に跨ぐ橋上からの眺めを、(ドキドキしながら;)心ゆくまで堪能。
プラハ滞在中宿泊していたプライベート・ルーム(今日でいう「民泊」でしょうか)からは、地下鉄1本で行くことができた、ゴットバルト橋でした。
プラハ滞在も、この日で6日目の朝を迎えました。
プラハで宿泊した、プライベート・ルームの寝室です。
プラハではこのシリーズ最初の記事に記したとおり、ホテルを抑えることができずに、ホテル予約専門の国営旅行者オフィス近くで客引きをしていたプライベート・ルーム(一般市民が所有している家や部屋を当局の許可なく(勝手に)旅行客に貸す民宿)に、結局ずっと宿泊していました。
今風に言えば、モグリの民泊のようなもので、当然当たり外れが大きく、かなりリスキーな賭けとも思えましたが、幸いなことに、郊外の団地の丸ごと1フラット(複数の部屋+キッチン+トイレ+バスルーム)に泊まることができて、自分的には「大当たり」^^
アルバムに残っていたメモによると、1泊23ドイツマルク(当時のレートで約2,000円)で交渉成立したようで、プラハの宿泊代は何と、6泊して12,000円で済んでしまいました!
建物の安普請さは否めませんでしたが、整頓も行き届いていた綺麗な室内は、大切に手入れがされていて、快適に過ごすことができました。
プライベート・ルームがあった、団地の外観。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
いかにも共産主義時代に建設された、という雰囲気ですね。
道端の駐車車両も、時代を反映しています。
プライベート・ルームは宿泊者向けに、綺麗に設えてあったとはいえ、こうした共産主義時代の現実の生活の一端に直に触れることができたことも、今となっては貴重な体験で、今でもよく憶えています。
この団地があるのは、プラハ南部の郊外である、ホドフ(Chodov)という地区。
最寄りの地下鉄C線のブドバテルー駅(Budovatelů/現在はホドフ駅(Chodov)へ改称)から、都心の旧市街へも間近なターミナル駅であるプラハ本駅(Hlavní nádraží)まで約15分と、プラハ中心部へのアクセスも抜群でした。
因みに、1990年当時の駅名「Budovatelů」、google先生では「ビルダー」と訳されました。
この訳が正しければ、「建設者駅」という駅名ですか…共産主義時代を彷彿とさせる名称ですね。
他にも、「宇宙飛行士駅」や「友好駅」、共産党指導者や幹部の名を付けられた駅名が結構あり、いずれも1990年に改称されたとのこと。
私がプラハを訪れたのも1990年(3月)でしたが、改称直前であったのですね。
この団地、今日(2017年5月)でも健在のようです。
随分、緑が増えましたね。
1990年当時は、この団地周辺は、まだ開発が緒に就いたばかり…といった景観が広がっていました。
この時から既に、30年近くが経過している訳で、今日では、すっかり見違えていることでしょう。
遠くには、うっすらと高層住宅群のシルエットを見渡すことができて、朝もやに霞む開発中のプラハ郊外、という、なかなかレアな風景を眺めて、独り悦に入っていましたw
ブドバテルー駅から地下鉄C線に乗車して10分程で、ゴットバルト駅(Gottwaldova/現在はビシェフラット駅(Vyšehrad)へ改称)へ到着。
駅から外へ出ると、プラハの都心と南の郊外とを結ぶ巨大な陸橋で、地下鉄駅と同様に共産主義政権の初代指導者の名を与えられていた、クレメント・ゴットバルト橋(Most klementa gottwalda/現在はヌスレ橋(Nuselský most)へ改称)の威容が、眼前に迫ります!
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
画像左端に見えている、窓のある部分が駅のホームとなっていて、橋桁の下部が膨らんでいる部分の内部が、地下鉄C線のレールが敷かれているトンネルとなっています。
橋桁の上部、欄干の柵が見えている部分が、車道と歩道です。
クレメント・ゴットバルト橋の下に、遊歩道が通っていて、橋の下の様子もよく分かります。。。
何と言うか…かなり強引に、橋を渡した感じですね;
橋に跨がれた建物の住人は、上から何か落ちて来やしないか、気が気ではないでしょうね。
橋のこんな造られ方は、絶対納得できなかったでしょうが、共産党が支配していた建設当時では、反対することも許されなかったのでしょうね;;
橋の上の、車道と歩道の部分は、こんな感じ。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
車道は片側3車線で、この橋の大きさが分かります。
車道の両端に、歩道が設けられています。
プラハ都心部への方向の丘のうえには、前日訪れたビシェフラット(Vyšehrad)からも見渡すことができた、「カルロフのプラハ聖母被昇天・聖カレル(カール)大帝教会(Kostel Nanebevzetí Panny Marie a sv. Karla Velikého v Praze na Karlově)」の赤い丸屋根が見えています。
この歩道の欄干、高さが僅かに1m位しかなくて…とてもとてもスリリングな眺めが広がっていそうな予感が…;;
橋上から谷下までの高さは、42.5mあります。。。
この橋は、この通りの欄干の低さが災いして、やはり自殺スポットとなってしまいました。
その対策として、1990年に欄干の下に幅1.5mのネットが張られたとのことですが、上の画像には見当たりませんね…私が訪れた3月より後に、張られたのでしょう。
更に、1997年に上部が内側(歩道側)へ湾曲した高いフェンスが欄干に取り付けられ、2007年にはこのフェンスに上れなくするために、フェンス上部を磨かれた金属帯(幅約90cm)で覆われました。
橋上からの、眺めです…!
欄干を握る掌には、ジットリ冷汗が;;
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
眼下の建物は、決して低層である訳ではなく、普通に4階建~6階建位の高さはあるのですが、それらの建物の屋根を、完全に眼下に見下ろすという、もの凄い景色でした。
縦列駐車の車列も、ミニカーのようですね。
通りの先に見える丘がビシェフラットで、「聖ペテロ聖パウロ教会(Bazilika svatého Petra a Pavla)」の2つの尖塔を望むことができます。
建物の、通りに面した側とは反対側の内側の様子を、初めて詳細に目にした瞬間でもありました。
庭のような空間に、棟続きのように建てられていた低い建物は、物置のようなものなのでしょうか。
橋名を記したプレートが、橋の袂に据え付けられていました。
「クレメント・ゴットバルト橋」とある橋名の下には、やや小さな文字で、開通した年の簡単な説明が、添えられていました。
曰く、"UVEDEN DO PROVOZU K 25.VÝROČÍ VÍTĚZNÉHO ÚNORA V R.1973" と。
日本語にすると、『「勝利の2月」25周年の1973年に開通』とのこと。
「勝利の2月(vítězného února)」とは、1948年2月に、クレメント・ゴッドバルト(Klement Gottwald)を指導者としていたチェコスロバキア共産党が、非共産系勢力を政権から排除したことにより共産主義政権を樹立した「2月事件」のことで、この橋が完成、開通したのは、2月事件から25周年(25. výročí)の節目の年であった由。
共産党では、この「2月事件」のことを、「勝利の2月」と呼称していたようです(共産党側から見れば、確かに「勝利」ですね)。
その共産主義体制も、私が訪れた1990年の前年、1989年の「ビロード革命」により崩壊。
歴史の凄まじい変わりようを、ここでも実感しました。
「クレメント・ゴットバルト橋」という名称も、地下鉄の駅名と同様、早々に改称され、歴史の彼方へ忘れ去られていったのでしょうね。
今日の橋の呼称である、「ヌスレ橋」のプレートが、現在では掲げられているのでしょうか。
スリリングな眺め共々、歴史の激流に翻弄されてきたこの国について、改めて色々と思いを巡らされた、今日ではヌスレ橋となったクレメント・ゴットバルト橋でした。
この後、再び地下鉄C線に乗車して、プラハ都心へ。
バーツラフ広場(Václavské náměstí)のカフェで軽く朝食を摂って(画像なし…牛乳とハムが強烈に美味しかったという、鮮明な印象だけが残っていますw)、その後地下鉄のB線に乗り換え、向かおうとしていた郊外への電車が出発する、スミーホフ駅(Smíchovské nádraží)へと赴きます。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-18>>
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-16>
今日では、プラハ市街地となっている渓谷を大胆に跨ぐ橋上からの眺めを、(ドキドキしながら;)心ゆくまで堪能。
プラハ滞在中宿泊していたプライベート・ルーム(今日でいう「民泊」でしょうか)からは、地下鉄1本で行くことができた、ゴットバルト橋でした。
_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
プラハ滞在も、この日で6日目の朝を迎えました。
プラハで宿泊した、プライベート・ルームの寝室です。
プラハではこのシリーズ最初の記事に記したとおり、ホテルを抑えることができずに、ホテル予約専門の国営旅行者オフィス近くで客引きをしていたプライベート・ルーム(一般市民が所有している家や部屋を当局の許可なく(勝手に)旅行客に貸す民宿)に、結局ずっと宿泊していました。
今風に言えば、モグリの民泊のようなもので、当然当たり外れが大きく、かなりリスキーな賭けとも思えましたが、幸いなことに、郊外の団地の丸ごと1フラット(複数の部屋+キッチン+トイレ+バスルーム)に泊まることができて、自分的には「大当たり」^^
アルバムに残っていたメモによると、1泊23ドイツマルク(当時のレートで約2,000円)で交渉成立したようで、プラハの宿泊代は何と、6泊して12,000円で済んでしまいました!
建物の安普請さは否めませんでしたが、整頓も行き届いていた綺麗な室内は、大切に手入れがされていて、快適に過ごすことができました。
プライベート・ルームがあった、団地の外観。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
いかにも共産主義時代に建設された、という雰囲気ですね。
道端の駐車車両も、時代を反映しています。
プライベート・ルームは宿泊者向けに、綺麗に設えてあったとはいえ、こうした共産主義時代の現実の生活の一端に直に触れることができたことも、今となっては貴重な体験で、今でもよく憶えています。
この団地があるのは、プラハ南部の郊外である、ホドフ(Chodov)という地区。
最寄りの地下鉄C線のブドバテルー駅(Budovatelů/現在はホドフ駅(Chodov)へ改称)から、都心の旧市街へも間近なターミナル駅であるプラハ本駅(Hlavní nádraží)まで約15分と、プラハ中心部へのアクセスも抜群でした。
因みに、1990年当時の駅名「Budovatelů」、google先生では「ビルダー」と訳されました。
この訳が正しければ、「建設者駅」という駅名ですか…共産主義時代を彷彿とさせる名称ですね。
他にも、「宇宙飛行士駅」や「友好駅」、共産党指導者や幹部の名を付けられた駅名が結構あり、いずれも1990年に改称されたとのこと。
私がプラハを訪れたのも1990年(3月)でしたが、改称直前であったのですね。
この団地、今日(2017年5月)でも健在のようです。
随分、緑が増えましたね。
1990年当時は、この団地周辺は、まだ開発が緒に就いたばかり…といった景観が広がっていました。
この時から既に、30年近くが経過している訳で、今日では、すっかり見違えていることでしょう。
遠くには、うっすらと高層住宅群のシルエットを見渡すことができて、朝もやに霞む開発中のプラハ郊外、という、なかなかレアな風景を眺めて、独り悦に入っていましたw
_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
ブドバテルー駅から地下鉄C線に乗車して10分程で、ゴットバルト駅(Gottwaldova/現在はビシェフラット駅(Vyšehrad)へ改称)へ到着。
駅から外へ出ると、プラハの都心と南の郊外とを結ぶ巨大な陸橋で、地下鉄駅と同様に共産主義政権の初代指導者の名を与えられていた、クレメント・ゴットバルト橋(Most klementa gottwalda/現在はヌスレ橋(Nuselský most)へ改称)の威容が、眼前に迫ります!
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
画像左端に見えている、窓のある部分が駅のホームとなっていて、橋桁の下部が膨らんでいる部分の内部が、地下鉄C線のレールが敷かれているトンネルとなっています。
橋桁の上部、欄干の柵が見えている部分が、車道と歩道です。
クレメント・ゴットバルト橋の下に、遊歩道が通っていて、橋の下の様子もよく分かります。。。
何と言うか…かなり強引に、橋を渡した感じですね;
橋に跨がれた建物の住人は、上から何か落ちて来やしないか、気が気ではないでしょうね。
橋のこんな造られ方は、絶対納得できなかったでしょうが、共産党が支配していた建設当時では、反対することも許されなかったのでしょうね;;
橋の上の、車道と歩道の部分は、こんな感じ。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
車道は片側3車線で、この橋の大きさが分かります。
車道の両端に、歩道が設けられています。
プラハ都心部への方向の丘のうえには、前日訪れたビシェフラット(Vyšehrad)からも見渡すことができた、「カルロフのプラハ聖母被昇天・聖カレル(カール)大帝教会(Kostel Nanebevzetí Panny Marie a sv. Karla Velikého v Praze na Karlově)」の赤い丸屋根が見えています。
この歩道の欄干、高さが僅かに1m位しかなくて…とてもとてもスリリングな眺めが広がっていそうな予感が…;;
橋上から谷下までの高さは、42.5mあります。。。
この橋は、この通りの欄干の低さが災いして、やはり自殺スポットとなってしまいました。
その対策として、1990年に欄干の下に幅1.5mのネットが張られたとのことですが、上の画像には見当たりませんね…私が訪れた3月より後に、張られたのでしょう。
更に、1997年に上部が内側(歩道側)へ湾曲した高いフェンスが欄干に取り付けられ、2007年にはこのフェンスに上れなくするために、フェンス上部を磨かれた金属帯(幅約90cm)で覆われました。
橋上からの、眺めです…!
欄干を握る掌には、ジットリ冷汗が;;
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
眼下の建物は、決して低層である訳ではなく、普通に4階建~6階建位の高さはあるのですが、それらの建物の屋根を、完全に眼下に見下ろすという、もの凄い景色でした。
縦列駐車の車列も、ミニカーのようですね。
通りの先に見える丘がビシェフラットで、「聖ペテロ聖パウロ教会(Bazilika svatého Petra a Pavla)」の2つの尖塔を望むことができます。
建物の、通りに面した側とは反対側の内側の様子を、初めて詳細に目にした瞬間でもありました。
庭のような空間に、棟続きのように建てられていた低い建物は、物置のようなものなのでしょうか。
橋名を記したプレートが、橋の袂に据え付けられていました。
「クレメント・ゴットバルト橋」とある橋名の下には、やや小さな文字で、開通した年の簡単な説明が、添えられていました。
曰く、"UVEDEN DO PROVOZU K 25.VÝROČÍ VÍTĚZNÉHO ÚNORA V R.1973" と。
日本語にすると、『「勝利の2月」25周年の1973年に開通』とのこと。
「勝利の2月(vítězného února)」とは、1948年2月に、クレメント・ゴッドバルト(Klement Gottwald)を指導者としていたチェコスロバキア共産党が、非共産系勢力を政権から排除したことにより共産主義政権を樹立した「2月事件」のことで、この橋が完成、開通したのは、2月事件から25周年(25. výročí)の節目の年であった由。
共産党では、この「2月事件」のことを、「勝利の2月」と呼称していたようです(共産党側から見れば、確かに「勝利」ですね)。
その共産主義体制も、私が訪れた1990年の前年、1989年の「ビロード革命」により崩壊。
歴史の凄まじい変わりようを、ここでも実感しました。
「クレメント・ゴットバルト橋」という名称も、地下鉄の駅名と同様、早々に改称され、歴史の彼方へ忘れ去られていったのでしょうね。
今日の橋の呼称である、「ヌスレ橋」のプレートが、現在では掲げられているのでしょうか。
スリリングな眺め共々、歴史の激流に翻弄されてきたこの国について、改めて色々と思いを巡らされた、今日ではヌスレ橋となったクレメント・ゴットバルト橋でした。
_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
この後、再び地下鉄C線に乗車して、プラハ都心へ。
バーツラフ広場(Václavské náměstí)のカフェで軽く朝食を摂って(画像なし…牛乳とハムが強烈に美味しかったという、鮮明な印象だけが残っていますw)、その後地下鉄のB線に乗り換え、向かおうとしていた郊外への電車が出発する、スミーホフ駅(Smíchovské nádraží)へと赴きます。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-18>>
もしこのアパートが現在も民泊をしていたとしたら、1泊が当時の6泊分の値段に相当するかもしれませんね。
家の上をこんな橋が渡っていたら、おちおち眠れませんね。
現在は大分老朽化しているはずだし、昨年のジェノバの橋崩壊のニュースを見た住民は即座に引っ越しを考えたかもしれませんね。
今プラハを訪れたら、当時との物価の差に驚愕することでしょう。
橋から下を見ると、アパートの屋根が桁下に潜り込んでいる眺めが、衝撃的でした;;
上から人が落ちてくるなんて、正に悪夢ですよね…今日では安全対策が講じられたようですが、橋の強度の補修も、しっかり行なってほしいものですよね。