モーツァルトゆかりの地であるベルトラムカに続いて、ブルタバ川を東へ渡り、チェコ民族の聖地ともいえる古の城跡、ビシェフラットへ。
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-15>
ブルタバ川を見下ろす見晴らしの良い高台には、チェコ民族に貢献のあった偉人達が、静かな眠りについています。
日本でも知られた名前の墓にも出会いながら、閑静な空気に癒されつつ、城跡の敷地を巡りました。
<ビシェフラット>
<ビシェフラット民族墓地>
※ ビシェフラットを訪れる前に立ち寄ったベルトラムカと共通の地図となっています。
ベルトラムカから、プラハを貫いて流れるブルタバ川(Vltava/ドイツ語:モルダウ(Moldau)川)を東へ渡り、対岸にある高台の城跡である、「ビシェフラット(Vyšehrad)」へとやって来ました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
城跡を取り囲む城壁が残っていて、遊歩道となっている城壁の縁からは、プラハの南に広がる市街地を、見渡すことができます。
ビシェフラットの城跡の一角は、チェコの偉人達が安らかに眠る、「ビシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)」となっていて、日本人にも馴染みのある偉人の名前も探すことができます。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
このお墓は、チェコ音楽の祖としてチェコの人々の崇敬を集める、スメタナ(ベドジフ・スメタナ/Bedřich Smetana)のもの。
周囲の墓石よりも大きく、区画も広いものの、簡素で控え目な意匠が、その崇敬の深さを、却って印象付けられます。
彼の代表的な作品である、交響詩「わが祖国」の第1曲の名は「ビシェフラット」で、第2曲が有名な旋律である「ブルタバ(モルダウ)」。
ビシェフラット(民族ゆかりの地)とブルタバ川(ビシェフラットのすぐ西を流れています)という、チェコ人の誇りに包まれて、静かな眠りについています。
こちらはチェコ音楽の巨匠、ドボルザーク(アントニーン・レオポルト・ドヴォジャーク/Antonín Leopold Dvořák)のお墓。
チェコのみならずアメリカへも渡り活躍した、偉大な音楽家は、この墓地の回廊に像を置かれて、葬られていました。
チェコを遠く離れた新世界で活躍しつつ、故郷への郷愁を忘れなかった彼も、チェコの魂ともいえるこの地へ還り、故郷の行く末を永遠に見守っていくことでしょう。
ここビシェフラット民族墓地には、この他、音楽家、作家、詩人、スポーツ選手等で、チェコ民族に貢献した人物が、葬られています。
ビシェフラット民族墓地に隣接して、巨大な二つの尖塔を持つ「聖ペテロ・聖パウロ教会(Bazilika svatého Petra a Pavla)」が、墓地を見守るように聳えています。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
教会の創建は、1080年。
900年以上の年月を閲してきた、歴史ある教会です。
このシリーズの以前の記事でも書きましたが、この時は、こうした教会の大伽藍の実物を見るのは初めてであったので、外観を眺めるだけで満足してしまったようです;;
この教会の中へ入った記憶も、教会の中の写真もありません(^^;)
ビシェフラットを、そろそろ辞去。
ビシェフラットの城壁上は、気持ちの良い散策路となっていました。
地下鉄(メトロ/metro)の駅へと向かう道すがら、振り返って、聖ペテロ・聖パウロ教会を見遣ります。
城壁に設けられている門は、「煉瓦の門(Cihelná brána)」です。
城壁の遊歩道は、このとおり、ゆったりと歩ける広さとなっています。
人影も疎らな夕刻近く、地下鉄の駅のある、東の方向へと歩いています。
画像右側が城跡の敷地で、城壁の左側が城外の市街地側。
城内と城外とで、かなりの高低差があることが、分かりますね。
北の方向は、プラハ城(Pražský hrad)を遥かに、見渡すこともできました!
こうして見ると、プラハの地形は大まかに言うと、ブルタバ川を底とする、すり鉢状となっているようですね。
離れた場所からの眺めからでも、堂々たる威厳を感じさせるプラハ城は、正にかつては王の居城に相応しく、今日でもプラハの不動のランドマークです。
城壁上の展望スポットには、眺めることのできる建物等の目安が、設置してありました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
地形等の関係から、北への展望となります。
プラハ城等の名前も、ちゃんとありました^^
城壁から最も手前に見えている、修復のためのやぐらを掛けられている尖塔のある建物が、目安でも一番手前にある、「聖母マリア受胎告知教会(Kostel Zvěstování Panny Marie Na slupi/画像の目安には「Kostel sv. Panny Marie Na travničku」と表記)」でしょうか。
城壁のすぐ眼下に通っている、ブラチスラフ通り(Vratislavova)。
見事なまでの、縦列駐車の風景w
車は、ミニカーのようですね。
この通りも、もちろん2019年でも、建物は当時のまま。
大掛かりなお化粧直しを経て、こちらもまた、建物は見違えるように綺麗な姿を取り戻しています。
城壁の北東側へも、プラハ市街が広がります。
建物が立て込んでいる谷の地形を、大きな橋が一跨ぎして、プラハ中心部と南東部の郊外とを結んでいます。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
赤い丸屋根が印象的な、「カルロフのプラハ聖母被昇天・聖カレル(カール)大帝教会(Kostel Nanebevzetí Panny Marie a sv. Karla Velikého v Praze na Karlově)」の建つ高台側が、プラハ中心部となります。
教会へ向けても、城壁のような建造物が、延びていますね。
城壁のすぐ外側には、ブルタバ川を渡り、プラハのターミナル駅であるプラハ本駅(Praha hlavní nádrazí)へと向かう線路が敷かれています。
ちょうど撮影時に、貨物列車が東へと走っていました。
建物でビッシリと埋め尽くされた谷を強引に豪快に跨いでいる、レトロなプラハ市街地には不釣り合いな、巨大なコンクリート橋。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
現在はその跨いでいる谷(渓谷)の名を採り、「ヌスレ橋(Nuselsuký most)」と呼ばれていますが、1990年当時は共産主義政権の初代大統領の名に因んだ、「クレメント・ゴットバルト橋(Most klementa gottwalda)」という名称を与えられていました。
橋の完成は、共産主義時代の1973年。
車線は、片側3車線ずつの計6車線という大きな橋で、最上部の車道と歩道の下には、地下鉄が通っています。
この時向かっていたのは、橋の下を通る地下鉄C線の、ゴットバルト駅(Gottwaldova/現在はビシェフラット駅(Vyšehrad)と改称)。
地下鉄C線で、一旦プラハの中心部へ赴き、夕食(画像なし;)の後、再びこのC線で、宿のある南東部の郊外へと赴きました。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-17>>
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-15>
ブルタバ川を見下ろす見晴らしの良い高台には、チェコ民族に貢献のあった偉人達が、静かな眠りについています。
日本でも知られた名前の墓にも出会いながら、閑静な空気に癒されつつ、城跡の敷地を巡りました。
<ビシェフラット>
<ビシェフラット民族墓地>
※ ビシェフラットを訪れる前に立ち寄ったベルトラムカと共通の地図となっています。
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ベルトラムカから、プラハを貫いて流れるブルタバ川(Vltava/ドイツ語:モルダウ(Moldau)川)を東へ渡り、対岸にある高台の城跡である、「ビシェフラット(Vyšehrad)」へとやって来ました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
城跡を取り囲む城壁が残っていて、遊歩道となっている城壁の縁からは、プラハの南に広がる市街地を、見渡すことができます。
ビシェフラットの城跡の一角は、チェコの偉人達が安らかに眠る、「ビシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)」となっていて、日本人にも馴染みのある偉人の名前も探すことができます。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
このお墓は、チェコ音楽の祖としてチェコの人々の崇敬を集める、スメタナ(ベドジフ・スメタナ/Bedřich Smetana)のもの。
周囲の墓石よりも大きく、区画も広いものの、簡素で控え目な意匠が、その崇敬の深さを、却って印象付けられます。
彼の代表的な作品である、交響詩「わが祖国」の第1曲の名は「ビシェフラット」で、第2曲が有名な旋律である「ブルタバ(モルダウ)」。
ビシェフラット(民族ゆかりの地)とブルタバ川(ビシェフラットのすぐ西を流れています)という、チェコ人の誇りに包まれて、静かな眠りについています。
こちらはチェコ音楽の巨匠、ドボルザーク(アントニーン・レオポルト・ドヴォジャーク/Antonín Leopold Dvořák)のお墓。
チェコのみならずアメリカへも渡り活躍した、偉大な音楽家は、この墓地の回廊に像を置かれて、葬られていました。
チェコを遠く離れた新世界で活躍しつつ、故郷への郷愁を忘れなかった彼も、チェコの魂ともいえるこの地へ還り、故郷の行く末を永遠に見守っていくことでしょう。
ここビシェフラット民族墓地には、この他、音楽家、作家、詩人、スポーツ選手等で、チェコ民族に貢献した人物が、葬られています。
ビシェフラット民族墓地に隣接して、巨大な二つの尖塔を持つ「聖ペテロ・聖パウロ教会(Bazilika svatého Petra a Pavla)」が、墓地を見守るように聳えています。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
教会の創建は、1080年。
900年以上の年月を閲してきた、歴史ある教会です。
このシリーズの以前の記事でも書きましたが、この時は、こうした教会の大伽藍の実物を見るのは初めてであったので、外観を眺めるだけで満足してしまったようです;;
この教会の中へ入った記憶も、教会の中の写真もありません(^^;)
ビシェフラットを、そろそろ辞去。
ビシェフラットの城壁上は、気持ちの良い散策路となっていました。
地下鉄(メトロ/metro)の駅へと向かう道すがら、振り返って、聖ペテロ・聖パウロ教会を見遣ります。
城壁に設けられている門は、「煉瓦の門(Cihelná brána)」です。
城壁の遊歩道は、このとおり、ゆったりと歩ける広さとなっています。
人影も疎らな夕刻近く、地下鉄の駅のある、東の方向へと歩いています。
画像右側が城跡の敷地で、城壁の左側が城外の市街地側。
城内と城外とで、かなりの高低差があることが、分かりますね。
北の方向は、プラハ城(Pražský hrad)を遥かに、見渡すこともできました!
こうして見ると、プラハの地形は大まかに言うと、ブルタバ川を底とする、すり鉢状となっているようですね。
離れた場所からの眺めからでも、堂々たる威厳を感じさせるプラハ城は、正にかつては王の居城に相応しく、今日でもプラハの不動のランドマークです。
城壁上の展望スポットには、眺めることのできる建物等の目安が、設置してありました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
地形等の関係から、北への展望となります。
プラハ城等の名前も、ちゃんとありました^^
城壁から最も手前に見えている、修復のためのやぐらを掛けられている尖塔のある建物が、目安でも一番手前にある、「聖母マリア受胎告知教会(Kostel Zvěstování Panny Marie Na slupi/画像の目安には「Kostel sv. Panny Marie Na travničku」と表記)」でしょうか。
城壁のすぐ眼下に通っている、ブラチスラフ通り(Vratislavova)。
見事なまでの、縦列駐車の風景w
車は、ミニカーのようですね。
この通りも、もちろん2019年でも、建物は当時のまま。
大掛かりなお化粧直しを経て、こちらもまた、建物は見違えるように綺麗な姿を取り戻しています。
城壁の北東側へも、プラハ市街が広がります。
建物が立て込んでいる谷の地形を、大きな橋が一跨ぎして、プラハ中心部と南東部の郊外とを結んでいます。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
赤い丸屋根が印象的な、「カルロフのプラハ聖母被昇天・聖カレル(カール)大帝教会(Kostel Nanebevzetí Panny Marie a sv. Karla Velikého v Praze na Karlově)」の建つ高台側が、プラハ中心部となります。
教会へ向けても、城壁のような建造物が、延びていますね。
城壁のすぐ外側には、ブルタバ川を渡り、プラハのターミナル駅であるプラハ本駅(Praha hlavní nádrazí)へと向かう線路が敷かれています。
ちょうど撮影時に、貨物列車が東へと走っていました。
建物でビッシリと埋め尽くされた谷を
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
現在はその跨いでいる谷(渓谷)の名を採り、「ヌスレ橋(Nuselsuký most)」と呼ばれていますが、1990年当時は共産主義政権の初代大統領の名に因んだ、「クレメント・ゴットバルト橋(Most klementa gottwalda)」という名称を与えられていました。
橋の完成は、共産主義時代の1973年。
車線は、片側3車線ずつの計6車線という大きな橋で、最上部の車道と歩道の下には、地下鉄が通っています。
この時向かっていたのは、橋の下を通る地下鉄C線の、ゴットバルト駅(Gottwaldova/現在はビシェフラット駅(Vyšehrad)と改称)。
地下鉄C線で、一旦プラハの中心部へ赴き、夕食(画像なし;)の後、再びこのC線で、宿のある南東部の郊外へと赴きました。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-17>>
現在のプラハをご覧になったらがっかりなさるかもしれません。
観光客の急増加に、上手く対処できていないのが現状です。数年前までプラハは掃除のいきとどいた清潔な街という印象があったのですが、今は飲食店全において禁煙になったためか、情緒ある(あった)石畳の淵はタバコの吸い殻でおおわれています。道に置かれた、ごみ箱からはごみが溢れでています。観光地なのだから、清掃にもっとお金をかけてほしい!
今年の3月の訪問のさい、オペラ以外にルドルフィヌムの中にあるドヴォルザーク・ホールでチェコフィルハーモニーの演奏を聴きました。ドボルザークがアメリカから受け取った契約書がロビーに飾られていました。
京都もそうなのですが、観光客の急増に対応が追い付かない観光公害は、どの観光都市でも同じ悩みを抱えているのですね。
プラハの負の現実も目の当たりにしてしまわれた、プー太郎さんのご心痛に、私も胸が痛みます…本当に、30年前とは別の意味で「綺麗な」プラハの復活を願わずにはいられません。
芸術鑑賞と同時に、芸術家ゆかりの品の展示もあるのは、面白い趣向ですね!
別の面からも、その芸術家の素性を窺い知る切っ掛けにもなりそうに思えます。
プー太郎さんのコメントを拝読し、このシリーズの記事を書いていると、本当にまた、プラハを訪ねたくなってしまいますw
taろうさんの記事を拝見して、私はプラハの中心部をちょろちょろ動き回っていただけだと言うことが分かりました。
ウィーンにも有名な音楽家が眠る美しい墓地がありますが、フランスは故郷の墓地に葬られることを希望する人が多いのか、パリには有名音楽家が揃って眠る墓地はないようです。
ヨーロッパ大陸の真ん中あたりという内陸にあるのですから、寒暖の差も激しそうです;;
初めての海外旅行で、しかも、長年行きたいと憧れ続けたプラハとあって(あと、当時は若かったw)、地図は持ち歩いていましたが、結構あてもなく街中を色々と歩き回っているだけで、幸せいっぱいな気分でした^^
パリは世界中の人々を引き付ける、コスモポリタンな街、活動する場所であり、永遠の休息は、故郷でとりたくなる望郷の念に駆られるのかもしれませんね。