微妙

散乱する言の葉

宮中祭祀ほか

2015年02月26日 12時33分00秒 | 皇室

(※動画と本文とは全く関係ありません。)


「現実の解体と再建のために使われるエネルギーを人々に向けるのではなく、制度に向けることが重要です。」

宮中祭祀 - 宮内庁

主要祭儀一覧 - 宮内庁
宮中祭祀 - Wikipedia

歴史


近代以前


中世の順徳天皇は、『禁秘抄』で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は肇国以来「神事」を最優先としている。四方拝などは江戸時代以前から歴代の天皇に引き継がれた行事である。

江戸時代中・後期には水戸学に基づいた尊王論の高まりがあり、新嘗祭など祭祀の再興が盛んになった。

明治期から戦前まで


今日行われている祭祀の多くは、明治維新期に大宝令貞観儀式延喜式などを継承して再編された物である。

天皇の「現人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われた。1871年(明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令皇室令の一つとして制定された。

宮城内の水田では稲作が行われ、昭和天皇以降は自ら田植えをするようになった。収穫された米は供物として、祭祀の際に用いられている。

戦後


1945年(昭和20年)に日本が敗戦し、戦後の連合国軍司令部による統治の下で、宮内省宮内府宮内府へと移行される。また、国政と切り離されていた旧皇室典範日本国憲法施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の一つとなった

これに合わせて、皇室祭祀令など戦前の皇室令も、一旦全て廃止されたものの、宮内庁は内部通牒を出し、「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認している。

現代での位置づけ


日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われている。また、これに係る予算も皇室の内廷費によって処理されている。このため、多くの憲法学者が、戦後の宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」と解釈するようになった。

制度としての宮中祭祀が確立して以降の天皇では明治天皇や大正天皇はあまり熱心ではなく、侍従らが代拝するのが主であった。一方で、貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后は非常に熱心であった。

在位後期に侍従長であった入江相政は、昭和40年代から50年代に昭和天皇の高齢を理由とした祭祀の簡略化を推進したことがその日記から伺えるが、昭和天皇は1986年(昭和61年)まで新嘗祭の親祭を続けた

今上天皇・皇后も祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず御自ら出席している。

祭祀に関しては、事前の潔斎と平安装束を着用する事に加え、長時間の正座が必要であり、生前の昭和天皇は祭祀が近づくと、正座してテレビを視聴するなど、意識的に長時間正座することを心がけていたという。今上天皇も新嘗祭の時節が近づくと、昭和天皇と同様に正座の練習をするとのことである。

在位20年を経た2009年(平成21年)以降は、高齢である今上天皇の健康への配慮、負担軽減のため、祭祀の簡略化や調整が計画、実施されている。

2013年の記事。
【皇室ウイークリー】(284)皇后さま、お疲れ押して宮中祭祀に 雅子さまと愛子さま、ご帰国の皇太子さまをそろってお出迎え(1/4ページ) – 産経ニュース

2013.6.22 07:00更新

皇后さまは16日、皇居・宮中三殿の皇霊殿で、香淳皇后崩御の日に当たる祭典「香淳皇后例祭の儀」に臨まれた。皇后さまは10日から体力低下などのため皇居・御所で静養中だったが、側近に止められながらもあえて臨み、拝礼されていた。宮中祭祀(さいし)の伝統を途絶えさせてはいけないという皇后さまの強いお気持ちがあったようだ

側近によると、皇后さまの宮中祭祀は年間14あるが、最近では、以前からの頸椎(けいつい)症性神経根症への影響などを考慮した医師の勧めで、お出ましは限定的になっている。加えて最近のお疲れと体力低下もあり、今回についても側近は「お休みいただいたほうがいい」と進言した。しかし、皇后さまは、拝礼をやめてしまうと長く続いてきた宮中祭祀の女性側の礼法が絶えてしまうことを危惧し、少なくとも、新年の元始祭と春秋の皇霊祭、昭和天皇祭と香淳皇后の例祭には臨みたいお気持ちを示されたという

【皇室ウイークリー】(284)皇后さま、お疲れ押して宮中祭祀に 雅子さまと愛子さま、ご帰国の皇太子さまをそろってお出迎え(2/4ページ) – 産経ニュース

宮中祭祀には、ほかの皇族も庭上から参列できるが、天皇、皇后、皇太子、皇太子妃だけは宮中三殿の中で拝礼するなど、特別な作法がある。服装も伝統ある装束で、その準備を手伝う宮内庁の女官や女性職員らにも特別な作法や技術が求められる。

天皇陛下が務められてきた宮中祭祀は、ともに臨まれている皇太子さまへと継承されるが、「女性側」は皇太子妃雅子さまが病気療養中で祭祀に臨まれるのが難しいため、皇后さまがお出ましにならないと「ご不在」ということになる。側近によると、皇后さまは、女官や職員らに作法や伝統技術がうまく受け継がれず、途絶えてしまわないか心配されているという

「宮中祭祀の伝統をどうやって継承していくか。次世代の皇族の方々と相談していく必要もある」。宮内庁幹部は話した


皇后さまは17日から、一般の人々の前での公務に復帰された。同日行われた「日本学士院第103回授賞式」では、天皇陛下が足元に段差のある場所で皇后さまに手を添えられる場面もあった。皇后さまのご体調について、宮内庁の山本信一郎次長は同日の定例会見で「ご検査の結果、下肢(足)の筋力低下がみられる」と明らかにした。

(以下、朝日なので推測部分は朝日だな、と思つて読んでおく。産経も産経だが。)
(特集・昭和天皇実録)太平洋戦争開戦 戦争に距離置く姿勢、強調:朝日新聞デジタル

2014年9月9日05時00分

【昭和天皇実録の記述】

■一九四一(昭和十六)年

〈十一月二日〉

内閣総理大臣東条英機・参謀総長杉山元・軍令部総長永野修身に謁(えつ)を賜(たま)う。(略)天皇は、開戦の大義名分に関する首相の考えを質され、(略)ローマ法王を通じた時局収拾の検討を御提案になる。ついで軍令部総長・参謀総長に対し、開戦に伴う陸海各軍の損害の見積(みつも)り、防空対策等につき尋ねられ、それぞれより奉答(ほうとう)を受けられる。

昭和天皇、キリスト教に関心の理由 〈週刊朝日〉|dot.ドット 朝日新聞出版

昭和天皇、キリスト教に関心の理由 〈週刊朝日〉|dot.ドット 朝日新聞出版

昭和天皇、キリスト教に関心の理由 〈週刊朝日〉|dot.ドット 朝日新聞出版

しかし最大の理由は、GHQ(連合国軍総司令部)やマッカーサーに従い、皇太子の英語教師としてクエーカー教徒のヴァイニング夫人を呼ぶなど米国経由のキリスト教を取り入れる一方で、米国に対抗できる別のチャンネルも確保しておきたいという思惑があったからではないでしょうか。

“佳子さまICU志望”で考えた 皇室とキリスト教はどんな関係? 〈週刊朝日〉|dot.ドット 朝日新聞出版

(更新 2014/10/30 07:00)

秋篠宮家の次女、佳子さま(19)が学習院大学を辞め、AO入試に挑んだことで話題の国際基督教大学(ICU)。結果はまだ公表されていないが、迎えるためにはやはり大学側も、入念に準備するのだろう。

ところでなぜ、佳子さまと眞子さまの姉妹は、キリスト教精神に基づく大学を選んだのか。天皇は天照大神の子孫とされ、一切の神儀祭事は神道にのっとって実施されている。だが、皇室とキリスト教の関係を調べると、公開されたばかりの「昭和天皇実録」に興味深い記述がいくつか見受けられる。

まずクリスマスにプレゼントを贈る習慣は、1904年の日露戦争のころにすでに皇室にあった。戦後、A級戦犯が処刑された1948年ごろには、昭和天皇は多くのキリスト教徒と接し、定期的に聖書の講義も受けていたと記されている。

また、実録ではこんなエピソードを伝えている。皇太子(いまの天皇陛下)が結婚する際、皇太子妃(美智子さま)がミッション系の聖心女子大出身だったことから、「ある皇族の一人がキリスト教に興味を持ったのは皇太子妃の影響」と聞いた昭和天皇が美智子さまに「皇室においてキリスト教の話はしないように」と叱責したというのだ。実はこれらは当時の雑誌が書き立てた噂話で、昭和天皇は「事実でないし、心に思ったことさえなかった」と伝えるよう側近に命じたと実録は記している

京都産業大学の所功名誉教授(日本法制文化史)が解説する。

「皇室とキリスト教の関係を、狭い宗教の観点から考えると事実を読み違えるでしょう。明治以降、欧米からさまざまなことを学びながら近代化してきた中で、キリスト教もひとつの西洋文化として、柔軟に受け入れてきたのです」

その流れは現代まで脈々と続き、眞子さまと佳子さまがICUを目指すことになったのは、何の不思議もないことなのだ。そんな歴史と伝統を受け継ぎながら、学習院という皇室の「殻」を破った佳子さまの新たな青春のスタートが待たれる。

※週刊朝日  2014年11月7日号より抜粋

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国際基督教大学(ICU)とダグラス・マッカーサー

東京キリスト教6大学【青学 ICU 上智 東女 明学 立教】
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神道事務局 祭神論争


1880-1881年の論争。東京の日比谷に設けられた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が起こった。神道事務局は事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、その中心を担っていたのは伊勢神宮大宮司の田中頼庸ら「伊勢派」の神官であった。これに対して千家尊福を中心とする「出雲派」は「幽顕一如」を掲げ、祭神を大国主大神を加えた五柱にすべきとした

伊勢派のなかにも出雲派支持者が多く出たが、伊勢派の幹部はこれを危惧し、明治天皇の勅裁により収拾した(神道事務局神殿は宮中三殿の遙拝殿と決定、事実上の出雲派敗北)。政府は、神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したといわれている。

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