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顧みられぬもの、語られぬこと

2022-04-11 09:55:21 | 随想


顧みられぬもの、語られぬこと

Hunter S. Thompson, Andrea Rita Dworkin、イチロー、デジカメetc.


Hunter S. Thompson もAndrea Rita Dworkin(注1)も日本では全く顧みられることがなかった。

*


攻撃的幼児性愛嗜好者[predatory paedophile]が身をやつしたカトリック司祭による性的虐待(強要的淫行)(注2)という究極的醜聞(大奇聞)を、常日頃物見高くありとある奇聞を次々と食い散らかして飽きることないはずの日本のテレビのワイドショーは全く無視した。従って、日本ではどうなんだ、に関する説明を日本のカトリック教会関係者から聞く機会も失われることになった。私は疑っている[I suspect that ....](『現代英語力標準用例集』(野島明 編集著作)の「基本動詞」の項 "suspect"参照)。

*


イチローの一シーズン安打記録が全米を熱狂させることはなかった(注3)ことも殆ど伝えられなかった(注4)

  
『菊とバット』等の著書で知られるロバート・ホワイティングは、


「当地(日本)で誰もが抱いている疑問は、アメリカ人はどれほどの注意を払っているのか、である。」 (注5)

と書きながら、その「疑問」への率直な答えを記してはいない。

  
アメリカ人は冷静に見守っている、といえば聞こえはいいが、短打の記録など気にしてない、が正直なところであろう。これが本塁打記録となれば彼らの対応が様変わりすることは容易に想像できるのである。

*


「最新鋭150万画素のデジカメ」を買った当時、売り場店員(メーカー派遣のアルバイトであったろう)は画像の美しさを語り実際に示しはしたが、連写が可能であるのか、一言も説明しなかった。こちらは、普通のカメラと同様、当然可能であると思い込んでいた。次にシャッターを押すまで「数十秒も」じっと待たねばならぬなどとは露ほども思っていなかった。

*


分割払いの場合、金利はジャパネットタカタが負担――ジャパネットタカタの謳い文句である。

  
が、一般のクレジットカードで分割払いをする場合、金利は買い手の負担である、なんてことはタカタ社長から聞いたこともない。ある商品を買おうとジャパネットタカタに電話をして初めて知ったことである。ジャパネットタカタでクレジットの申し込みをし、つまり、詳細な個人情報を渡した上で「承認」されないと、金利なしの分割払いということにはならないのであった。もちろん、買うのは止めた。以来、ジャパネットタカタのテレビ広告番組も見なくなった。

*


テレビショッピングで宣伝される安価なプリンタ。

  
色彩豊かな画像を印刷する場合、A4一枚印刷するのにいかほどの時間がかかり、いかほどの費用がかかるのか、当該プリンタのインクカートリッジはいくらなのか、語られない。

  
プリンタ製造企業はインクカートリッジを売って利益を上げているなんてこと、とうに周知の事実である。

*


「なんとか語」会話で決まって出てくる「役立つ表現」。

  
しっかり覚えている「役立つ表現」を活用して、流暢な「なんとか語」で道を尋ねたら、さあ、大変だ。相手が流暢な「なんとか語」で説明してくれる道順をまるで聞き取れないぞ(注6)

  
それしかおぼえていない「役立つ表現」など安易に使うものではないし、使い物にはならない、とは語られない。

  
駅への道を尋ねたければ、たった一語「駅」を用いて道を尋ねる方がきっと無難だ。親切な人ならそこまで案内してくれるかもしれない、あるいは地図を書いてくれるかもしれない。

  
あれみたいだって?あれって何だい?思い出しそうだ?思い出してくれよ。腹筋を鍛えて胴回りに溢れ返る脂肪を取るってやつね。「アブ……」なんて名前の運道具だね。深夜のテレビショッピングでよくやってるやつだ。腹筋を鍛えたって、それだけで胴回りに溢れ返る脂肪を取れるわけないんだよな。

  
腹筋を鍛えることと胴回りの贅肉を取ることはまったく別のことだ、とは語られない。

*


《リーズナブルな》お値段、とは語られるが、高いお値段、とは語られない。



記 〇五年十二月






(注1)
現代英語力標準用例集』(野島明 編集著作)の「固有名詞」の項 "Hunter S. Thompson""Dworkin"参照。


無視のされ具合は、邦訳を探してみると分かる。


まず、「ハンター・S. トンプソン」。


"http://www.books.or.jp/"での検索結果はゼロ件。


"http://www.amazon.co.jp/"での検索結果は以下の四件。

1. ラスベガス・71 (1999/10) ロッキングオン

2. アメリカン・ドリームの終焉 (1993/08) 講談社

3. 天国はもう満員 (1993/07) 東京書籍

4. ラスベガスをやっつけろ! (1989/10) 筑摩書房

「4. ラスベガスをやっつけろ! 」は「在庫切れ」とある。


以下、「アンドレア・ドウォーキン」の場合。


"http://www.books.or.jp/"での検索結果は以下の四件。

ドウォーキン自伝(柴田 裕之 訳)(2003/07、\2,520、青弓社)

ポルノグラフィと性差別(キャサリン・マッキノンとの共著)(中里見 博 訳)(2002/01、\3,045、青木書店)

インターコース〔新装〕(寺沢 みづほ 訳)(1998/04、\2,520、青土社)

女たちの生と死(寺沢 みづほ 訳)(1998/04、\2,940、青土社)


"http://www.amazon.co.jp/"での検索結果は以下の七件。


1. ドウォーキン自伝/価格: ¥2,520(税込)

2. ポルノグラフィと性差別/価格: ¥3,045(税込)

3. インターコース―性的行為の政治学/価格: ¥2,520(税込)

4. 女たちの生と死/価格: ¥2,940(税込)

5. 贖い/価格: ¥2,650(税込)

6. ポルノグラフィ―女を所有する男たち/価格: ¥2,447(税込)

7. インターコース―性的行為の政治学/価格: ¥2,243(税込)


ハンター・S. トンプソンの著書は七十年代に、アンドレア・ドウォーキンの著書は八十年代に邦訳されるべきであった。遅きに失しているのである。


(注2)
現代英語力標準用例集』(野島明 編集著作)の「形容詞」の項(catholic⇒(the) Catholic church)及び「固有名詞」の項(Bernard Francis Law)参照。


(注3)

「熱狂」の程度は報道のされ方でおおよそ測れる。大々的に取り上げたのはシアトルの二紙だけであった。当時、かなりの時間を割いて主要紙のサイトを調べた限りでは、独自取材の記事を掲載したのはニューヨークタイムズ紙だけであり、他に「新記録」の記事を掲載したのは、Washington Post.com, USA Today.com, Philadelphia Inquirer.com の三紙だけであったが、いずれも同一内容のAP配信記事であった(以下の記事一覧参照)。


以下、記事一覧。


Ichiro breaks 84-year-old record for hits in a season (By DAVID ANDRIESEN, SEATTLE POST-INTELLIGENCER REPORTER, Seattle Post-Intelligencer.com, Saturday, October 2, 2004) (http://seattlepi.nwsource.com/baseball/193496_ichiro02.html)


In Japan, much joy over Ichiro (Seattle Post-Intelligencer.com, Saturday, October 2, 2004) (http://seattlepi.nwsource.com/baseball/193499_reax02.html)


Ichiro fashions link to baseball's immortals (By ART THIEL, SEATTLE POST-INTELLIGENCER COLUMNIST
Seattle Post-Intelligencer.com, Saturday, October 2, 2004)(http://seattlepi.nwsource.com/baseball/193507_thiel02.html)


Ichiro fashions link to baseball's immortals (By ART THIEL
SEATTLE POST-INTELLIGENCER COLUMNIST, Seattle Post-Intelligencer.com, Saturday, October 2, 2004)(http://seattlepi.nwsource.com/baseball/193507_thiel02.html)


HITS-TORY! Ichiro breaks Sisler's record
(By Bob Sherwin, Seattle Times staff reporter, The Seattle Times.com, Saturday, October 02, 2004, 12:47 A.M. Pacific)


Powerball inflation can't devalue Ichiro's amazing feat (by Steve Kelley / Times staff columnist, , The Seattle Times.com, Saturday, October 02, 2004, 12:17 A.M. Pacific)


Comparing Ichiro vs. Sisler (The Seattle Times.com, Saturday, October 02, 2004, 12:00 A.M. Pacific)


Suzuki Breaks Record for Hits (By TIMOTHY EGAN, The New York Times ON THE WEB, October 2, 2004)

関連コラム
The International Pastime (By ROBERT WHITING, The New York Times ON THE WEB, October 2, 2004)


Suzuki Sets Hits Record (By Tim Korte, Associated Press, Washington Post.com, Saturday, October 2, 2004; 1:47 AM)


Japanese Fans Celebrate Record (By Jim Armstrong, Associated Press, Washington Post.com, Saturday, October 2, 2004; 12:41 AM)


Suzuki alone atop hit list (By Tim Korte, The Associated Press, USA Today.com, Posted 10/1/2004 10:41 PM Updated 10/2/2004 10:12 AM)


Suzuki breaks season hits mark (By Tim Korte, Associated Press, Philadelphia Inquirer.com, Posted on Sat, Oct. 02, 2004)


MLB.comには、当然のことながら、幾つかの記事が掲載されていた。


Bye, George! Ichiro sets new mark (By Jim Street / MLB.com, MLB.com, 10/01/2004 9:08 PM ET)


A 'proud' moment for Sisler's family (By Jim Street / MLB.com, MLB.com, 10/01/2004 11:53 PM ET)


Drese and Ichiro forever linked (By Robert Falkoff / MLB.com, MLB.com, 10/02/2004 2:41 AM ET)


Ichiro draws high praise from peers (By John Schlegel / MLB.com, MLB.com, 10/02/2004 2:25 AM ET)


Next for Ichiro: At-bats record? (By Arturo Pardavila III / MLB.com , MLB.com, 10/02/2004 4:51 AM ET)


(注4)

日本の報道媒体で以下のような冷静な記述に接することは殆どなかった。


イチローがシーズン最多安打を達成。新記録は、グローバル化した大リーグの「時代の象徴」でもある。アジア人の挑戦に、米国のファンやメディアは熱狂的になることはなかったが、同時に無視することもなく、冷静に見守った。(「【MLB】イチロー一気に新記録!シスラー抜き259安打に」, SANSPO.COM,10月2日(土) )


(注5)

"The question everyone here has, though, is how much attention the Americans are paying." (The International Pastime By ROBERT WHITING, The New York Times ON THE WEB, October 2, 2004)


(注6)

役立つ表現「~へはどう行けばいいのですか」をしっかり暗記していればこその流暢なスペイン語で、

"¿Cómo se va a la Plaza del Castillo?"
(「カスティージョ広場へはどう行けばいいのですか」)なんて尋ねたら、相手も目一杯流暢なスペイン語で、

"Va(n) hasta ese bar y luego dobla(n) a la derecha."
(「(あなた(たち)は)あのバールまで行って、右に曲がるんです」)なんてふうに教えてくれる、きっと。





 

売れない

2022-04-11 08:01:44 | 随想

 

『売れない』

ボヤキから始まり、マブダチと延々と無駄話

 


――売れない、ってね、全然。ようやく公刊までこぎつけたキミの労作、『カンマを伴う分詞句について』。

(注)Puboo(https://puboo.jp/)とamazonで販売中。

――しょぼん。

――口で、しょぼん、かい。

――言葉で言わないとなかなかね。態度では伝わりにくい。撫で肩ではないしね。

――本当はがっくりしてないのかい。

――そんなに世間知らずではないよ。そもそも「カンマを伴う分詞句」が形容詞的要素か副詞的要素かなんて話、誰が関心を持つものかね。英語教師、語学教師の中にだってそんな奇特な御仁、そうそういるもんじゃない。「カンマを伴う分詞句」は《分詞構文》、以上、ということさ。改めて、《分詞構文》とは 何ぞや、などという疑問はそもそも生じる余地がないんだ。万人にこの上なくうまい具合に分かたれてるとかいう"bon sens"とは異なり――あるいは、"bon sens"と 同じように、かもしれないが――好奇心は万人にこの上なくうまい具合に、と言うか、等しく、と言うか、分かたれているわけではない。例えば、日本の大報道機関、大テレビ局、全国紙等、これをオレは《彼等》と言い習わしているんだが、《彼等》は共謀して、あるいは伝えるべき事実を伝えていないんじゃないかと か、伝えるべき事実を秘匿しているんじゃないだろうかとか、嘘か真 (まこと)か定かではないような与太話を針小棒大に書き立てているんじゃないかとか、既得権益を守るためなら報道なんか知ったこっちゃない、が《彼等》の実態ではあるまいか、事実を報道せずに隠すどころか、自作の筋書きを元にしてあれこれの記事を創作しているんじゃなかろうか、自分たちに都合のいい話は記事にするが都合の悪い話 は記事にしないという極めて性質(たち)の悪い報道管制こそが《彼等》の本業で、世論調査の名を借りた世論操作は彼らの得意技なんじゃないかとか、《彼等》にそんな疑いの目を向け、《彼等》の実態に興味を持つヒトなど殆どいないのと同じことさ。準備中の評論『あいなきとても『丸投げ[outsource]』に目留むべきなり』を仕上げたら――丸々十日ほど時間が取れれば仕上がるんだが――公刊しようと思ってはいる。売れないだろうな。政財官のトライアングルはよく知られているが、この評論中で取り上げた政財官報学の「ペンタゴン」なんて聞いたことないだろ。「報」は報道媒体、「学」は学者、専門家のことだ。この「ペンタゴン」はオレの創見なんだ。面白そうだろ。 

(注)『あいなきとても『丸投げ[outsource]』に目留むべきなり』は、『カレラにはよほど居心地よろしからざりき:民主党政権』という題でamazonで販売中。

――キミがそう言うんなら、取りあえず期待しておこうか。それにしても、誰も読んでくれないってのはさびしいね。

――『カンマを伴う分詞句について』は日本全国で百人くらいは読んでくれるヒトがいるのでは、と推測し、期待してもいるんだ。ただ、そのヒトたちにこの本の存在が伝わっているかどうか、そこら辺りだね、難しいのは。

――売る、ってのは大層なことだよ。大変な能力だね、何であれ、売れるヒトってのは。
 

――その手の能力は、ないね、オレには。

――あっさり言うね。売れないよ、このままでは。

――ない袖は振れんのだ。書く能力と売る能力は、政治家になる能力と政治を行う能力がそうであるように、まったく別物なんだ。政治家には政治を行う能力はないが、政治家になる能力はある、その政治家が政治を語り行おうとしたら、ない袖を振ろうとするということになる、というのと同じだよ。こう言うと、政治家は無能のように聞こえるかもしれないが、政治家になる能力というのは、いわば、幕内で相撲を取る能力みたいなもんで、そりゃ、大したことなんだ。キミ、そこらへんの砂場で戯れに相撲をとることは出来ても、並の人間に幕内の相撲取りは務まるまいよ。オレにはもちろん相撲取りの能力なぞない。土で固めたものとは異なる土俵上で取る相撲なんだけどね。白星は出世に、ここではより大きな権力につながる。こうしたことは、『政治=相撲取り論』を読んでくれ、と言いたいのだが、ずいぶん前から覚書をかなりの分量書き溜めて、いまだ本格的に手をつけていない。きっと面白い評論になると思っているんだが。

――それなら書き上げて欲しいなぁ。いろいろ事情はあるにしてもね。身過ぎ世過ぎのための低賃金長時間現業労働に明け暮れる毎日ってこと。書くのに使える時間はごく僅かなようだから。思うんだけど、誰も読まない著作を書くなんてことより、それに翻訳もやってたよね、フランスのジュー何とかの翻訳、ど うせなら何か思いっきり気の晴れることをすればいいものを、何好き好んでか、著述とやらに励んでいるというわけだ。生きていて何か面白いことあるのかい。

 ――ない。ジョゼフ・ジューベールの『断章集』の翻訳(現在は絶版)。増補改訂版だね。

――それじゃ、低賃金長時間現業労働と誰も読んでくれない著作の執筆やら翻訳に励みながら、死ぬのを待っているだけのように見えるがなぁ。

――寸分違(たが)わずその通り。 一応言っておくと、エキスパンドブック版『ジューベール 箴言と省察』は、明らかにするのも恥ずかしい数字だから言わないけれども、ほんの少々売れたんだ。 だから誰も読んでくれない、ってのは正確じゃないね。

――その点は、うん、了解。そうあけすけに、その通り、だなんて身も蓋もない応答をされちゃ、今更返す言葉もない。話題を変えて、ぜんぜん売れない『カンマを伴う分詞句について』のことだけど。

――その強調は余計だ。そう、その著作のことだけど、あそこで展開されている論理の筋道を辿るというのは、素潜りで相当の深さまで潜るようなもので、容易なことではない。なぜ容易なことではないと言い切れるのかといえば、筆をとった当人が読み直してみても難儀だからだ。書いた当人が読んでも難しい、なんてのはいくら何でも大げさに過ぎると思われるかもしれん。この著作にかかりきりになってたころのオレは、いわば、心身ともに極限まで鍛え上げて、 素潜りに挑んでいたようなものだ。無制限一本勝負てな感じで、昼夜無関係にこの著作にかかりっきりになっていたから。他の事は一切ほったらかしで、今思うと、うん、蓄えをはたいたなんてのは大したことじゃないが、失うには惜しいものも失ったな。以来、素潜りから遠ざかっているという現実と――そう、言って おかなくちゃならないが、オレの記憶力はネコの記憶力とどっこいどっこいとも言えるほどで、自分で書いたものながら、細かなところは何を書いたのか、記憶が定かではないんだ。

――そう言えばだいぶ浮力が増えてるね。

――ヒトに言えた義理かい。キミに言われたくないね。この間、学ぶ一方で忘れる、学ぶそばから忘れる、なんていう中国語表現を習ったんだが、オレの場合、いわば書くそばから忘れる、といったところだ。オレの取り柄でもあるし咎(とが)で もある。そう、ネコのことだけど、ネコ一般ではなく昔ウチにいたネコのことだ。オスネコだった。あいつの血はどこかで受け継がれているだろうか。ウチに閉じ込めるという時代ではなかった。ウチと外を好き勝手に行き来して、よくネズミを銜えてきたなぁ。あちこちで種をばら撒いていたんじゃないか。話を戻すが、素潜りから長い間遠ざかっているという事実とオレの記憶力がネコ並みであるという現実を足し合わせると、著者本人が読んでも……、というオレの述懐は あながち大げさではないことを分かってもらえるんじゃないか。

――聞くとますます売れそうな感じはしないね。それならなおさらだけど、宣伝を考えないのかい。

――確かに、ネット上で販売しているだけ、という今の状態は、例えてみると、奥深い山の獣道の更にわき道を行くと大木があって行き止まり、実はその 大木の裏にこじんまりした店があって、そこで商売をしている、といった風な感じだ。売れるどころか、客が来ることさえないよ。

――分かってるわけだね、一応。

――オレの店に客が来て、商品を購入する確率なんてのは、いわば、途轍もない方向音痴の人物がたまたま山歩きをしていて、道に迷いに迷った挙句、行き止まりの怪しい獣道のどん詰まりにある大木に行き当たり、普通ならそこで直ちに引き返すところなのに、どうやら小用を催したらしく、その人物、何を憚ってのことか、わざわざその大木の裏に回って用を足そうとしたら、有らぬことか、間口半間ほどの店があって、明かりといえば頼りない蝋燭一本、店先には『カンマを伴う分詞句について』が堆く積まれていた、なんていうわけで、その上、その方向音痴の御仁が、何たる奇跡的巡り会わせか、分詞句に関心があって、積まれている書物の題名に「カンマを伴う分詞句」という語句を見つけ、興味を惹かれ、奇跡が重なることに、その御仁の財布にはその書籍を買い求めるに足る金銭が入っており、とうとう購入にいたる、なんて奇跡の三重奏的な天文学的確率なんだと思うね。これはつまり、宝くじに当たるほどの確率、裏から言うと、まずもって当たることはない、という蓋然性しかそこにはないということさ。これに比して、大々的に宣伝をするというのは人通りの多い一等地に店を構えるといったようなものだ。なにせ先立つものがね……。

――分かりすぎているんだ。

――うん、一応頭ではね。この著作、内内(うちうち)では評判いいんだよ。ただ、ひょっとしてゼロという数字は変化の可能性を秘めた変数ではなく、定数ではなかろうかという気もしないではない。販売部数ゼロ、のゼロのことだけど。

――なんか、悟りの境地、無我の境地、あきらめの境地というか……。

――うん、滅び、を想わないではないんだ、あれこれの滅びを、このごろ。あの太陽すらやがて、そう、数十億年経てば死滅する。数年前、五六十億年後に、アンドロメダ星雲と太陽系の属する銀河系が衝突するという記事を何処かで読んで、凄まじさの極みであるはずの天体の興亡の目撃者にはなれそうもない、と少々残念に思ったことを覚えている。二つの銀河の衝突が如何なる有り様を呈するのかを見届けようとした ら、せめて数億年は観察を続けねばならないだろうに。その半分の三十億年という時間は単細胞生物が鯨やヒトやネコの外見と中身へと、変化などではなく全く別の生物の出現としか考えられないほどの爆発的変化をもたらすに足る時間だ。

――その起源はともかく、地球に生命が誕生して三十億年とか四十億年とか。

――ヒトは誰しもいつか必ず死ぬからといって、生きていても仕方ないからすぐ死のうと考えるヒトは少なかろうし、ましてやそう考えた末、自ら生命(いのち)を絶つヒトはもっと少ないだろう。まぁ、萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」、なんて書き残して自ら生命を絶った若者はいはしたんだが。人間の一生高々(たかだか)七八十年と喝破して自ら生命を絶つ若者がいたら、これは衝撃だろうな。有史以来の人類の歴史を人類の年齢と見做せば、人類の年齢は現在ざっと一万歳、二万歳を迎える可能性はほとんどないと、言ってしまえば、皆無だとオレは思ってる。我らが種の寿命はせいぜい一万有余年、余命は、そう、絶滅と言うことではなく、現在のような圧倒的に優越的な地位を失い、地球上の多くの生物の内の一員となるまでということなんだが、数百年、太陽の余命はあと数十億年、宇宙の寿命とてせいぜい数百億、数千億、数兆、数千兆、あるいは数京、数百京年有余。人類も、この地球も、太陽系も 、そして宇宙についても、淡雪の中にたてたる三千大千世界(みちあふち)、てなところなのかな。

――ちょっとした判じ物だね、みちあふち(みちおうち)。

――良寛の、淡雪の中にたてたる三千大千世界またその中に泡雪ぞ降る、 の「みちあふち」。我らのこの地球世界、太陽系の属する銀河系、アンドロメダ銀河等を含むこの宇宙は小世界、小世界が千集まって小千世界となり、小千世界 が千集まって中千世界、中千世界が千集まると大千世界、大千世界三つで三千大千世界、これを「みちあふち」と読ませるそうだ。良寛のこの歌に、オレが久しい以前に得た直感は何処か呼応している。この世の物質の根源を、分子に原子に原子核に陽子と中性子へと、ついにこれ以上分割し得ない微小単位まで辿ると、この微小単位は実に小世界たる宇宙であり、この宇宙小世界にはまた数多(あまた)の銀河と無数の恒星と惑星が…… 。おそらく当たっているであろうとオレの信じている直感だ。

――証明されることはないだろうね。キミの直感が妄想なのか現実なのか。

――ないね。ただし、この宇宙小世界を含め、有りと有るものにいずれ訪れる滅びは現実だ。

――今生きている、ってもの現実だ。

――そう、その現実を否定しはしないが、オレの著作が売れるか売れないかってのは大したことではないとは思えている。オレがこの著作を仕上げたということに比べれば。数多く売れれば、時折脱水槽が容易には始動しなくなり、いよいよその時が来たかと思わせる数十年の年季入り東芝製二槽式洗濯機「銀河」 と、内部に水の溜まるちっぽけな冷蔵庫を、それに冷凍庫が小さくてどうにも不自由してるんだ、買い換えられる。 

――この宇宙小世界の滅びなんて想像の仕様もないと思うがなぁ。

――いつか、遥か時の彼方で、宙の広がりが尽き果て、時の流れが途絶える。そしてオレたちは誰もが、一切の尽き果て途絶えた世界を、いや、無世界を体験することになる。果てしない時の彼方にあるその無世界を。なぜなら、オレたちはひとたび存在を失えば、数億年、数百億年 、数十兆年とて、須臾の間であるからだ。果てしない時の彼方において、すでに存在を失っている我らと、広がりの尽き果て、時の流れの途絶えた宇宙、もはや存在せぬ宇宙は、渾然一体となり融合し、我ら即宇宙、存在せぬ我ら即存在せぬ宇宙となる。我らは存在を失ってからも、楽しみは見つかろうというものだ。ただ、我らが然(さ)る宇宙との一体化、融合を意識的に体験することはなさそうに思える。なぜなら我らはもはや存在しないのであるから意識も存在しないとは、論理的必然であるからだ。しかし、体験はするのかもしれない。体験する我らなしの体験、純粋な体験を。
 

――どうせすべて滅ぶのだから、著作が売れようが売れまいが、読まれようが読まれまいがどうでもいい、あと数百年もすればバルザックもデカルトもバッハもドストエフスキーも吉本隆明も、一切合財、塵芥(ちりあくた)と成り果てるなんていう虚無主義的なというか、愚痴にもやけっぱちの捨て台詞にも聞こえないではない。なんかあぶない雰囲気になってきてるという感じがしないでもないんで、とりあえず、この辺りでお開きということで。

――これが虚無主義なものか。激烈な現実主義だ。滅びを見据えるというのは。

――やはり、あぶない。

――そんな大げさな滅びはさておき、オレ個人が滅びるとき、オレ存在の死というより滅びだね、いよいよこの世とおさらばする時、そのとき何を思うんだろう、とか想像するんだ。川っ縁の土手の上で空(から)っ風に吹かれてみたい、とでも思うのか、とかね。

――はい、ご随意に。では、この辺で。 

 

(了)

 


核の脅し

2022-04-07 14:06:55 | 評論

「核の脅し」

 

20××年×月××日、突如として、ロシアが北海道への武力侵略と占領を予告し、日本は抵抗するな、抵抗したら東京に戦略核をお見舞いする、ときたら、さて、日本政府はどうする。同盟国たる合衆国はどう出る。G7各国は対応に苦慮、中国はそ知らぬふり、韓国は周章狼狽、その他大勢の中小国は、愚かなことに、他人事としか受け止めない。

ロシア極東艦隊がシンガポールやブルネイ沖に押し寄せ、日本に対してと同様の脅迫をおこなう場合、話は更に簡単だ。シンガポールやブルネイに対するロシアの侵略を防ごうと軍隊を派遣する国はあるまいし、ましてやシンガポールやブルネイのためにロシアとの核戦争を覚悟する国家は皆無であろう。

シンガポールやブルネイを占領してどうするって?両国の国庫(ブルネイの場合は首長の金庫)にあるありったけの金塊、国際通貨その他金目のものを戦利品として頂戴する。欧米の金融制裁を当面しのげよう。そんな金をロシアの債権者は受け取るや否や。無論受け取る。

まさかロシアが(は)そんな強盗(まがいのこと)をするまい、と思う人はいまや恐らく少数派であろう。

しないとしたら思いつかないだけだ。こんな妙策を。

「核の脅し」は、相手が本気と受け止めれば極めて有効なことを、ロシアのウクライナ侵略はまざまざと見せ付けた。「NATOが介入すれば第三次世界大戦だ」というロシアの脅し文句を「NATOが介入すれば核戦争だ」の意味と受け止めたらしいNATOは(更に合衆国も)、武器支援をするだけでロシアの暴虐を前に手も足も出せない。

ある小説を想起した。どのような手段を用いてか核兵器を手に入れた正体不明の犯罪者集団が、実際に日本の僻地で小型核爆弾を使用することで核兵器の保有と脅しが本気であることを証明した後、核の脅迫でついに日本を支配することになる、という小説である。この場合も、外国は手出しできない。日本の内政問題であるとして、同盟国たる合衆国も傍観するばかりである。犯罪者集団は、介入すれば合衆国の大都市を核爆弾で破壊すると脅しているからである。小説を読むと、彼らの核爆弾は運搬可能なもので、ミサイルに搭載するものではない。すでに合衆国の数都市に密かに核爆弾を設置しているようなのである。

小説の作者は野空藍氏、英語の題名を敢えて日本語に訳せば『必ずしも戦争(どんぱち)よりまし、にあらず』とでもなる。原題は『一発の核、日本の独裁者』、副題は「KJの手記外伝」である。そもそもは「国家ハイジャック論」という論文であったらしい。《KJ》とは、彼の故KJであるように読めて仕方ない。

日本語版は未刊、英語版のみamazonで入手可能。

作者はNOZORA AÏ、

題名と副題は、

Not Necessarily Preferable To War

――With One Nuke, The Dictator Of Japan――

原題と副題は、

Original Title : With One Nuke, The Dictator Of Japan

Original Subtitle : An Anecdote Of KJ’s Notes

 

こんな書き出しの小説である。

It was about a decade ago and quite by chance that I got acquainted on the web with a person named KJ, who identified neither gender nor age.

「必ずしも戦争(どんぱち)よりまし、にあらず」をどう解釈すべきか、悩ましいところだが、現今の状況に照らして言えば、ロシア軍を前に銃を置けば、その結果はロシア軍を相手に戦うより悲惨なものになる、といったところだろう。

時に、戦わないこと(戦争放棄)は戦う(戦争)よりまし、ではない、のである。

 

(了)

 


『カンマを伴う分詞句について』の分冊化について

2022-03-17 20:13:23 | 評論

『カンマを伴う分詞句について』の分冊化

 

何ゆえの分冊化か。

自著『カンマを伴う分詞句について――《分詞構文》という迷妄を晴らす試み』は大部である上、デジタル書籍の特性を存分に活用し、膨大な数のリンクを縦横無尽に張り巡らせている。その利便性を十分味わうには一定以上の大きさのモニター画面で、例えば現在Puboo(https://puboo.jp/)で販売しているEPUB形式で本書を読むことが求められる。

現在の頁構成では、取り分けamazonのkindle画面で見るには不適当な点も多々あるため、膨大なリンクを相当程度整理し、分冊化することにした。

現在、第十分冊まで刊行し(各1ドルでamazon.comで販売中)、作業は継続中、全十三分冊となる予定である。

本書の中心的課題は「修飾」、具体的には「制限的修飾」と「非制限的修飾」について論ずることである。

わかりやすい例を挙げてみる。

制限的修飾」の場合。

私が書店に行き、「推理小説ください」と言っても、店員は応対に困るだろう。「本ください」と言われているのに等しいからだ。私が言葉を継いで、「ディック・フランシスが書いた推理小説」と言えば、私の求めているのがどのような推理小説であるのかが店員に伝わる。「ディック・フランシスが書いた」のように、名詞句の構成要素としてその名詞句の指示内容を絞り込むのに役立つような名詞修飾要素は一般的に「制限的名詞修飾要素」とされる。これを英語で表現する場合、例えば、“a mystery (that) Dick Francis wrote” となる。この関係代名詞節(下線部)にはカンマは不要である。

 

非制限的修飾」の場合。

私から知人への電子メール「"Twice Shy"を貸して欲しい」では、私はディック・フランシスの小説"Twice Shy"を貸してほしいと頼んでいる積りである。「ディック・フランシスの"Twice Shy"」という日本語表現は問題なく許容されるが、「ディック・フランシスの」という名詞修飾要素は、話者である私にとって、"Twice Shy"が何であるのかを明示する働きも、どの推理小説のことであるのかを明示する働きもしない。"Twice Shy"と表記するだけで既に貸して欲しいものを(これが本であることはもちろん)唯一的に特定できていると私は判断している。

話者の視点からは次のように言える。既にその指示内容は特定されている(と話者が判断している)名詞句について更に何ごとかを語る場合、話者は「非制限的名詞修飾要素」を用いることがある。"Twice Shy, which Dick Francis wrote/ written by Dick Francis"の場合のように、"Twice Shy"について更に何ごとかを語ることになる" , which Dick Francis wrote / , written by Dick Francis”は「非制限的名詞修飾要素」である。この場合、カンマは不可欠である。

こうしたことを、《分詞構文》に関わる-ing分詞句(いわゆる《現在分詞句》)と -ed分詞句(いわゆる《過去分詞句》)について、膨大な文字数を用いて、極めて精緻な論理を展開することになる。

本書を執筆しながら、また執筆を終えてからも、本書を理解してくれる人は日本に100人くらいはいるのではないか、という思いを抱え続けていた。ただ、本書がその100人の内の一人でもいいから、目にとまるかどうか、は別の大問題なのであるが。

分冊化の作業を続ける過程で、本書は自著でありながら、そこに展開されている極めて綿密精緻と言うほかはない論理的記述は、正直なところ、かなり厄介なものであることを確認せざるを得なかった。一言で言うと、しんどいのである。比喩的に言うと、海底には宝石がごろごろ転がっているのだが、10分以上素潜りできる能力がないと、海底の宝石を取ってくることはできない、のである。過酷な酸欠に耐え続けることは容易なことではない。

本書は直接的には《分詞構文》という英語の文法事項に関わるものだが、時間が経過してみると、狭く言えば「解釈学」、もう少し広げていれば「現象学的解釈学」に関わるものだということに気付かされる。

本書はついに広く人目に触れることはないかも知れず、ましてや理解されることはないかもしれないとは、すでに、想定内である。

ただ、私はこの著作を世の中に提示した。あとは世の中と歴史にゆだねるほかはない。已んぬる哉、私の努力はどうやら報われそうもないが、我が座右銘、bene vixit qui bene latuit  に背かずにはすみそうである。

現在執筆中の「『天皇との距離 三島由紀夫の場合』への助走」の「第一部  三島由紀夫の「切腹」 その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を探る」に続く「第二部 『武士道』(矢内原忠雄訳)対「切腹の美学」(矢切止夫)」を含むいくつかの著作をすべて書き終える時間はおそらくない。が、できる限りの事はしてみる。

遺書めいた一筆だが、遺書となる可能性もなきにしもあらず。すべては時が決する。この一筆を遺書とするには、せめて分冊化の作業を完了せねばならない。

急ごう。

 

(了)

 

 

 

 

 

 

 


「末尾」の構想

2022-02-16 11:06:48 | 随想

「末尾」の構想

 

『「天皇との距離 三島由紀夫の場合」への助走』の第一部『三島由紀夫の「切腹」 そのザッハリッヒ[sachlich]な有り様を探る』(既刊)に続く誠に地味な表題の第二部『「武士道」(矢内原忠雄訳)対「切腹の美学」(矢切止夫)』(執筆中)に続くのは本編『天皇との距離 三島由紀夫の場合』(執筆中)である。

 

本編の末尾の数行はこうなる。

 

下腹部に短刀を突き刺してから絶命するまでの僅かな時のいずれかの瞬間、三島は果たして「××した」であろうか。

した、が確信に近い私の推察である。

 

さて、問題は果たして「末尾」まで辿り着けるか、なのである。人生、一寸先は闇、二十年来翻訳を続けているJOSEPH JOUBERTのCarnets第一巻にこんな断章がある。

 

知りたいことを学ぶのに私には歳月が必要だった。ところが、知ることを十分語るには若さが必要となるのだ。

J'avois besoin de l'âge pour apprendre ce que je voulois scavoir, et j'aurois besoin de la jeunesse pour bien dire ce que je scais.

(JOSEPH JOUBERT, Carnets, tome I, p.627, 1er juin 1804)

 

人生の妙と言おうか皮肉と言おうか。とまれ、二十歳の若者にも喜寿の老人にも、残された時間は有限である。二十歳の若者には承服しがたいであろうが、その点では両者の違いはさほどのものではない。「五十年」、喜寿の老人は口をそろえて断ずるだろう、「須臾の間だ」。

 

 

「××した」に当てはまる漢字二字、誰もが容易に思い当たるような二字であれば、私が『天皇との距離 三島由紀夫の場合』を書くには及ばないことになる。

 

(了)