"ブックサーフィン"という愉楽――あるいは書淫
『天皇との距離 三島由紀夫の場合』への助走
第一部
三島由紀夫の「切腹」
その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する
その三
ウィキペディア「三島事件」によると、慶応義塾大学病院法医学解剖室において、三島の遺体は斎藤銀次郎教授が、森田の遺体は船尾忠孝教授が解剖執刀し、その検視によると、二人の死因は、腹部の切創ではなく、「頸部割創による離断」である。三島は割腹はしたが自裁したわけではなく、介錯によって命を絶たれたのである。
腹部の切創に関する所見(昭和45年11月26日)中の「右左」は執刀医の目線ではなく、遺体の「右左」のことである。
まず三島の切創に関する所見。
頸部は3回は切りかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチの切り口がある。右肩に刀がはずれたと見られる11.5センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創、深さ4センチ。左は小腸に達し、左から右へ真一文字。
一読、お粗末な日本語、幼稚な記述であり、全体に曖昧、一部意味不明であるにとどまらず、誤解を招きかねない記述である。これでは、三島の腹部の切創は「長さ(5.5+8.5=)14センチに渡って深さ4センチの切創」であったと理解されても、これを一概に誤読と片付けられそうもない。不分明きわまる記述が必然的に招きよせた誤解と評するしかない。そのような切創は、いくつかの根拠(短刀を右に引き回せる可能性や出血量など)をもとに、三島の傷のザッハリッヒな有り様とは乖離していると判断せざるを得ないにもかかわらず、である。「深さ4センチ。左は小腸に達し」の記述から「14センチの切創の左端の傷は小腸に達する深さ4センチの傷」を読み取ることは至難である。「左は小腸に達し、」は「じゃ、右はどうなってるんだ」という類の突っ込みを誘って止まぬ怪しさきわまる箇所でもある。「左アゴ下に小さな刃こぼれ」の「刃こぼれ」に至っては首をひねるしかない。原因は「所見」そのものにあるのか、ウィキペディア「三島事件」のこの箇所の執筆者にあるのかは、残念ながら不明である。
三島の腹部の切創についてひとまず整理すると次のようになる。
下腹部の傷は左から右へ真一文字。ヘソの左8.5センチの位置に深さ4センチの傷。そこから右に14センチの切創。左端の深さ4センチの傷は、短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチの長さで小腸に達している。」
深さ4センチの傷の長さは、解剖段階で解剖執刀医の意思的な検証の対象となることはなかったため、今となっては種々の手がかりをもとに推測するほかはない。傷の深さが注視の対象となるには、切腹に関する相当の知見が不可欠であったが、そのような知見は今も存在しないが、当時も、明治の時代においても、さらに言えば、武士の時代においてさえ、存在しなかったと言っていい。
深さ4センチまで食い込んだ短刀をその深さのまま極限的激痛と内臓と脂肪の凄まじい抵抗もものかは右に引き回し続けて腹を14センチ掻っ捌くことのほぼ不可能性とは別に、「長さ(5.5+8.5=)14センチ」の切創の大半は浅い切創であろうという推測の客観的根拠となり得るのは、出血量である。その出血量を判断するための手がかりとなるのが、事件直後の現場映像(「週刊平凡」(12月10日号)の極めて鮮明なカラーグラビア、「週刊言論」(12月11日号、15頁)の小さな白黒写真、「週刊YOUNG LADY」(12月14日号)の極めて鮮明なカラーグラビア、「週刊サンケイ」(12月14日号)の見開き二頁の白黒グラビア、「週刊女性セブン」(12月16日号)の極めて鮮明なカラーグラビア、ASAHI EVENING NEWS(11月26日)三面と朝日新聞夕刊一面(11月25日)に掲載の写真)のうち、三種類の極めて鮮明なカラーグラビアに見て取れる総監室の床に残る血痕の位置である(注)image。
「三島の首と首無し死体を写した写真が報道され、多くの人の眉をひそめさせた。しかし、この報道の刑事責任は問われない(刑法百九十条、二百三十条二項参照)。人道上の問題である。(丸山雅也)」(週刊読売1970年12月18日号、23頁)という事情であったから、「刑法上の問題」とはならず、当時は様々な映像が格別に規制されることも報道媒体が自主規制することもなく出回っていたはずだが、時代の変化もあり、現在では入手は容易ではない。なお「丸山雅也」は当時の著名弁護士である。
もし仮に切創が長さ14センチに渡って深さ4センチというものであったとすれば、大量の内臓が体外にこぼれ出るであろうし、出血量も恐るべき量になる。現場映像は、腹部からの出血は極めて少なかったことを示している(「週刊YOUNG LADY」(12月14日号)の極めて鮮明なカラーグラビア参照)。
猪瀬直樹は三島の傷口について以下のように述べているが、既に引用したウィキペディア「三島事件」の曖昧きわまる解剖所見とも異なる点があり、出典が示されていないこと、及び傷口のザッハリッヒな有り様を反映してはいないことから判断すると、猪瀬の述べる傷口は猪瀬の想像によるものと考えるほかない。「小腸が五十センチほど外に出る」は解剖所見に記載はないものの、深さ四センチ、長さ「短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチ」の傷口からは体内の圧力によって腸が押し出されることはあったかもしれない。物理学的に説明可能な現象である。
傷口は臍の下四センチのところ、左から右へ十三センチの傷が深さ四、五センチにわたっており、小腸が五十センチほど外に出るほどの堂々とした切腹だった。介錯は一回で成功しなかった。一太刀は頚部から右肩にかけて、一太刀は顎にあたり大臼歯が砕けていた。相当な苦痛であろう、三島は舌を噛み切ろうとしている。つぎに自分が自決する、その森田に介錯させるのは無理があった。森田は古賀に代わってくれ、と言った、古賀は一太刀で介錯を終えた。
(『ペルソナ 三島由紀夫伝』文藝春秋、1995年、385頁)
解剖所見の「腹部はヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創、深さ4センチ。左は小腸に達し、左から右へ真一文字」という箇所の読み方は既に示した。次のようなものだった。
「下腹部の傷は左から右へ真一文字。ヘソの左8.5センチの位置に深さ4センチの傷。そこから右に14センチの切創。左端の深さ4センチの傷は、短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチの長さで小腸に達している。」
既にウィキペディア「三島事件」〔注釈12〕から以下の箇所を引用した。
1971年4月19日の第二回および同年6月21日の第六回公判記録によれば次のように記録されている。「右肩の傷は初太刀の失敗である。森田必勝は三島由紀夫が前に倒れると予想して打ち下ろしたが、三島が後ろに仰け反った為、手許が狂って肩を切った。次の太刀は、三島が額を床につけて悶えて動いている所を切らねばならないため首の位置が定まらす、床と首の位置が近いから床に刀が当たってなかなか切断できない。結果、森田に代わって古賀正義がもう一太刀振るった。
猪瀬が想像した三島の切創についての「堂々とした」という価値判断は、判断主体の知識・価値観・思想・信条・好悪等を如実に反映したものである。「五十センチほど外に出る」腸の《出口》は、解剖所見をもとに推測すれば、切創の左端の深さ4センチ、長さ「短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチ」の傷口であろう(猪瀬によれば長さ十三センチ、深さは四、五センチの傷口ということになる)。「自裁としての切腹」である限り、更に言えば、西郷隆盛の場合のように《緊急避難的に》ではないにもかかわらず「(歴史上初めてであるかもしれない)介錯を恃みにするが、処罰ではなく自裁としての切腹」の場合でさえ、既に「その二」で述べたように、「美しい死顔には円滑な介錯が必要であることを、苦痛に喘ぐ暇もなき速やかな死が必要であること」を弁え、もし「美しい死顔」を望むのであれば、「小腸が50センチほど外に出るほど」深く短刀を下腹に食い込ませて腹を切り割くことは避けねばならないのであり、「小腸が50センチほど外に出るほどの」切腹は「堂々とした」どころか、切腹の何たるかを心得ぬまま腹を切らねばならぬ状況に身を置くこととなった切腹主体が、衝動に身を委ねて無用な深傷を自らに与えるに至った「無分別」にして、それゆえ「無様」であり、時には切腹主体を動転させることにさえなりかねない腹の切り方と見なして差し支えないであろう。「切腹」というどこか伝奇的習俗の呪術性に絡めとられ、語り伝えられている数々の虚実不明の英雄豪傑の凄絶な超人的切腹譚が刷り込まれていたせいであると言えるのかもしれず、行き当たりばったりの無体な腹の切り方というのは、要するに無知のなせる業以外のものではない、とこの段階では述べておく。
「舌を噛み切ろうとしていたとされる」という箇所については、意志的に「舌を噛み切ろう」としたのか、非意志的に「舌を噛み切ろう」としたのかの判断はつき難い。
三島の切創の不分明極まる解剖所見と比べると、以下の森田必勝の切創の解剖所見(ウィキペディア「三島事件」による)はまだしも明快、と言えないこともない。
第3頸椎と第4頸椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部の傷は左から右に水平、ヘソの左7センチ、深さ4センチの傷、そこから右へ5.4センチの浅い切創、ヘソの右5センチに切創。右肩に0.5センチの小さな傷。
「ヘソの左7センチ、深さ4センチの傷」は「ヘソの左7センチの位置の傷は深さ4センチ」ということであろう。「そこ(深さ4センチの傷)から右へ5.4センチの浅い切創」に続く「ヘソの右5センチに切創」(「ヘソの右へ5センチの切創」ということであろう)が突如深い傷になろうはずもない。要するに、計10.4センチの切創は浅いものである。この所見も正直に言えばお世辞にも明快とは言えない。解剖執刀医は傷の有り様を正確な日本語で表現し切れていない。その原因の一つは多分に、「自裁としての切腹」と「処罰としての切腹」の違いについても、更には「切腹作法」についても無知であるがゆえに、切腹の傷については何を記述する必要があるのかを弁えていない、即ち切腹創の対象化ができていないということである。世界は見ようとしなければ見えないもので満ち溢れている。
おそらくこうであろう、という森田の切創の有り様を整理してみる。
「腹部の傷は左から右に水平、ヘソの左7センチの位置に深さ4センチの傷、その傷から右へ(ヘソ付近まで)長さ5.4センチの浅い切創、更にヘソの右へ長さ5センチの浅い切創。」
以下、ASAHI EVENING NEWS(1975.11.26)3面の記事[Mishima's Sword and Lieutenants ]中に見られる検視結果。
Tokyo police Wednesday night announced the results of their inspection of the bodies of Mishima and Morita. Mishima's belly had a 13-centimeter-long gash five cm deep from left to right made by a dagger. The intestines were found protruding from the cut. There were three cuts around his neck and one on the right shoulder made by Morita during decapitation. Morita had a 10-cm-long shallow gash in his belly and there was almost no bloodshed. His head was lopped off at a stroke.
警視庁は水曜日(25日)の夜、二人の遺体の検視結果を公表した。三島の下腹部には短刀による左から右へ長さ13センチ深さ5センチの傷があった。切り口から腸がとび出ていた(とび出ているのが見出された)。森田が介錯する際につけた傷が、首の周囲には三箇所、右肩には一箇所あった。森田の下腹部には長さ10センチの浅い切創があり、出血は殆どなかった。彼の首は一刀のもとに切り落とされた。(私訳)
検視担当者が誰であれ、切創の(現場での)検視結果について言えば、見立てが殆ど相違しそうもないのが長さと出血量であり、見落としようもないのが傷口から内臓がどの程度飛び出ているかである。反面、検視結果が、実際に、著しく相違しているのが、丁寧かつ慎重な検視なしでは正確な判断のつかない切創の深さであることを、手に入る数少ない資料からでさえ、確認できる。
問題は出血量である。森田の切創からは「出血は殆どなかった」。三島の切創からは「腸がとび出ていた」とあるが、出血量に関する記述の欠如は、言外に、記述に値するほどの出血量は認められなかった、と述べているに等しい。
"were found protruding"は、「(腸が)突き出ている」ことの認知に至る過程は、「よく見たら」あるいは「たまたま」のいずれが介在するにせよ、直線的ではなかったことを、一目瞭然で「突き出ている」ことが分かったわけではないらしいことを、腸が大量に溢れ出てはいなかったことを示唆している。
"protrude"は「(その形はどうあれ、突起状であると評せるようなのものが)突き出る、飛び出る」ということである。「長さ13センチ深さ5センチの傷」からは大量の内臓が「こぼれ出る、溢れ出る[spill out]」ことになろうし、見落とされることはありえず、必ず検視調書に記録されるであろう。
三島は「深さ五六寸、長さ七八寸」(「憂国」参照)に及ぶ割腹創のもたらす想像上の事態を描いている。
中尉がようやく右の脇腹まで引廻したとき、すでに刃はやや浅くなって、膏と血に辷る刀身をあらわしていたが、突然嘔吐に襲われた中尉は、かすれた叫びをあげた。嘔吐が激痛をさらに攪拌して、今まで固く締まっていた腹が急に波打ち、その傷口が大きくひらけて、あたかも傷口がせい一ぱい吐瀉するように、腸が弾け出て来たのである。腸は主の苦痛も知らぬげに、健康な、いやらしいほどいきいきとした姿で、嬉嬉として辷り出て股間にあふれた。
(河出書房新社『英霊の聲』所収「憂国」93頁)
ASAHI EVENING NEWS(1975.11.26)の同じ記事には二人の割腹創の所見が載っている。
Michioki Naito, a lecturer at Tokyo University's Medical Department who witnessed the inspection of the bodies, said Mishima's harakiri gash was deep and was in a straight line while Morita's was only a scratch. This showed the violence with which Mishima had disemboweled himself, Mr. Naito pointed out.
遺体検視に立ち会った東京大学医学部内藤道興講師によると、三島の割腹創は深く真一文字であったが、森田の切創はほんのかすり傷であった。三島は思い切り力を入れて腹を切ったことを示している、と内藤氏は指摘した。(私訳)
内藤道興氏の所見(「森田の切創はほんのかすり傷」)は「森田必勝の切創の解剖所見」(「ヘソの左7センチ、深さ4センチの傷」)とはかなり食い違うように思えるが、共通するのは、森田の切創は全体的に浅い、という点である。そのことから、森田の割腹創左端の「深さ4センチ」は、短刀が下腹部に「深さ4センチ」ほど食い込むとすぐ引き抜き、次いで浅く右に引き回した、と考えていいことが分かる。内藤道興氏の所見(「三島の割腹創は深く」「思い切り力を入れて腹を切った」)は、三島は短刀を深さ4センチにまで食い込ませた後、森田のように直ちに引き抜くことはなく、短刀をその深さのままある程度右に引き回した、と考えていいことを教えてくれる。森田の深さ4センチの傷はその長さを敢えて指摘するほどのものではなかったのとは対照的に、三島の深さ4センチの傷の長さは「短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチ」というものであったと考えていいことを教えてくれるのである。
森田がさほど苦しまなかったこと、同じ深さ4センチでも、腸が飛び出ていたとは観察されていないこと、「ほんのかすり傷」という所見さえあること、これら全てを勘案すると、森田の深さ4センチの傷は、三島のものがともかく線と認めうるだけの長さがあったのとは異なり、点に近かったことを示している。点に等しい森田の傷は、そこから腸が飛び出るのに充分な大きさの出口となることはなかった。腸が飛び出るには、三島のように思い切り力を入れてさらに腹を切り割き、深さ4センチの傷口を幾分かでも切り広げねばならなかった。
所見に明示されていないのは、水平の傷がヘソを横切る位置のものか、ヘソの下方を通るものかという点だが、深さ4センチの傷口の存在は水平の切創は下腹部にあることを教えている。
一般的に、皮膚をかすめる程度の切創で済ませる場合や扇子腹(短刀の代わりに扇子を手に取り、何らかの合図をして介錯を待つ)の場合を別にすれば、ヘソを横切る位置で腹部を深さ10ミリから15ミリ程度真一文字に切り裂くという腹の切り方は現実的には成立し難いと考えられる。また、腹部にあてがった短刀の切っ先を、腕力で下腹部に突き刺そうとしたら、突き刺す深さを10ミリから15ミリ程度に微調整することなどほぼ不可能であり、腹部の筋肉が緊張して硬化し、突き刺さりにくいから更に腕に力を入れる、更に腹部の筋肉が硬化するといういたちごっこが生じるはずで、その結末は酷さ極まるものとなろう。そんな悲惨な情景しか私には想像できない。映画、テレビドラマ、舞台などの切腹場面は、矢切止夫の指摘によれば、「見せ場」となるような形に適当にでっち上げられたものである。
腹を切るという動作は、一つずつ節がついて区切れるから、舞台のメリハリがきく。『おのれッ』とまず突きたて、それから、『無念』と横に動かして見得が切れる。
つまり『見せ場』という要素がとれるからして、あらゆる歌舞伎には、この腹切りが挿入された。
(矢切止夫『切腹論考』所収の「切腹論考」、中央公論社1970年10月31日初版、12--13頁)
切っ先をあてがう位置がヘソの下方であるというのは、短刀を肉体に食い込ませるためには、上半身を傾け、短刀をいわば身体全体で肉体に食い込ませる必要があり、そのためにはヘソの下方である必要があるからだ。
突くものではない。力が倍いる。腹に押しあてて前のめりに身体で押すんだ。
(矢切、前掲書、7頁)
三島の割腹創を整理すると、およそ次のようであった。
「下腹部の傷は左から右へ真一文字。ヘソの左8.5センチの位置に深さ4センチの傷。そこから右に14センチの切創。左端の深さ4センチの傷は長さ「短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチ」で、小腸に達している。」
既に示した映像(注)imageに見て取れる血痕から、深さ4センチの傷は下腹部に当てられた短刀の切っ先が下腹部に食い入ってできた傷で、次いで短刀を右に引き回して出来た傷は相対的に浅いものであろうと推測できる。「週刊YOUNG LADY」(12月14日号)の極めて鮮明なカラーグラビアは、腹部の切創からの出血は少ないこと、多量の出血は介錯後の首の落ちた胴体からのものであると判断できることを教えている。
ASAHI EVENING NEWS(1975.11.26)の三面に掲載の写真の左下には、二人の首が床に並べて置いてあるのを見ることが出来るが、白黒写真はあまりにも解像度が悪いため、どちらが三島の首であるのかさえ判別し難いほどで、ましてやその表情など確認の仕様もなく、切腹の"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推し量る参考にはなりそうにない。
この白黒写真に添えられている説明文。
Yukio Mishima and Hissho Morita were decapitated by fellow members of their "Tate-no-Kai"(Shield Society) after they had committed hara-kiri. Their heads lie on the floor at left foreground in the office of Lt.Gen.Kanetoshi Mashita, director of the Ground Self-Defense Force's Eastern Army, at Ichigaya. In the traditional hara-kiri the person comitting suicide usually is decapitated to end his suffering from his disembowelment.
下線部のみ私訳を示しておく。
二人の首は陸上自衛隊市ケ谷駐屯地東部方面益田兼利総監室の床の上、写真手前左に置かれている。(私訳)
朝日新聞26日朝刊一面にも同一の写真が掲載されている。写真の説明は「三島らが割腹自殺したあとの東部方面総監室(25日午前零時半東京・市谷の自衛隊で)」とある。三島割腹の直後に撮影された写真で、遺体検視は30分後の25日午後一時に始まる。総監室に未だ首がある以上遺体もまだ総監室にあるはずだが、写真にはどうやら写っていない。あるいは暗い影の位置にあるため視認できないのかもしれない。
これらの低解像度の白黒写真は引用しない。三島由紀夫の「切腹」の"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を検討する上で、参考にはなりそうもないからである。
(その三 了)
(その四 に続く)