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令和6年(2025)2月13日(木)晴れ
【行程】2月11日 民宿つぎ桜 07:14 - 07:37 中川王子 07:43 - 08:15 小広王子 - 09:54 岩上峠 09:55 - 10:33 蛇形地蔵 - 10:45 湯川王子 10:50 - 11:19 三越峠休憩所 11:23 - 11:54 道の川集落跡 - 12:27 赤木越分岐 12:31 - 12:31 船玉神社 12:33 - 13:05 発心門王子 13:08 - 13:14 発心門王子休憩所 13:34 - 13:55 水呑王子 - 14:33 伏拝王子跡 14:36 - 15:01 三軒茶屋跡 15:02 - 15:30 見晴台地 15:38 - 16:03 熊野本宮大社 16:21 - 16:37 ゲストハウス結 (素泊まり5,081円)
歩行距離21.8km 登り1,020m 下り1,520m
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食べきらないほど豪勢な朝食をいただき、重量感のある弁当をザックに詰めて出発
民宿の裏手を登ると「継桜王子」と「とがの木茶屋」がある
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とがの木茶屋 継桜王子登り口
田辺市が住民団体「ちかの平安の郷推進協議会」に運営委託している休憩所。1~2月は無人
「夕刻ここに着いて宿を探す外国人もおり、応じてくれる宿も無く対応に苦慮している」と宿の主人は言っていた。「とがの木(とちの木)」
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秀衡桜
「赤子を乳岩に置いて来た秀衡は、野中まで来て、そこにあった桜の枝を手折り、別の木(ヒノキ)に挿し、「置いて来た赤子が死ぬのならばこの桜も枯れよう。熊野権現の御加護ありてもし命あるのならば、桜も枯れないだろう」と祈り、また旅を続けた。帰り道、野中まで来ると、桜の枝は見事につき、花を咲かせていた。」
以前は王子社の社前にあったが枯れ、初代紀州藩主徳川頼宣の命により山桜を代わりに植えた。その2代めの桜も明治の水害で倒れ、100mほど東の古道端に植えられた。今の秀衡桜は5代目。
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安倍晴明とめ石
安倍晴明が那智にこもる花山法皇のもとを訪れる途中、この地で土砂が崩れることをを予知し、石に式神を封じ、土砂崩れを未然に防いだという。
くぼみが腰掛けるのに丁度よさそうだからか「腰掛け石」ともいう
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86中川王子(中ノ河王子)
「この王子社は早く荒廃したようで、江戸時代の享保七年(1722)の『熊野道中記』には「社なし」と書かれていて、紀州藩がその翌年緑泥片岩の碑を建てました。明治末期には、この碑だけの中川王子神社として、金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。」(解説版)
寒波襲来で道脇には氷柱
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87小広王子
半分かけた石碑だけがあり、解説版も読みにくくなっている
明治末期に金比羅神社(現、近野神社)に合祀された
中世は狼が吼(ほ)える所で「吼比狼(こびろう)」と呼ばれてた
「小広峠の辺は昔は昼なお暗い山道で、野獣や魔物が現れる不気味な場所でしたが、それらから旅人や村人を守ってくれる狼の群れがいたといわれます。そこから「吼比狼峠」と呼ばれるようになり、「小広峠」となったとのことです。」(み熊野ねっと)
道標40番 この辺りが小広峠か?
道標は滝尻から500m毎にあるので40番は滝尻から20km
ここから急な下り坂の土道となる
地蔵 大切にされているようだが特に名前は無いのだろうか?
杉林を登りきると熊瀬川王子に出る
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88熊瀬川王子
「熊瀬川の地名は、草鞋峠の登り口付近一帯をさしますので、王子跡はこことするのが一応妥当でしょうが、その他の文献には見えませんので、小広王子と同じとする意見や王子社の存在そのものを疑問視する意見もあります。」(解説版)
一里塚跡
ここの解説版には和歌山から本宮まで一里塚を築いた。ここは和歌山から28里(112km)とある
いままで一里の起終点と何里の塚か疑問に思っていたことが氷塊した
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草鞋峠 標高592m
この付近の道は山ビルが多く「蛭降谷(ひるふりだに)百八丁」と呼ばれていた
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岩神王子への分岐
平成23年(2011)の台風災害以来、岩神王子への道は閉鎖されている
岩上峠 標高671m
下草にシダが生い茂る様子は関東とは異なり明るい感じがする
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蛇形地蔵
「海藻の化石が蛇の鱗の様にみえることから蛇形石といわれ、その石を背にしているので「蛇形地蔵」と言われている」(解説版)
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道湯川集落跡
江戸時代までは宿場もあり賑わっていたが、昭和31年に廃村になった。
辺地であったため1902(明治35)年から 1945(昭和 20)年まで「義務教育免除地」だった
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90湯川王子
明治末期に金比羅神社(現、近野神社)に合祀された。建物は昭和58年に再建された
三越峠手前で日本人夫婦に合った。昨日以来初めての日本人である
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三越峠
口熊野と奥熊野の境界とされる
紀州藩では、熊野(牟婁郡)を和歌山から近い順に「口熊野」「奥熊野」と呼んでいた。
三越峠を下りきったあたり、本宮に流れる音無川源流
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道の川集落跡
「昭和45年(1970)4月24日に公布された「過疎地域対策緊急措置法」を契機に、昭和48年(1973)に集団移転し廃村となった。また、平成23年(2011)の台風12号により、集落内で大規模な土砂崩れが発生したため、当時の集落の面影は見られないが、南に開けた日当たりの良い集落であったと考えられる」(解説版)
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蘇りの樹
この木は平成23年(2011)の台風12号による崩落、数十メートル滑り落ちたが活着した
平成23年紀伊半島大水害の概要
赤木越分岐
音無川を渡れば湯ノ峰温泉へ行く赤木越の道
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右に玉姫稲荷、奥に船玉神社
・山奥に船の神様があるのは
昔ここに玉瀧という滝があり、神様が滝つぼで蜘蛛が泳ぐ姿を見て見て、船というものを思い付き、楠をくりぬいて丸木船を造った。これが最初の船であった。」という言い伝え
船玉神社は本宮大社の奥の院にあたるとも
・隣の玉姫稲荷は、舟玉と夫婦神ともいわれているそう。玉姫稲荷は月に1回、玉置山(たまきさん。奈良県十津川村。「熊野三山の奥の宮」ともいわれる玉置神社がある)に通うということです。(み熊野ねっと)
猪鼻王子近くの山裾がイノシシの鼻に似ているからとも言われている
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92発心門王子 (五体王子)
発心門「悟りの心を開く入口」とされる大鳥居があったことに由来する
明治の神社合祀後は石碑が立つだけだったが、平成2年に社殿が建てられた
藤原定家の歌碑
「いりがたき みのりの門は けふ過ぎぬ 今より六の道に帰すな」
(入りがたい仏法の門を今日過ぎた 今から六道輪廻の世界に引き返すな)
ここからが熊野本宮の聖域
ここで弁当を広げる
おかずはミカンの下に卵やウインナーもあり豊富、御飯はぎっしり詰められやっと食べきった
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発心門集落、地元では「ほっしんもん」とは言わず「ほっしんぼ」というらしい
ヤタガラスの木彫が道案内してくれる
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93水呑王子
昭和48年に廃校になった小学校跡にあり、中世には「内水飲」と呼ばれていた。
江戸時代には廃絶し、1723年(享保8年)に紀州藩が緑泥片岩の碑を建てた
「蘇生の森の道 熊野古道」石柱
「関東ベー」にとって羊歯(しだ)が生い茂る森は異世界だ
「南無観世音菩薩 果無山伏神道場」の幟
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94 伏拝王子(ふしおがみ)
スタンプの後ろは和泉式部供養塔
熊野本宮の森(旧社地:大斎原)を遠望できた場所で、ここから本宮の森を伏し拝んだといわれいる
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和泉式部供養塔
「和泉式部が熊野詣をして、伏拝の付近まで来たとき、にわかに月の障りとなった。これでは本宮参拝もできないと諦め、彼方に見える熊野本宮の森を伏し拝んで、歌を1首、詠んだ。
『晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき』
すると、その夜、式部の夢に熊野権現が現われて、
『もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき』
そう返歌したので、和泉式部はそのまま参詣することができたという。」(み熊野ねっと)
羊歯の土道を下る
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三軒茶屋で高野山への小辺路(黄色→)と本宮(青→)に分かれる
石の道標には「右かうや 十九り半 左きみい寺三十一り半」と刻まれている
途中の「ちょっと寄り道展望台」へ
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95 祓殿王子(はらいど)
本宮を目前にして旅の汚れを祓い清める場所
熊野本宮
158段の石段
左から第一殿・第二殿の相殿、第三殿、第四殿と3棟並んでいる
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第三殿が本社「証誠殿」、主神の家都御子大神(けつみこのおおかみ)
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第一殿から第四殿までを上四社、第五殿から第八殿までを中四社、第九殿から第十二殿までを下四社(熊野十二所権現)
中四社と下四社は明治22年の水害で流され、今は無い
明治24年(1891年)に流出を免れた上四社を現在ある高台に遷座
熊野三山のヤタガラスのデザインはそれぞれ違う
カラス文字で書かれた 熊野牛王神符(くまのごおうしんぷ)
厄除けのお札としてだけでなく、裏面に誓約文を書いて誓約の相手に渡す誓紙としても使われてきました。牛王宝印によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあれば、たちまち神罰を被るとされていました。(み熊野ねっと)
赤穂浪士の血判状なども熊野牛王神符が使われた
和泉式部祈願塔
今宵の宿、ゲストハウス結
夕食後リビングでこたつに入っているとオーナーから京都の酒を御馳走に
四方山話に花が咲き楽しいひと時をを過ごせた
昨日と本日二日間山道を歩きましたが日本人に出会ったのは一組二人だけ
スペイン巡礼の道(サンチャゴ・デ・コンポステーラ)と共通のスタンプ帳を手にする外国の人ばかり
今宵の宿も、皆外国人でした
宿のオーナーも日本人が珍しいのか少しのお酒で盛り上がりました
やっとたどり着いた熊野本宮も感激でしたが
宿のオーナーや地元の方の話を聞くのも旅の醍醐味でもあります
参考1:歩く旅シリーズ 熊野古道を歩く 山と渓谷社
参考2:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考3:藤原定家の熊野御幸(ごこう):神坂次郎著 角川ソフィア文庫
参考4:熊野まんだら街道:神坂次郎著 新潮文庫
参考5:み熊野ねっと
参考6:ウオーカーステイションTV
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