古本の紹介コーナーです。
今日紹介するのは、昭和56年刊の角川文庫。「親の顔が見たい」というセンセーショナルな題名の本です。早速、引用します。
≪現在は民主的な家族制度なのだから、親は民主的な権威によって子どもを導きなさいといくら言われても、親に民主的な権威たり得る実力がなければ、どうにもなりません。≫
どう思います?
この本の著者、川上源太郎さんは、端から親として子どもに対し民主的な権威であることを断念しています。
敗北主義ですな。。。
この方、民主的な親になる代わりに、親が親であるために、「力」が必要だと提言します。そして、≪親が過度に物理的な力も精神的な力もふるわずに、なお家族が一定の自由をもつためには、何が必要か。そのためには、政治社会に「伝統」が必要なように、家庭には「家風」が必要なのです≫と、説き起こされます。
ここで言われる「家風」って何なのでしょう。著者によると、≪世代から世代へと、家庭を特徴づけている「生活のかたち」≫らしいです。
このような生活のかたち、言い換えれば、日常の喜び、悲しみを享受する仕方が共通――家風がある――ならば、てんでばらばらのことをやってよい。外見はどうあれ、日々の体験を結び付ける糸があるので、精神は充実しているというのが論者の主張するところです。
「生活のかたち」という名において、物の見方、感じ方、味わい方、分かり方、行為の取り方等々、全てを通じ、共にあろうというわけです。この点が確かであるなら、妻や子どもたちが「何を」やっていても構わないそうです。しかし、逆らうようで申し訳ないですが、苦言を呈させてもらいます。
「あんた、ファシストか」ってね。
この方、核家族が諸悪の根源であるかのようなご指摘をされてます。すなわち、老人を排除する、そのような家庭は、根なし(ノー根)であり、目の前に何を置かれても、心の底から感じたり味わったりする魂がない(ノー魂)。また人生の黄昏(たそがれ)を知らない(ノー昏)ため、未熟者の集まりのまま終わる、と。
ノー根、ノー魂、ノー昏ですよ。どうせなら、ノーパンも加えて欲しい。とにかく標語が好きな方なんですな。しかし、なぞらえて言わしてもらうと、この人の最大の問題点は、ノー今だと思います。つまり、今がない!
≪いずれ、老人の世話をいくら望んでも、金では解決できないときが来る≫のだという警鐘は、確かに事実かもしれないです。少なくとも、介護が営利事業としては成り立たないのは、昨今のコムスン騒ぎで明瞭です。しかし、ならばこそ「家風に染まれ」などと、義理も含め息子や娘に迫るべきではないのです。なぜって、脅しにしか聞こえないからです。脅しで悪けりゃ、拘束です。脅しや拘束からでは優しさを引き出せません。強迫神経症的なぎすぎすした家族関係が出来上がるだけです。親が親の顔を失うのです。
核家族に問題がないわけではないでしょう。しかし、「家風」などという抽象的な概念で家族を縛り、「ご先祖様」になりゆく自分の価値観を共有させるべくしゃかりきになって、優しさの代わりに得るものは、孤独です。面従腹背の家族に囲まれ味わうのは悲哀でしかないでしょう。そんな生活に、かけがえのない「今」があると言えるでしょうか。どんなに苦しくても、民主的権威を身につけることこそが老後に備える最良の策と考える所以です。
ちなみに、僕は、お袋の介護をしていて、自分が介護を受ける立場に立つことなど、およそ想像できないです。介護がどれほど大変かが分かるだけに、「家族」という甘い言葉で誰かを囲い込んで、同じ苦労を背負わせる気になれないってことです。
とりあえず、家族であるかどうかはひとまず置き、年寄り同士、みんなで支えあっていく社会ができればいいな、と考えます。それとも、血のつながりのない者同士では、出会いがしらに支えあってはダメでしょうか。
今日紹介するのは、昭和56年刊の角川文庫。「親の顔が見たい」というセンセーショナルな題名の本です。早速、引用します。
≪現在は民主的な家族制度なのだから、親は民主的な権威によって子どもを導きなさいといくら言われても、親に民主的な権威たり得る実力がなければ、どうにもなりません。≫
どう思います?
この本の著者、川上源太郎さんは、端から親として子どもに対し民主的な権威であることを断念しています。
敗北主義ですな。。。
この方、民主的な親になる代わりに、親が親であるために、「力」が必要だと提言します。そして、≪親が過度に物理的な力も精神的な力もふるわずに、なお家族が一定の自由をもつためには、何が必要か。そのためには、政治社会に「伝統」が必要なように、家庭には「家風」が必要なのです≫と、説き起こされます。
ここで言われる「家風」って何なのでしょう。著者によると、≪世代から世代へと、家庭を特徴づけている「生活のかたち」≫らしいです。
このような生活のかたち、言い換えれば、日常の喜び、悲しみを享受する仕方が共通――家風がある――ならば、てんでばらばらのことをやってよい。外見はどうあれ、日々の体験を結び付ける糸があるので、精神は充実しているというのが論者の主張するところです。
「生活のかたち」という名において、物の見方、感じ方、味わい方、分かり方、行為の取り方等々、全てを通じ、共にあろうというわけです。この点が確かであるなら、妻や子どもたちが「何を」やっていても構わないそうです。しかし、逆らうようで申し訳ないですが、苦言を呈させてもらいます。
「あんた、ファシストか」ってね。
この方、核家族が諸悪の根源であるかのようなご指摘をされてます。すなわち、老人を排除する、そのような家庭は、根なし(ノー根)であり、目の前に何を置かれても、心の底から感じたり味わったりする魂がない(ノー魂)。また人生の黄昏(たそがれ)を知らない(ノー昏)ため、未熟者の集まりのまま終わる、と。
ノー根、ノー魂、ノー昏ですよ。どうせなら、ノーパンも加えて欲しい。とにかく標語が好きな方なんですな。しかし、なぞらえて言わしてもらうと、この人の最大の問題点は、ノー今だと思います。つまり、今がない!
≪いずれ、老人の世話をいくら望んでも、金では解決できないときが来る≫のだという警鐘は、確かに事実かもしれないです。少なくとも、介護が営利事業としては成り立たないのは、昨今のコムスン騒ぎで明瞭です。しかし、ならばこそ「家風に染まれ」などと、義理も含め息子や娘に迫るべきではないのです。なぜって、脅しにしか聞こえないからです。脅しで悪けりゃ、拘束です。脅しや拘束からでは優しさを引き出せません。強迫神経症的なぎすぎすした家族関係が出来上がるだけです。親が親の顔を失うのです。
核家族に問題がないわけではないでしょう。しかし、「家風」などという抽象的な概念で家族を縛り、「ご先祖様」になりゆく自分の価値観を共有させるべくしゃかりきになって、優しさの代わりに得るものは、孤独です。面従腹背の家族に囲まれ味わうのは悲哀でしかないでしょう。そんな生活に、かけがえのない「今」があると言えるでしょうか。どんなに苦しくても、民主的権威を身につけることこそが老後に備える最良の策と考える所以です。
ちなみに、僕は、お袋の介護をしていて、自分が介護を受ける立場に立つことなど、およそ想像できないです。介護がどれほど大変かが分かるだけに、「家族」という甘い言葉で誰かを囲い込んで、同じ苦労を背負わせる気になれないってことです。
とりあえず、家族であるかどうかはひとまず置き、年寄り同士、みんなで支えあっていく社会ができればいいな、と考えます。それとも、血のつながりのない者同士では、出会いがしらに支えあってはダメでしょうか。
いつの時代にもあるものなのですね。
ことに昨今は酷いような気がしますが…。
本が売れない時代の苦肉の策という側面もあるようですが、
売れれば何を書いてもいいというのもなんだか、ですね。
私も今、独身の叔母が末期がんとなり、
病院通いの日々ですが、
家族、血縁だけでは限界を感じています。
個人の尊厳が守られた上で
もっと社会的なシステムが必要だなと思ってます。
それには高齢者自身がどういう生活をしたいのか
はっきりと意思表示ができることが大切だと思いますが、
なかなか難しいのが現状です。
忠太さん、私たちの時代には
きっちり自己主張して、
どんな寝たきりになっても
こういう暮らしを送りたいと言える老人になりましょうね!
何があっても日々は過ぎて行きますねぇ。。。
私は、必ずしも親と同居すれば生活の享受の仕方が共通する、とは思っていません。現に子供の頃、私は親のようにはなりたく無いと思っていましたが、出来れば一緒に暮らしてもいいと思っていましたよ。
昭和の頃はどうしても親は「家制度」的な考えが残っていましたね。でも今は、家族で支える形態になってきていると思います。
息子の彼女の家には「家風」があります。
かなり厳しいようです。しかし、家族は父に本当のことを言っていません。怖くて言えないと言っています。私は彼女の父親が孤独で可哀そうだって思っています。当の本人は気付いてないでしょうけれど。
今、地域で声の掛け合いが行われているようです。でも怖い事件も実際にはあるので、声をかけてもらいたいところは申告してくれという形です。
みんなで支えあっていく社会ができればいいなと言う考えは多くの人が持っているようですが、行動するのは難しい世の中ではあると思います。
老人クラブを作るときは、是非、報告するようにします。ただ、ひかるさんが入会するときは、僕の方はミイラだったりして…。
☆obichanさんへ
人間関係の決め手は、妥協の仕方にかかっていると思います。相手によっては秘密も時に必要でしょうね。
多種多様な価値観の中にあって、探る答えも百人百様でしょうね
今日の記事で「今」と言うキーワードがポイントだと思いました
私も「今」が一番大事と思って、その「今」の空気を感じて生きています
しかし、自己中心で生きていますからして、よそ様の事は(世の中の事は)遠目で見ております
自分もいずれ足腰が立たなくなる時が来るのでしょう・・その時はその時です、我慢します。
そんな母を看たので学びました。 でもその時にだれが手を貸してくれるかですね、私がした様に娘が手を貸してくれると良いけれど・・
goo homeのメールがトラブって送れませんでした、困ったなあ・・すみません。
すみませんm(__)m
僕こそ、こんな言い方すると、ふざけているようですね。にっこさんのコメ、楽しみにしてます。