大阪府は、橋下知事が関西にある大学の学長を招いて、府立大学(以下、府大と略す)に関し、意見交換会を開催したようです。「民営化したい」という彼の願望に沿うような形で論評が続出してました。
そりゃ、もちろん「民営化したらアカンで」と言えば、私学の存在意義を否定する発言になります。しかし、「公立ならばこそと、威張って主張できるだけの独自性がない」ということを府大の限界として当たり前のように言うのは、民営の大学を無条件に肯定している点で可笑しいです。
こういう批判には、「では、お集まりの大学の皆さんには、これだ! という私立ならばこその独自性がありますか」と、切り返せば済む問題です。
授業料は、本来どの大学でも無料にすべきなのです。つまり、一部の特殊専門的な学校は例外としても、原則的に国立であるべきです。教育に金をかけない国は滅びます。これは、新自由主義の立場に立つ立たない以前の問題です。現に、フランスのサルコジ大統領は、新自由主義の立場から2007年に大学独立化法を制定させ、大学に競争原理を持ち込みましたが、「民営化」は全く問題にしてません。かの国の大学は、ほとんど全て国立なのですよ。
新自由主義と言えば「民営化」という皮相な理解があります。しかし。必ずしも両者は結び付きません。それを分かってないと、かえって新自由主義の裏からの侵入を許してしまうでしょう。橋下知事の「府大にはアイデンティティ(独自性)がないということですね。」という受け止め方に、とても不安を感じたのはそれがためでしょう。
言わせてもらうなら、アイデンティティは、個人にあっても、はたまた集団にあっても、さほど透明ではありません。もし、そこに価値を見出すなら、放って置くのが最良の策です。日本も鎖国という他国との没交渉の時代があったればこそ、独自な文化を生み、育てました。アイデンティティというのは、言ってみれば「らしさ」です。当事者にさえ、得体の知れない枠組みです。その性質からしても、他の大学の学長がとやかく言うべきではありません。
個々の学者の研究における、“はみ出し”に対し、学外からの介入、干渉を許す「らしさ」というのはナンセンスです。そうは思いませんか。あえてそのナンセンスを強行すれば、政治家に要請されるままに、集まった私大の学長らの共通の物差しで測られる性質をもった学問の自由が残るきりです。そんなもの、百害あって一利なしではないでしょうか。何故かと言うに、反個性だからです。逸脱を認めない学問などは、そもそも学問の名に値するかさえ疑問です。
学問は、研究内容に非常識が内にないといけません。
たとえば、理系の場合、大地は丸いという見識がまず挙げられます。大地は平らでしょう? それを否定するんですよ。非常識ですね。地球は、空に浮かぶ雲がごとく宇宙にあり、太陽の周りをものすごい速さで飛んでいる! 実感できます? やはり非常識です。時間や空間が伸びたり縮んだりするというアインシュタインの理論なんて、問題外。笑止千万です。
キリスト教徒でなくったって、学校で学ばなければ(ケッ!)と唾を吐きたくなりますでしょ? このように、経験では納得できない机上の空論を振り回し、遂には実証して見せたのが科学の発展史だったわけです。
文系の場合は、状況が変わります。理系と比べ、非常識な発言をし難いからです。ヘーゲルがその著「大論理学」でぼやいています。哲学は自己の存在理由を論じる学問だから、特別な訓練を受けなくとも(常識がありさえすれば、という前提でしょう[筆者註])理解できるはずだという思いこみが世の中に満ち溢れている、と。
何が言いたいかというとですね、アイデンティティ崩壊の危険に自分を突き落とすことが大切であり、そこに学問の生命があるってことです。矛盾あればこその止揚(しよう)というわけです。まかり間違っても、アイデンティティを維持しようとしてはいけない。維持したが最後、もはや学問する人ではなくなってしまいます。
思うに、大学の存在意義については、人材養成に着目し、知識や技能を身につける点にあるとする人的資本理論と、学生の優秀さや努力を反映する指標として社会が注目するというシグナリング理論があります。二つ共に、社会から見た場合の大学需要論です。そういう観点ではなく、学問する個人の側から見れば、どうでしょう。大学の必要性は、書物の形で残っている先達の「知」の遺産を疑うことを許すシステムにあるのではないでしょうか。どうも橋下知事がしようとしているは、「角(つの)を矯(た)めて牛を殺す」結果になると、僕には思えます。
そりゃ、もちろん「民営化したらアカンで」と言えば、私学の存在意義を否定する発言になります。しかし、「公立ならばこそと、威張って主張できるだけの独自性がない」ということを府大の限界として当たり前のように言うのは、民営の大学を無条件に肯定している点で可笑しいです。
こういう批判には、「では、お集まりの大学の皆さんには、これだ! という私立ならばこその独自性がありますか」と、切り返せば済む問題です。
授業料は、本来どの大学でも無料にすべきなのです。つまり、一部の特殊専門的な学校は例外としても、原則的に国立であるべきです。教育に金をかけない国は滅びます。これは、新自由主義の立場に立つ立たない以前の問題です。現に、フランスのサルコジ大統領は、新自由主義の立場から2007年に大学独立化法を制定させ、大学に競争原理を持ち込みましたが、「民営化」は全く問題にしてません。かの国の大学は、ほとんど全て国立なのですよ。
新自由主義と言えば「民営化」という皮相な理解があります。しかし。必ずしも両者は結び付きません。それを分かってないと、かえって新自由主義の裏からの侵入を許してしまうでしょう。橋下知事の「府大にはアイデンティティ(独自性)がないということですね。」という受け止め方に、とても不安を感じたのはそれがためでしょう。
言わせてもらうなら、アイデンティティは、個人にあっても、はたまた集団にあっても、さほど透明ではありません。もし、そこに価値を見出すなら、放って置くのが最良の策です。日本も鎖国という他国との没交渉の時代があったればこそ、独自な文化を生み、育てました。アイデンティティというのは、言ってみれば「らしさ」です。当事者にさえ、得体の知れない枠組みです。その性質からしても、他の大学の学長がとやかく言うべきではありません。
個々の学者の研究における、“はみ出し”に対し、学外からの介入、干渉を許す「らしさ」というのはナンセンスです。そうは思いませんか。あえてそのナンセンスを強行すれば、政治家に要請されるままに、集まった私大の学長らの共通の物差しで測られる性質をもった学問の自由が残るきりです。そんなもの、百害あって一利なしではないでしょうか。何故かと言うに、反個性だからです。逸脱を認めない学問などは、そもそも学問の名に値するかさえ疑問です。
学問は、研究内容に非常識が内にないといけません。
たとえば、理系の場合、大地は丸いという見識がまず挙げられます。大地は平らでしょう? それを否定するんですよ。非常識ですね。地球は、空に浮かぶ雲がごとく宇宙にあり、太陽の周りをものすごい速さで飛んでいる! 実感できます? やはり非常識です。時間や空間が伸びたり縮んだりするというアインシュタインの理論なんて、問題外。笑止千万です。
キリスト教徒でなくったって、学校で学ばなければ(ケッ!)と唾を吐きたくなりますでしょ? このように、経験では納得できない机上の空論を振り回し、遂には実証して見せたのが科学の発展史だったわけです。
文系の場合は、状況が変わります。理系と比べ、非常識な発言をし難いからです。ヘーゲルがその著「大論理学」でぼやいています。哲学は自己の存在理由を論じる学問だから、特別な訓練を受けなくとも(常識がありさえすれば、という前提でしょう[筆者註])理解できるはずだという思いこみが世の中に満ち溢れている、と。
何が言いたいかというとですね、アイデンティティ崩壊の危険に自分を突き落とすことが大切であり、そこに学問の生命があるってことです。矛盾あればこその止揚(しよう)というわけです。まかり間違っても、アイデンティティを維持しようとしてはいけない。維持したが最後、もはや学問する人ではなくなってしまいます。
思うに、大学の存在意義については、人材養成に着目し、知識や技能を身につける点にあるとする人的資本理論と、学生の優秀さや努力を反映する指標として社会が注目するというシグナリング理論があります。二つ共に、社会から見た場合の大学需要論です。そういう観点ではなく、学問する個人の側から見れば、どうでしょう。大学の必要性は、書物の形で残っている先達の「知」の遺産を疑うことを許すシステムにあるのではないでしょうか。どうも橋下知事がしようとしているは、「角(つの)を矯(た)めて牛を殺す」結果になると、僕には思えます。
お返事を書こうかと何回かお尋ねしたんじゃけど、
内容が高度過ぎてウチには理解不可能です。
いうて、たかじんのなんでも委員会は好きなんでその延長と思い挑戦してみたけど、
?でした。ごめんなさい。
曲の感想も聞きたいんじゃけど姑さんがいるんでだめじゃけん、許して下さい。
ただ、お元気そうじゃけん、良かったと思うております。
さて、学校と言う学校、小学校から大学まで全て無償にすべき、というのが、まず僕の考えの出発点です。現状では、各家庭に諸事情、なかでも経済的な格差が歴然としてあり、進学がままならなくなっている層が社会的に形成されているでしょう。たとえば、派遣労働者で夫婦共働きの場合、子どもに高等教育を受けさせるのを断念させるという事態がこれから頻発して行くと思うのです。行政の責任者としては、それをどうするかと言う問題意識が大切と思います。
教育を受けうる人と、受けられない人の層が出来上がれば上がるほど、社会は不安定になって行きます。私学に経済的な理由による就学困難者を受け入れる余地があるでしょうか。その点、大阪と言う地に密着して、不十分でもそのような学生を受け入れられる素地があると言うだけでも、府大に独自性があると言うべきです。これに反し、橋下さんが国立でも私立でもない“公立”である府大の存続させる意義を問題視してます。私大の学長という有識者に尋ねる形にこそなってますが、意図しているところは、府大の廃止です。
私立大の学長にすれば、研究者のレベルでは“同じ穴のむじな”なのにかかわらず、授業料の高さが学生数を確保する上でハンディになっている、という被害者意識があるんだと思います。しかし、大事なことは、就学機会を欲する者にそれを与えることなのであって、大学間に格差を付け、優等とされる大学を優遇することではないはずです。そんなことをしても、独自性のある大学が誕生するわけではありません。
具体的な例を出しましょう。最近、ノーベル物理学賞で騒がれた3人の学者がいました。いずれの方も東京大学のOBではなかったです。日本に数ある大学の中で、この大学ほど優遇さているところはないでしょう。しかし、ノーベル賞には手が届かないわけです。もし、だから独自性がないと断罪し、東京大学を私学にしようという議論があったら、さすがにおかしいと多くの人が考えるのではないでしょうか。
橋下さんがやろうとしているのは、目先のことだけを考えた財政赤字の解消です。しかし、何故赤字になったか、という分析を抜きにしてして、根本からの解決はないです。政治にビジョンがないから、弱い者にしわ寄せが行くようなことばかり言っているのではないでしょうか。
最後になりましたが、また姑さんがいないとき、曲の話題、お願いします。
コメント、ありがとうございました。
おいそがしいのに、こんなに詳しく説明して下さってありがとうございました。
この度の解説はとても分かりやすかったです。
橋下さんも東国原さんと同じで、やはり人気が先行して、一番に、県民、府民のことをよく考えてくれていないのでしょうか?
府大をなくすようなことを唱えておられているとは、私はよその県民ですが、知らなかった自分が恥ずかしいし、ニュースを見ているようで結局理解してなかったんだとショックでした。
そういえば(自信ないけど)赤字の為に図書館も一部、廃止する案が出ているんですよね。
広島も財政が厳しいです。
市民球場跡地もどうするか問題になっています。
市長さんがニューヨークのような公園にしたいと言われていましたが?になりました。
近くに平和公園があるのに、何個公園を作ればいいんかとも思います。
それよりも、交通の便がいいんだし、せっかく市民が建てた球場じゃし、今はまた弱い、金のない球団になってしもうたけど、選手を育てるのはうまいし、強かった時代の功績をたたえて記念館にしたり球場を残すようになんで考えんのンかと思います。
偉い方も確かに頭が痛いとは思いますが、目先のことだけでなく、未来のことも考えてほしいですね。
話がすっかり逸れました。ごめんなさい。
また、難しいニュースを子供にも分かるように、解説して下さいね。
くれぐれもご無理をしない程度でお願いいたします。