日本語の特徴として「主語は、ともすると省略されます。
子供の頃、「僕」、「僕」としつこく言ってると、
「僕ちゃんは」などと、女性に呼び直され、からかわれたよ。
「わし」に「おれ」などは、
社会からドロップアウトした人間の使う用語として、
端から忌避されているんかな。
よう分からん。
とにかく、主語の省略が常態化しています。
主語がなければ、
「和」の精神が満たされるということか。
これって、男らしさの発露なのか。
違うんでないの?
他人を気遣うと言っても、
「私」という主語を明確に示した方が、
相手への気遣いが直截に伝わる場合がある。
他人が痛手を被るような場合を想定して見ればよい。
たとえば、
次のような場合。
デートのお誘いを拒絶するとき、
「わたしは、他に予定がある」
と言っちゃえば、
「そうか」
ですむ。
(愛情があれば)
近づかないようにもしてくれる。
もし、このようなとき、
「あなた」を主語にし、
「あなたは、下心が丸出しにして、愚鈍。他を当たって」
などと答えれば、相手は感情的にならざるを得ん。
拒絶に非難付きだからだな。
下手をすると、
非難をされた言葉の意味を
一生涯、相手は考え、抱え込むことにもなるんだよ。
もっとも、
「あなた」や「私」を主語から外してしまい、
他の何かを主語にもってきて、断る理由にすれば、
二人の関係は、波立たない反面、背景へと転落します。
たとえば
「デートは親に許してもらえない・・・(ぼそぼそ)」
しかし、これは、
ほとんど、しかめっ面して、あっかんべーするのと変わらんです。
ところで、国際的な場面なら、
なおさらデリカシーがなくてはならんと思う。
なにしろ文化を異にするのだ。
この点、
日韓併合に関する、菅直人首相の談話。
ありゃ、いけないな。
談話全文は
東亜日報に載ってるよ。
その中にある、
「本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。」
という最初の文に続く、二文目に問題あり。
「ちょうど100年前の8月、日韓併合条約が締結され、
以後36年にも及ぶ植民地支配が始まりました」
となっておりますですね、そこです。
つまり、この二文目は、「条約が締結され」となっていて、
受身の表現になっている・・・
ために、
まるで他人事。
しかし、我が国が当事者として締結した条約だった。
ならば、
その時の立場に即し、
「大日本帝国」で始まる、すなわち、この語を主語にした、
能動的な表現で、
条約を締結した事実に触れるべきだったのではなかったか。
どうせ詫びるのであれば、
主体的に
反省をした上でお詫びすべきと、僕は思う。
そうすれば、日本は、
自国の立ち位置をごまかすつもりのない気持ちを
条約締結の相手国に、
すなわち、北朝鮮と韓国に分断された「大韓帝国」の人たちに
明瞭に伝えられただろう。
さて、ここで、すこし日本史を復習。
「大日本帝国」が「大韓帝国」に締結させた条約は、次のような内容だった。
1910年8月22日、全権委員により調印した。
-
韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す
-
日本国皇帝陛下は、前条に掲げたる譲与を受託し、且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾する
理不尽だ、そう思わん?
想像力の翼を働かせて見給え。
考えよう。
これは、任意の併合を装った植民地化以外の何物でもない。
そう思うか思わないかは、人の良心の問題だって?
反論するならば、公布日まで条文が秘密にされていた理由を説明すべきだ。
この考え、如何?
正当な国譲りがあったというなら、
堂々と条文起草の段階から経過を明らかにすればよかった。
新聞を次々に廃刊するなどもっても他。
しかも、
1907年からの4年間、
殺害した義兵は1万8000人に上ります。
一番問題なのは、
今もって日本人は、過去の負の遺産を直視してないことです。
黒々と人の顔に墨を塗り付けながら、
「きれいにしてやった。感謝しろ」
というのは、天を恐れぬ所業ではあるまいか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます