百万本のバラ 加藤登紀子
今は芸能界を引退なさった久米さんも歌ってます。
ただ、加藤さんとは別に、独自に訳されたものなので、
少し歌詞内容が異なります。
久保田早紀(久米小百合) - 百万本のバラ(Million Roses)
さて、こんな人達も歌っています。
歌詞は、仲代圭吾さんを除き、加藤さん訳に依ります。
しかし、雰囲気の違いがありますので、そこを楽しんでください。
八代亜紀・弦 哲也 - 百万本のバラ 1995
キム・ヨンジャ - 百万本のバラ
徳永英明 - 百万本のバラ
徳永さんに続き、同じく男性の歌声です。しかし、徳永さんとは全く違う歌い方です。
何より、おしどりコンビで歌っているところがいいです。
仲代圭吾/行代美都 - 「百万本のバラ」
ロシア語で歌って、旧ソ連で大ヒットさせたのは、次に紹介するアラ・プガチョワ さんでした。
今まで日本で歌われていたのは、この方が歌った歌詞を和訳したものでした。
Alla Pugacheva-1983 Million Roses
英訳は、次の動画をご覧ください。
Million Scarlet Roses (Alla Pugacheva )
最近になって、
上と少し毛色の違う流れの訳詞が小田陽子さんによって歌われるようになりました。
小田さんはまた、「百万本の薔薇」はバルト三国のラトビアに源があるとか・・・
この曲にまつわるエピソードを解説してらっしゃます。
こちらです。
「Home」に飛び、右側に見える「試聴」をクリックすると、
少しですが「マーラが与えた人生」という、
「百万本の薔薇」とは曲名が異なるものの同じメロディ、
ただ、歌詞の中身が違う曲が聴けます。
沢山の歌手がカバーしている前者、すなわち、「百万本の薔薇」の方は、
実在した放浪のロシアの画家、
ニコ・ピロスマニの求愛の形をモデルにして作詞されたもので
上に述べたように、旧ソ連で流行りました。
これに対し、後者は、この曲の元歌にあたります。
マーラ(聖母)から頂いた命に仮託して
ラトビアという祖国を歌っているようです。
しかしまた、同時に、そこに自分の運命も重ねられます。
ちなみに、次のサイトに元歌の訳詞が載ってました。
http://byeryoza.com/topic/log2006/mara.htm
以下、引用します。訳詞者は、黒澤歩という方です。
(1) 子供のころ泣かされると
母に寄り添って
なぐさめてもらった
そんなとき母は笑みを浮かべてささやいた
「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」
(2) 時が経って、もう母はいない
今は一人で生きなくてはならない
母を思いだして寂しさに駆られると
同じ事を一人つぶやく私がいる
「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」
(3) そんなことすっかり忘れていたけど
ある日突然驚いた
今度は私の娘が
笑みを浮かべて口ずさんでいる
「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」
下の動画を見て下さい。
ラトビア語で歌うと、こんな感じです。
さびの部分に入る子どもの声が何とも言えません。
Aija Kukule - Dāvāja Māriņa
歌を聴きながら、皆さんは、どう感じます?
日本にはロシア民謡として伝わるとともに、
この曲は、恋の歌と理解されて来ました。
求愛のあり方として、確かにとても美しくはあります。
(参考までに、左欄下「ツイッタ―」に加藤登紀子さんの、
この曲に対するコメントをリツイ―トしておきましたので、ご覧ください。
彼女は、次のように述べます。
「百万本のバラの主人公、ピロスマ二は、命がけのプロポーズをしたのに伝わらなかった‼広場いっぱいのバラを贈ったのに!そんな事より真っ直ぐ言えばよかったと?でもそれはこたえがyesかnoのどちらかしかない。無限大の片思いは、永遠の愛でありつづける!これがピロスマニの愛だった、と思う」と。
共感しえるコメントです)。
しかし、そのため、「百万本の薔薇」の元歌「マーラが与えた人生」に含まれている、
恋とは異なるレベルでの美しさ、
人を勇気づけ、血を滾(たぎ)らせる優しさを知らないとしたら惜しいし、勿体ないです。
現に、この曲は、旧ソ連からの独立を願う市民の抵抗手段になったようです。
1989年夏、独立の一歩手前、
押し寄せる弾圧の波に対して
ラトビアを含むバルト三国の一般市民たちは
国境600キロにわたって、手に手を繋いだ人間の鎖を築き、
一発の銃も撃たず、代わりに声を合わせて"歌"を歌い続けたとのことです
(上記、小田さんのサイト参照)。
思うに、元歌の持つ美しさの所以は、多分、祖国愛の底にあるもの・・・
聖なる意味での母性への思慕にあります。
一生を通して
「幸せを受け損ねた」という境遇を突き抜け、
意識が悲哀から歓喜へと昇華する点に、この歌のドラマのような美しさがあります。
僕の説明、分かり難いでしょうか。
この歌の補足と言うより、蛇足かもしれませんが、
恵まれた環境で我がまま一杯に育てば、
痛みをほとんど知らないため、臆病な人間になります。
そして臆病な者ほど甘え、強がります。
これに対し
苦労の多い人生ならば、
心の豊かな、強く優しい人間に育つでしょう。
また、そうなるよう、聖母が傍にいて、見守って下さっている・・・
これこそ、恩寵と言うべきではないか
というような問いかけが、この曲のメッセージとして
歌詞に込められている、
だから歌を歌う子どもの表情までが明るい!
ということではないでしょうか。
違うでしょうか。
多くの日本人が現在、忘れてしまったか、
知らないもの。
しかし、忘れたまま、知らないままでは悲しい、です。
今は芸能界を引退なさった久米さんも歌ってます。
ただ、加藤さんとは別に、独自に訳されたものなので、
少し歌詞内容が異なります。
久保田早紀(久米小百合) - 百万本のバラ(Million Roses)
さて、こんな人達も歌っています。
歌詞は、仲代圭吾さんを除き、加藤さん訳に依ります。
しかし、雰囲気の違いがありますので、そこを楽しんでください。
八代亜紀・弦 哲也 - 百万本のバラ 1995
キム・ヨンジャ - 百万本のバラ
徳永英明 - 百万本のバラ
徳永さんに続き、同じく男性の歌声です。しかし、徳永さんとは全く違う歌い方です。
何より、おしどりコンビで歌っているところがいいです。
仲代圭吾/行代美都 - 「百万本のバラ」
ロシア語で歌って、旧ソ連で大ヒットさせたのは、次に紹介するアラ・プガチョワ さんでした。
今まで日本で歌われていたのは、この方が歌った歌詞を和訳したものでした。
Alla Pugacheva-1983 Million Roses
英訳は、次の動画をご覧ください。
Million Scarlet Roses (Alla Pugacheva )
最近になって、
上と少し毛色の違う流れの訳詞が小田陽子さんによって歌われるようになりました。
小田さんはまた、「百万本の薔薇」はバルト三国のラトビアに源があるとか・・・
この曲にまつわるエピソードを解説してらっしゃます。
こちらです。
「Home」に飛び、右側に見える「試聴」をクリックすると、
少しですが「マーラが与えた人生」という、
「百万本の薔薇」とは曲名が異なるものの同じメロディ、
ただ、歌詞の中身が違う曲が聴けます。
沢山の歌手がカバーしている前者、すなわち、「百万本の薔薇」の方は、
実在した放浪のロシアの画家、
ニコ・ピロスマニの求愛の形をモデルにして作詞されたもので
上に述べたように、旧ソ連で流行りました。
これに対し、後者は、この曲の元歌にあたります。
マーラ(聖母)から頂いた命に仮託して
ラトビアという祖国を歌っているようです。
しかしまた、同時に、そこに自分の運命も重ねられます。
ちなみに、次のサイトに元歌の訳詞が載ってました。
http://byeryoza.com/topic/log2006/mara.htm
以下、引用します。訳詞者は、黒澤歩という方です。
(1) 子供のころ泣かされると
母に寄り添って
なぐさめてもらった
そんなとき母は笑みを浮かべてささやいた
「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」
(2) 時が経って、もう母はいない
今は一人で生きなくてはならない
母を思いだして寂しさに駆られると
同じ事を一人つぶやく私がいる
「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」
(3) そんなことすっかり忘れていたけど
ある日突然驚いた
今度は私の娘が
笑みを浮かべて口ずさんでいる
「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」
下の動画を見て下さい。
ラトビア語で歌うと、こんな感じです。
さびの部分に入る子どもの声が何とも言えません。
Aija Kukule - Dāvāja Māriņa
歌を聴きながら、皆さんは、どう感じます?
日本にはロシア民謡として伝わるとともに、
この曲は、恋の歌と理解されて来ました。
求愛のあり方として、確かにとても美しくはあります。
(参考までに、左欄下「ツイッタ―」に加藤登紀子さんの、
この曲に対するコメントをリツイ―トしておきましたので、ご覧ください。
彼女は、次のように述べます。
「百万本のバラの主人公、ピロスマ二は、命がけのプロポーズをしたのに伝わらなかった‼広場いっぱいのバラを贈ったのに!そんな事より真っ直ぐ言えばよかったと?でもそれはこたえがyesかnoのどちらかしかない。無限大の片思いは、永遠の愛でありつづける!これがピロスマニの愛だった、と思う」と。
共感しえるコメントです)。
しかし、そのため、「百万本の薔薇」の元歌「マーラが与えた人生」に含まれている、
恋とは異なるレベルでの美しさ、
人を勇気づけ、血を滾(たぎ)らせる優しさを知らないとしたら惜しいし、勿体ないです。
現に、この曲は、旧ソ連からの独立を願う市民の抵抗手段になったようです。
1989年夏、独立の一歩手前、
押し寄せる弾圧の波に対して
ラトビアを含むバルト三国の一般市民たちは
国境600キロにわたって、手に手を繋いだ人間の鎖を築き、
一発の銃も撃たず、代わりに声を合わせて"歌"を歌い続けたとのことです
(上記、小田さんのサイト参照)。
思うに、元歌の持つ美しさの所以は、多分、祖国愛の底にあるもの・・・
聖なる意味での母性への思慕にあります。
一生を通して
「幸せを受け損ねた」という境遇を突き抜け、
意識が悲哀から歓喜へと昇華する点に、この歌のドラマのような美しさがあります。
僕の説明、分かり難いでしょうか。
この歌の補足と言うより、蛇足かもしれませんが、
恵まれた環境で我がまま一杯に育てば、
痛みをほとんど知らないため、臆病な人間になります。
そして臆病な者ほど甘え、強がります。
これに対し
苦労の多い人生ならば、
心の豊かな、強く優しい人間に育つでしょう。
また、そうなるよう、聖母が傍にいて、見守って下さっている・・・
これこそ、恩寵と言うべきではないか
というような問いかけが、この曲のメッセージとして
歌詞に込められている、
だから歌を歌う子どもの表情までが明るい!
ということではないでしょうか。
違うでしょうか。
多くの日本人が現在、忘れてしまったか、
知らないもの。
しかし、忘れたまま、知らないままでは悲しい、です。
そういう教訓を秘めた曲が今尚子供たちに伝えられているんですね。
「マーラが与えた人生」という題名を初めて知りました。
自由に意思表現できなかった時代に想いを込められるもの、
「自分達の幸せは自分達でつかみたい!」
そんな気持ちが、国境600キロにわたって、
手に手を繋いだ人間の鎖を築いたのでしょうね。
自分の中で恋の歌にしてはちょっと。。
と思っていましたがやっとわかりました。
アイヤ・ククレさんの歌に納得、感銘を受けました。
(お~、これで完成や)と思ったとき、obiさんのコメがありました。
一度、記事をアップしてから、加筆・訂正を繰り返すのは毎度のことで、驚くにはあたりませんが、今回は、ほんと難産でした。
この記事を書くきっかけは、加藤登紀子さんのツイートにありました。「愛は、yesかnoの選択を迫るものではない」という書き込みにハッとしました。そうだよね、そうだよねという共感の中で、「百万本の薔薇」という曲を調べる内、(この歌、何?)という曲に出くわしました。それが「マーラが与えた人生」でした。
ちょっと宗教的な臭いもあって、この曲は難しいぞという感触を得ました。何より、(あれ?)と思ったのは、歌手の女性、子どもがにこやかに笑っている事実でした。これをどう解釈すればいいのか・・・
確かに、笑っているのか確信を得るのに、丸々一日を費やしたほどです。
(笑っているぞ・・・)という確信を持ってから、この曲をどうしても記事にしたくなりました。本文で記した通り、あまり日本人には縁のない考え方が背景にあると判断したからです。
それから、加筆・訂正の日々が5日続きました。身をもって分かったのは、自分の遠回しな言い方のくどさと結論の押しつけがましさでした。「文は人なり」という諺がありますが、文の加筆・訂正作業って、ある意味、人としての自分の身を削ることですね。
(これで終わりかな)と思ったとき、一つ残念なのは、僕のこの完成稿、検索で来る人しか読まないだろうなという予感でした。しかし、こうやってobiさんの目に触れ、感無量です。
(←どんだけ普段から書き直しを実践してきた思てんねん、その裏返しやん、という声も聞こえそうですが・・・ )
何はともあれ、わざわざのコメント、ありがとうございました
ホントだ。動画が増えてますね。
…興味はあったんですけど、
難しい内容のような気がして…
時間がある時に、ちゃんと読みます。
ごめんなさい。
英訳まで載せたのは、和訳として加藤さんと久米さんとではどちらが直訳に近いかを判定する基準にするためです。英語とロシア語ではまるで違う言語に見えて、実はそうではありません。文法構造が同じだからです。英訳を読むと不思議にロシア語による歌と音が重なります。つまり、英訳をもってロシア語の原歌詞と考えてもいいだけの客観的な基礎があるということです。だからこれを基準に一体どちらが原歌詞に忠実かが分かるというわけです(忠実な方がいいんだと価値判断を下しているわけではないです)。
さて、ここで、にっこさんに質問です。
you-tubeにアップさている動画の中には、OB/OGで構成される「唄おう会」による「百万本のバラ」の合唱があります。それは、加藤さんの訳によるものでしょうか、それとも、久米さんの手になる訳の方でしょうか?
できれば、調べずに考えて見て下さいね。
…と書いとって、拙者、逃げるかもしれんです
しょうがないからヒント差し上げます。仲代圭吾さんの好みにあってるのが答です。
なぜ、好みに合うんだろう?
ってところから、推理の面白さが始まります。頭の体操にもなりますし、是非、考えて見て下さいね。
今、家のことで、考えることが多すぎるので、
冬休みの宿題ということで勘弁してもらえませんか?
落ち着いたらちゃんと考えます。
子供らも冬休みに入るので、お時間下さい。
有難うございます。
にっこさんの負担にならない範囲で、いつでも結構ですよ。
(にっこさんに過剰な圧迫感を与えていなければよいですが・・・)
無鉄砲なおばちゃんです^^
忠太さんの記事…
最初は加藤登紀子さんの「百万本の薔薇」だから軽く思っていたけど、なんかまた深い意味を忠太さんは調べられたんだわと思って読み逃げました。
しばらくして、いろんな方の歌でまたアップされていたので、大丈夫かなと思ってコメントを書かせて頂いたのですけど…なかなかこの記事も難しかったですよ。
でも、忠太さんが長い時間をかけて、調べられたこと、
1曲の歌がいろんな方に歌われていて、そのメッセージ性も歌によって全然違ってるということ、
そのたった1曲のことをいろいろ調べられた忠太さんのことを思ったら読み逃げは出来なくなりました…やられました…
仲代さんという方も存じていませんでしたし、
「異邦人」で有名だった「久保田早紀さん」が久米さんというお名前でまた活動されていたことも知らなくて発見でした。
私は、御存知の通り、言葉を知らない人間で、
感情で動いてる感の人間でございます。
忠太さんのように、事細かに分析して、その分かったことを言葉にするというのも、苦手です。
だから、全然忠太さんのご期待に添えるような答えも多分全然見出していないと思いますけど…。
歌のメッセージ性、忠太さんの伝えたいという大きなお気持ちは、何となく大抜けの私にも伝わってきましたよ。
色々お調べになって、時間も要されたぶん、
大きな発見もお有だったと思います。
…研究、調べるというものは、こういうことなのかもしれないのですね。
私が全く苦手とするものでございました(笑)
ここでいう、花をプレゼントしようとした絵描きさん、花をプレゼントされた踊り子さん。
それぞれの気持ちは立場によって違うので、歌詞も違ってきますよね。
ただの恋愛の歌だと、この曲が流行った時はそのように受け止めていましたけど、もっと大きな意味も、別の歌詞によって込められてるんだということが、今回の忠太さんがアップされた記事で分かりました。
…なんか全然頓珍漢なことを相変わらず書いたようですけど、自分なりに考えて書きました。
逃げずに、取り組んで書いたことだけでいいので認めて下さったら嬉しいです。
開き直り~~~~
失礼しました。
僕が質問しようと思ったのは、「年配の人の恋の唄の合唱、その心如何」なんていう意地の悪いコメントを動画の下の欄に見つけたからです。歳食ってたって、恋心の切なさは分かるよ、と思いました。同時に、彼らから学ぶことはないのか、という反発を覚えました。そこで、その気持ちを説明しようとして発問に至りました。
それと、もう一つ言いたかったのは、翻訳の考えかたです。これまで、僕もいくつか英文の歌詞を自分の英語能力を棚に上げて、和訳しました。そうしますと、「出る杭は打つ」という反応が露骨な形で帰ってきました。本当に実力のある人の批判なら聞く耳あります。しかし、実際にあったのは、曲解と虚偽で塗り固めた非難でした。(こいつ完全にチンピラやん)というような人が投げつけてくる憎悪に、すっかり和訳の情熱を失くしました。「FACT」という曲のコメントを読めば、どういう曲解と虚偽で塗り固めた非難があったのか、その一例が垣間見れます。情けなかったです・・・
今でも、後遺症が残っていますよ。
和訳というのは、それ自体オリジナルで作品なのです。表現行為として自由がもっと尊重されるべき、と思うのですがね、残念ながら、尊重する前に僻んでしまう人がいるわけです。
ちょっと、話が脱線してしまいました。続きは稿を改めて書かせて頂きます。