のんきに介護

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伊藤真さん / 「首相の言葉『○○事態』にだまされぬ」

2015年12月27日 19時09分20秒 | 安倍某とそのお友達

転載元:The daily olive news @olivenews さんのツイート〔18:31 - 2015年12月10日


なるほど、「事態」という言葉は、「事変」の焼き直しと考えればよいわけだ。

「一億何とやら」も

過去の言葉の焼き直しだから。

しかし、分からないのは、

戦争の

暗い時代を反映させる言葉を

なぜ、あえて、使いたがるのかが不明だな。

ひょっとすると、

戦争中の言葉って、この人にとっては

輝かしいのかな。

しかし、その感覚、

共有できるのは日本にあっても

ごく稀だろう。

少数派が重んじられるのは

皮肉にも

安倍某らが敵愾心を抱いてやまない

民主主義においてだ

(彼らは、建前上、民主主義を尊重する振りをしているが――)。

ところで、たまたま今日、こんな写真をTL上で見つけた。



満州に存在したという、

五民族から選抜されたスーパーエリートが集う幻の大学の

学生達の写真だ。

安倍某は、

現実逃避して

「戦犯を正当化する。

岸信介の夢を継ごうとしている。

しかし、

何より優越すべきは、

戦争の犠牲になった人たちの

気持ちだろう。

三浦英之氏著「五色の虹」によると、

上掲大学では、

「五族協和の実現のためには互いの感情を正しく理解する必要があるとして、開学当初から中国人や朝鮮人学生を含むすべての学生に言論の自由が認めていた」

とのことだ。

☆ 記事URL:http://sun.ap.teacup.com/souun/19129.html

裏を返して言えば、

スーパーエリートでなければ、

言論の自由とは

有し得なかったものだったわけだ。

「戦前戦中の風潮からは想像もつかないある特権も付与されていた。

言論の自由である。」

という件に、

戦慄を覚えた。

安倍某も祖父の岸信介を崇敬するなら、

満州の当時のエリート大学における建学の精神に鑑み、

もう少し、

「言論の自由」を尊重すべきではないか。

時代はまさに、

日本でありながら、

国民と為政者が満州国さながらに乖離しているからだ。

国民の一人ひとり、

今以上に

「言論の自由」が尊ばれるべき

時代はないと思われる。

「絆」という理念を「五族協和」に当てはめてみればいい。

「互いの感情を正しく理解する必要があるとして、…すべての学生(人間)に言論の自由が認めて」

いく必要がある。

すなわち、「言論の自由」には、

「互いの感情を正しく理解する」ためという

自ずからなる制約がある。

したがって、他人の人格を否定する言論など

認めては、

「言論の自由」を求める立場からすれば、

自家撞着なのだ。

よりによって、

首相の周りには、こんな他人の人格を認めないことをもって

善とする

とんでもない人たちが勢ぞろいしている。

このままでは、

日本は戦前・戦中にもまして民主主義に敵対する国になる。

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