のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

「病む」ということ

2008年09月18日 21時11分09秒 | Weblog
「精神病」なんて死語だ。違うのだろうか。これとは別に、改めて「あいつは心

(精神)を病んでいる」という表現は、人を傷つけるから、使用禁止にすべきか。

使用禁止にするべきとしたら、むしろ「精神病」がまだ死んでいないことを、逆に

立証したことにならないか・・・

僕は、「精神病」というレッテルの廃止を認めた上で、「心(精神)を病む」とい

う表現は残していいのではないかと考えている。

たとえば、公共物に落書きする若者が一杯いるとしよう。そんなとき、

(世の中の人は、心を病んでいる!)と叫べばどうだろう。気持ちがすっきりしな

いだろうか。言わぬは、腹膨るる業だ。後者の表現を残してよしとした場合の、

メリットその一だ。

さて、精神分裂病が統合失調症と名を変じたとき、「精神病」という呼称は、姿を

消した(廃語になった)。最近よく言われるようになった「心の病」という表現は、

「精神病」が跋扈しいた時代の名残り、もしくは、言い換えだ。「狂気」というお

どろおどろした魂が、そこから去った後の抜け殻のようなものだ。今、この言葉が

生きてるとしても、それは言葉の綾としてだ。「精神」なんて、身体のどこにも存

在しないということは、現代においては常識の範囲に属する。その上での表現だ。

実体がなければ、言葉の綾でしかない。

しかし、体言(名詞)としての「精神病」は駆逐されたとしても、「精神を病む」、

あるいは、「心を病む」という表現はあっていいと思う。つまり、述語(動詞)的な

用法は、許されると考えてはいけないだろうか。叫べば、気持ちがすっきりすると

いうような、ストレスの発散めいた一つ目のメリット以外に、メリットを考えられ

ないか。この問題につき、僕は積極に解していいと思う。

世の中、人と人のつながりが薄れ、一緒にいてもバラバラだ。そのバラバラな関係

をつなげ直そうとすれば、呼びかけが必要だ。その呼びかけの言葉として「病む」

は、あって便利な単語と思う。

まずは、次のような人たちに対してだ。

平気で嘘をつく人たち。

他人が嘆き悲しむのを見るのが好きな人たち等々。

こういう〝こいつは憎めるぞ”タイプの悪党に投げかける言葉の不足を補ってくれ

るということがある。二つ目のメリットだ。

しかし、世の中、人間同士のつながりを作り直してやらなければならないのは、こ

んな悪党然とした人間ばっかりとは限らない。

昨日、NHKの「クローズアップ現代」で、スプレーで落書きする若者像に迫る番組を

していた。見ていて感じたのは、罪の意識を全く持っていないということ――。

(かっこいい!)という意識だけで落書きをしているようだった。つまり、こいつ

は憎めるぞ、というタイプではない。しかし、いかに悪気がなくても、落書きの結

果、凶悪犯罪が発生する蓋然性(可能性ではない)が高まる。それを、気づいて

もらいたい。だから、そういう若者と、どうにか接点を見出したい。

声をかけたい二番目のタイプだ。どうすればいいか。

もちろん、落書きがあった時点で即、消してしまうとか、消す作業を町ぐるみでや

るとかいう方策も大切だ。しかし、それだけでは不十分と思う。社会を構成する個

々人の危機意識が不可欠だろう。

落書きの現場を見つけた場合、「遊ぶな」とたしなめるべきだ。これが関わりの第

一歩と言える。たかが落書き、されど落書きだ。

その際、注意の趣旨を説明するため、統計的に見て、人の心は「病みやすい」とい

うマイナーな言葉が説得的だ。「病みやすい」というのは、裏を返せば、「回復し

やすい」ということでもあるから、一概に悲観的な評価とはいえない。人間関係に

希望的観測を与える面もあるわけだ。その効果にふさわしい復権を認めてもよいの

ではないかと思う。これが「心の病」の述語的用法を認める三つ目のメリットだ。


話は変わるが、最近、副島種臣という明治時代の政治家の書、「帰雲飛雨」という

作品を、NHKの番組で見た。ぐるぐる巻きの書体に圧倒的な個性を感じた。現代は

個性の時代と言われるけれど、この荒っぽさは持ち合わせてないな、と思った。

「個人の尊重」は、憲法13条で明記されている。しかし、獲得の荒っぽさがそぎ

落とされているのではないだろうか。結果として、現代は、時代全体が、温和だ。

数日前、gooのニュースで、自称うつ病のことが紹介されていた。時代背景として、

荒っぽさがとみに敬遠されるようになった最近の傾向と無関係ではないだろう。

本物のうつ病の人にとって、大変気の毒な時代になったものだ。それが悪いと言っ

ているのじゃない。「心の病」を自称したがる人まで現れる、こういう温和な時代

にせっかく遭遇したのだから、ここはしっかり、人間性の弱い部分に目を向けては

どうか、と言いたいわけだ。

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14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
もろくて、よわくて、愛すべきもの (rikopin)
2008-09-19 01:12:22
ほんとに人間って少しの事で傷つきやすくて、だけど一方でしなやかで強いやさしさを併せ持っているのですよね。誰でも「精神を病む」事はあるものだと思っています。自分がたまたま今病んでないのはファクターを抱えつつも回りに支えられ環境に恵まれているからだけだと。

忠太さんの言っている事はもっと違う観点からのようですが、わたしには...

何はともあれ清濁併せ持ち今の自分を肯定し
一歩づつオリジナル人生を幕間を楽しみながら
行くしかない気がします。
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rikopinさんへ (忠太)
2008-09-19 02:31:50
コメント読みながら、拍手を送りました。

「・・・もっと違う観点から・・・」というくだりを見て、ええっと思ったぐらいです。


一方で、「精神病」という呼称がなくなったことを喜びながら、他方では、「精神を病む」という言い方は残していいという主張でしょう。

矛盾してそうじゃないですか。それで、そうではないとする根拠づけに手間取ったわけです。

しかし、この部分は、言うなれば、前置きです。結論として言いたいことは、「話は変わるが」以下に書かれています。

底流にはrikopinさんが言っておられるような考えがあります。僕は、どうも理屈っぽくていけないですね。反省です。

繰り返しになりますけど、rikopinさんの考えに99%共感です。

僕もできうる限り、清濁合わせ持つような人間になれるように努力したいと思います。
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こんにちは! (erumoria)
2008-09-19 14:51:30
コメントありがとうございました^^

心の問題はデリケートで、難しいです。

ドッペルゲンガーは別として、魂の器である肉体には、
二つとして同じものはありませんね。
ましてやそこに宿る精神とは、人間としての個性ですものね。
ひとりひとり違って当たり前…

その精神も、肉体と同じように、疲労困憊したり
傷ついたり、時には、風邪をひくこともあるのでしょう。
抵抗力も免疫力も、これまた人それぞれなのですね…。
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erumoriaさん (忠太)
2008-09-19 15:54:59
全くおっしゃる通りと思います。

同じ病気であっても、闘病の形は、ぜんぜん違います。免疫力も人それぞれなんでしょうね。
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自称うつ病って? (obichan)
2008-09-19 19:55:59
いっときの流行語のように使われている気がしないでもないですね。今は精神的ストレスが多い時代、それにのっかって今まで精神病って言葉には強い疎外感があって私はそこまでいってないという人たちが、言葉が変わって「心の病」というと我も我もと出てくる。ちょっとおかしい気がしてます。「軽い心の病」はすべての人が死ぬまでに1度は経験するものだと私はとらえています。

本当のうつ病で悩んでいる方が気の毒に思います。

私も根本的には、rikopinさんの考えに賛成ですね。
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私も、その言葉のほうが・・・ (まろん)
2008-09-19 22:42:57
「心を病む」私もその言葉のほうが、いいと思います。

シャッターなどに「らくがき」をされる前に、「アートな絵」をシャッターに書いてしまうのも、「らくがき」を防ぐ一つの方法という事を以前テレビでみました。

どちらにしても、「落書き」される側の人は、あまりいい感じはしないですね。
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これから解明。。。 (忠太)
2008-09-19 23:07:10
☆obichanさんへ

うつ病にはすべての人がなりえます。軽い・重いは、関係ないと思います。

また、このような狭義の意味で「心の病」とは別に、典型的な「心の病」に罹っていない人の

「心の病」というものが考えられます(rikopiさんの言っていた観点の違いとは、この点かな)。

具体的には、いじめを引き起こす側の、心の世界の問題です。


☆まろんさんへ

アートな絵ですか?

それは考えていなかったです。効果がありそうですね。落書きする人がさほど悪意を持ってない

証拠ではありますね。

しかし、そのアートを無視するように落書きされたら、きっと辛いでしょうね。
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obichanさんへ (忠太)
2008-09-23 20:28:20
「具体的には、いじめを引き起こす側の、心の世界の問題です」という部分が分かりにくいですね。いじめ云々は、本文の記事に出て来ない言葉ですものね。少し補充します。

「心の病」というと、うつ病に典型的なように自傷行為を連想させます。しかし、普通に社会人をしている、いや、指導的な仕事をしている人の中に「病んでいるのではないか」と疑りたくなる人がいるでしょう。
食品偽装などでも、人体に有害なものをそれと知って売りさばくのに、「快感」を感じていたとしたら、心を病んでいるとしか言いようがないと思うわけです。
単純な、わかりやすい用語として、そのような加害行為を「いじめ(虐待)」として整理したわけです。僕が二つ目のメリットのところでで述べた人たちすべてを含みます。つまり、平気で嘘をつく人たちとか、です。
僕が言いたいのは、ストレスをため込むという形で病に陥る、被害者型の心の病のほかに、こういう加害者型もあるということです。今まで、精神医療では、こういう心が邪なというか、歪んだ心の持主を十分な考察の対象にしてこなかったと思います。それで、そちらの方にも目を向けて下さいね、ということです。こういう人たちには、同情は、禁物だと思います。
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忠太さん、よくわかりました。 (obichan)
2008-09-23 20:32:32
ご説明頂きましてありがとうございました。
確かに「病む」という動詞的言葉の方がよいように思います。

しかし、それだけの幅広い「病む」が一気に押し寄せてきたとき、末恐ろしい気がします。
その時、本当に「病みやすい」=「回復しやすい」と言えるかどうか・・・
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守備範囲が広がれば・・・ (忠太)
2008-09-23 23:05:20
加害者型を精神医療の対象にするというのは、僕の願望です。なぜそういう風な望みを抱いたかというと、許してあげたいという、欲求からです。

死刑を肯定する人たちのことをブログに書いたとき、「私は、自然になりたい」と、obichanさんは、コメントされましたね。覚えていますか?

加害行為の典型は、殺人です。殺人に対し「死刑」という殺害行為で応じないとして、被害者家族の無念さをどんな形で癒せるのか・・・

僕の出した答えは、「あの人は、病んでいる」という理解をすればいいということです。手足に障害のある人を見て、憎む人はいないと思います。それと同じように、目には見えないけれど、心にも手足があり、それがないと、困ることがある。犯罪を犯す人は、それを教えてくれたのだと考えるようにしたら、死刑にしたいという願望に合理性がないという結論になるでしょう。心の手足をなくすきっかけになったのは、社会の不条理なのだとしたら、だれがその人を責められるでしょう。どんなに残酷な犯罪を犯したとしても、その人の身になって考えたら、やむを得ない面があると思うのです。そのメカニズムを医学の分野で明らかにしてもらいたいです。そうなれば、どんなにいいでしょう。

ただ、このような加害型の人の心の歪みを病気ととらえると、一人の人間としての行動の責任を問えなくなり、不都合ではないか。また、obichanさんご指摘のように回復が困難、ということは言えるでしょうね。しかし、それでも、病と捉えるべきと考えるのは、犯罪の被害者側の心のケアーのあり方として、憎しみを消去させるのに、この方法(理解)しかないと思われるからです。同害報復では、憎しみの連鎖があるのみです。連鎖を断ち切るには、どっかで仕返しを断念し、相手を許さねばなりません。

生きる人すべての人に心の平安を願います。僕の立論が複雑になってるのは、直接には、病んでいる人について書きながら、同時に、間接ながら、その人たちに傷つけられた人の心の傷をどう癒すかということにも触れているせいです。obichanさんにはそのことを分かってもらいたいと思いました。

後者に焦点を合わせて言う限り、回復し難くていいのです。心の歪んだ人に虐げられた人が、「ああ、あの人は、病気だったんだ」と見ることできるようなることによって、加害者を許し、自分の人生を生きられるようになったらいいな、と祈るような気持ちで自分の考えを書きました。
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