病院に行くと、
前に先生と直談判して下さった看護婦さんがいました。
(別に、ごっそりスタッフが入れ替わったわけではないのだ!)
と思い、気持ちが幾らか落ち着きました。
夕刻、主治医の先生と別室でお話ししました。
脳梗塞について、次のようなレクチャーがありました。
第一、認知症の人は、遠い昔、すでに脳梗塞になっている事例が多いらしいです。
しかし、本人からの訴えがあるわけでなく、断層写真での判定が困難であることから
脳梗塞の診断が下され難いとのこと。
また、なっていたとして、治療は24時間以内でないと不可能らしく、
診断に意味がないということでした。
第二、利尿剤の投与は、血液の濃度を高め、血栓の発生率を高めるにもかかわらず、
入院前にかかっていたクリニックでは、
当然予想される血栓のリスクに対する処置が取られておらず、
判断に苦しむところがあった、ということでした。
第三、足の血栓は、膝の部分までは除去に成功。
ただし、ふくろはぎからつま先にかけては依然として、血栓が残存しており、
現在、血液溶解液を注入し、血液の凝固を溶かす処置をして下さっているそうです。
後は、祈るばかりと言っておられました。
第四、外科の先生が「手がこんな風にぶらぶら。脳梗塞になっている証拠だ」
と言われた点については、
外科の方の先生が何か誤解されたのではないかということでした。
医学には門外漢である僕の立場からすると、
外科の先生の指摘した見立ては、大変に分かりやすいです。
しかし、これは、素人目線で判断すべき事柄ではないでしょう。
「手がこんな風にぶらぶら」というのは、脳梗塞発見のきっかけにはなり得ても、
判断の決め手ではないということで、了解しました。
以上、先生から脳梗塞云々で受けた説明です。
ところで、揉めたお陰で、
在宅での末期医療のあり方につき、より鮮やかになったことがあります。
本人の自己実現の問題です。
僕自身は、さほど意識してなかったのですが、
先生が俯(うつむ)き加減に
「今でも胃ろうの手術には迷うものがあります。
本人の気持ちを確かめられたらなぁ…」と嘆息されたので、咄嗟に
「子どもの頃の母親の言葉、行動を思い出しながら、『手術をやるべし』
という結論に辿りついたのです。
思い出をまさぐるという、
このやり方以外に本人の意思は確かめられないです。
けれど、それで充分ではないでしょうか」と応えました。
そのときの先生の嬉しそうな顔!
(いい医者ではないか、素直で)
という安心感が、何となくですが、生まれました。
いくら認知症で判断力を無くしたと言っても、
大切なのは、やっぱり本人の気持ちです。
それがまさに、自己実現の問題なんです。
この点に関連して、goo友のある方に感謝しなければなりません。
頂いたメッセージに
「寝たきりの人は何も聞こえないようでいて、聞こえていたりする」
という趣旨のアドバイスがありました。
名前は伏せておいた方がいいかもしれませんので挙げませんが、
改めてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
母親の最期に寄り添おうとするに当たって、とても励まされるものがありました。
息を引き取るその瞬間を、
看取ってあげたいと願うのは、ただの家族エゴかと言うと、
単純にそうとは断言できない。
看取りは、言うなれば、本人との限りないコミュニケーションの契りですかね。
届く内は届けたいですね、自分の声を。
死の向こう側から、
「さよなら」と手を振っている愛しい人の姿を感じ取れるまで。
それもありかな、と思いました。
だって、それがお袋の一番望んでいるであろうお別れの形だからです。
前に先生と直談判して下さった看護婦さんがいました。
(別に、ごっそりスタッフが入れ替わったわけではないのだ!)
と思い、気持ちが幾らか落ち着きました。
夕刻、主治医の先生と別室でお話ししました。
脳梗塞について、次のようなレクチャーがありました。
第一、認知症の人は、遠い昔、すでに脳梗塞になっている事例が多いらしいです。
しかし、本人からの訴えがあるわけでなく、断層写真での判定が困難であることから
脳梗塞の診断が下され難いとのこと。
また、なっていたとして、治療は24時間以内でないと不可能らしく、
診断に意味がないということでした。
第二、利尿剤の投与は、血液の濃度を高め、血栓の発生率を高めるにもかかわらず、
入院前にかかっていたクリニックでは、
当然予想される血栓のリスクに対する処置が取られておらず、
判断に苦しむところがあった、ということでした。
第三、足の血栓は、膝の部分までは除去に成功。
ただし、ふくろはぎからつま先にかけては依然として、血栓が残存しており、
現在、血液溶解液を注入し、血液の凝固を溶かす処置をして下さっているそうです。
後は、祈るばかりと言っておられました。
第四、外科の先生が「手がこんな風にぶらぶら。脳梗塞になっている証拠だ」
と言われた点については、
外科の方の先生が何か誤解されたのではないかということでした。
医学には門外漢である僕の立場からすると、
外科の先生の指摘した見立ては、大変に分かりやすいです。
しかし、これは、素人目線で判断すべき事柄ではないでしょう。
「手がこんな風にぶらぶら」というのは、脳梗塞発見のきっかけにはなり得ても、
判断の決め手ではないということで、了解しました。
以上、先生から脳梗塞云々で受けた説明です。
ところで、揉めたお陰で、
在宅での末期医療のあり方につき、より鮮やかになったことがあります。
本人の自己実現の問題です。
僕自身は、さほど意識してなかったのですが、
先生が俯(うつむ)き加減に
「今でも胃ろうの手術には迷うものがあります。
本人の気持ちを確かめられたらなぁ…」と嘆息されたので、咄嗟に
「子どもの頃の母親の言葉、行動を思い出しながら、『手術をやるべし』
という結論に辿りついたのです。
思い出をまさぐるという、
このやり方以外に本人の意思は確かめられないです。
けれど、それで充分ではないでしょうか」と応えました。
そのときの先生の嬉しそうな顔!
(いい医者ではないか、素直で)
という安心感が、何となくですが、生まれました。
いくら認知症で判断力を無くしたと言っても、
大切なのは、やっぱり本人の気持ちです。
それがまさに、自己実現の問題なんです。
この点に関連して、goo友のある方に感謝しなければなりません。
頂いたメッセージに
「寝たきりの人は何も聞こえないようでいて、聞こえていたりする」
という趣旨のアドバイスがありました。
名前は伏せておいた方がいいかもしれませんので挙げませんが、
改めてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
母親の最期に寄り添おうとするに当たって、とても励まされるものがありました。
息を引き取るその瞬間を、
看取ってあげたいと願うのは、ただの家族エゴかと言うと、
単純にそうとは断言できない。
看取りは、言うなれば、本人との限りないコミュニケーションの契りですかね。
届く内は届けたいですね、自分の声を。
死の向こう側から、
「さよなら」と手を振っている愛しい人の姿を感じ取れるまで。
それもありかな、と思いました。
だって、それがお袋の一番望んでいるであろうお別れの形だからです。
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