のんきに介護

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杉山外務省審議官が国連の委員会にて「『慰安婦』は、性奴隷でない」と主張

2016年02月21日 20時16分16秒 | 慰安婦


サイト「Everyone says I love you !」に

杉山晋輔外務省審議官が

2016年2月16日にジュネーブで開かれた国連の女子差別撤廃委員会に出席して、

「慰安婦」問題について意見を述べたという。

)軍や官憲による強制連行を裏付ける資料がない

)韓国の済州島で強制連行があったとする吉田清治氏の証言は、「捏造」「完全に想像の産物」であり、証言を繰り返し報道した朝日新聞が「誤りを認め謝罪した」

という2点をもって、

「強制連行はなかった」との主張をしたらしい。

しかし、強制連行があったのか、なかったのかについて、

根拠を十分に上げ得たのだろうか。

盛んに主張される

「資料がない」という点については、

それが犯罪を証する

資料であることに留意すべきだ。

政府は、

「特攻」という

自爆さえ国民に強いる権威を持っていた

(建前上は、志願したことになっているけれど――)。

「文書焼却命令」が

徹底せず、犯罪を証する資料が

残存しているはずだという主張には無理がある。

上掲サイトの

――たとえば誘拐事件で、被害者が誘拐されたと言っているのに、加害者が誘拐したということを文書に記録して残していないからと言って、誘拐の事実はなかったと事実認定したら、裁判官としては失格です。加害者側が記録を残さず、もしくは記録を証拠隠滅するのは当然のことです。――

という指摘は、もっともだ。

また、二つ目の「強制連行はなかった」とする根拠である

朝日新聞が「誤りを認め謝罪した」という事実は、

当該記事を書いた

記者の頭の上を素通りしてなされたものだ。

記事を執筆した

元朝日新聞記者の植村隆氏は、

「だまされたって書いてはいるんだけど、これってやっぱり強制連行の被害者」と読むべきなのかを

問うている(産経記事「『強制連行』僕は使っていない」参照)。

☆ 記事URL:http://www.sankei.com/premium/news/150830/prm1508300009-n2.html

経済的な問題ならともかく、

記事の文責を負う

という極めて精神的な営為を会社が代わって負い、

結着をつけるというのは、

大変な表現活動への侵害行為だ。

それにまた、

植村氏が言葉として「強制連行」を選んでいない以上、

会社が代わって、

謝罪しようにも謝罪する対象がない

ということになる。

百歩譲って、

植村氏が「強制連行」という言葉を

使っていたとする。

その場合でも

会社が謝罪したのは、

記事に言及のあった証言の信ぴょう性判断だった。

もし、

「強制連行」のあった事実を証明する

必要十分な証拠が

当該証言だったのなら、

その証言の虚偽性を認め会社が謝罪した事実をもって、

「強制連行」があったとは言えない。

しかし、「強制連行」を推認される事実は、

自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長)吉田清治氏の

証言に尽きない。

植村氏に即して言えば、

「だまされて慰安婦にされました」(「『強制連行』僕は使っていない」6/8ページ参照)

ということを

吉田氏の証言のみによって

断言していない。

下の慰安婦に関する主張の対照表を見て欲しい。



クマラスワミ報告は

「吉田清治氏の証言を論拠の一つとして」

採用されたことが説明されている。

これは、

マクドゥーガル報告書にも該当するだろう。

上掲サイトの管理人さんも

――吉田証言を根拠の一つにしたにすぎず、吉田証言一つが覆ったところで、各報告書の全体の価値が損なわれるわけではありません。――

と指摘される。

植村氏においても同じ立場だったと理解している。

となると、

朝日新聞が証言の信ぴょう性につき疑いがあり、

謝罪しただけでは、

「強制連行」という事実は、

吉田清治氏の証言では根拠づけられなくなった

というだけだ。

ましてや、

「慰安婦は、性奴隷でない」

という何の根拠にもなっていない。

性奴隷であった事実は、

――「慰安婦」には、兵士に対する性奉仕を拒絶する自由はなく、一日何十人もセックスを強要され、もちろん慰安所から去る自由などなかったのですから――

という事情から認められる。

ジュネーブくんだりまで出かけて行った

杉山外務省審議官が

「アサヒがー、アサヒが」

と朝日新聞に

罪をなすりつける姿があまりに見苦しかったのだろう。

女性差別撤廃委員会の委員に

「非常に不満で許容できない。だれも歴史を変えることはできないし、逆行することもできない。問題を否定する一方で、日韓合意をすすめる政府の態度は矛盾している。問題がないのであればなぜ、合意する必要があったのか」

と痛烈に批判された、という。

「不可逆的だ」

などと言いながら、ただ蒸し返すだけの弁明は、

明らかに態度として一貫しない。

「慰安所が軍当局の要請により設立されたものであるとか、慰安所の設置管理および慰安婦の移送について日本軍の関与があったとか、あるいは慰安婦の募集について軍の要請を受けた業者が主にこれに当たった」

ということまで認めていて、

「慰安所に収容されていたのは性奴隷でなかった」

などと言う弁明が通じるかどうか。

もう少し、頭を冷やして考えろと言いたい。

日本では、長らく、

「自白があれば、有罪でいい」

という自白万能主義から、拷問も許されていた

時代が続いた。

その名残だろうか、

「自白してないんだから俺、無罪」

と言っている

厚かましさを感じる。

近代国家に脱皮していないんだとしたら、

日本は、まだ野蛮の国だ。

それが甚だしく

国益を害するということが

理解出来ないのか。

もう一度、まとめておく。

「吉田清治氏の証言→強制連行(元朝日新聞記者、植村隆氏の主張に即せば、騙し)→性奴隷」、

すなわち、「吉田清治氏の証言」ゆえに

「強制連行」があるとされた、

「強制連行」ゆえに「性奴隷」と認定された

という文脈は、

日本の歴史修正主義者たちが

妄想したものだ。

この図式に基づいて、

論理的な因果の流れを断ち切ろうとしても

項目のつなぎ目に飛躍があり、

不可能だ。

「吉田清治氏の証言」がなくとも「強制連行」があったとされる。

また、「強制連行」されていなくても、

「慰安婦」は、

「性奴隷」だと認定されるのだ。

もし、

日本軍にも人間的なところはあった、

と言いたければ、

慰安婦と兵士の間にあった

刹那の心の交流や

戦友意識を伝えていけばいい。

たとえば、

次のような作品を通して。

そのためにも

心からの謝罪はきちんとしておくべきだ。



☆ 典拠:「カランコロン漂泊記 ゲゲゲの先生大いに語る」

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