のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

天皇を、橋下知事という木っ端役人への忠実度を計る道具――踏み絵にさせていいのか

2011年06月07日 12時08分44秒 | Weblog
記事が突如として消えた・・・

前にもありましたけど、

全力投球で書き上げただけに

書き直すとなると、とてもつらい。



また、要点だけ記します。

(1)国を愛するから

「君が代」

を歌わない、

というのが僕のスタンスです。

東北の被災地で

首を垂れる天皇の姿は、

そのまま自分の姿と感得されました。

東北の人は、どれほど心いやされ、泣いたでしょう。

僕も泣きました。

ただ、天皇を政治利用はしてはいけない、と思います。

戦後、新しく憲法が制定され、

主権在民が明記されました。

主権の観念とは、

第一義的には国家の権威(権力の源)が

何に由来すると考えるか

に関連します。

天皇は、象徴的に

国民の中心にいます。

しかし、それを支えているのは

国民です。

そういう憲法の

制定された文脈からすれば、

権威の源は、「君が代」〈天皇)から、

「我らが代」〈国民)に変更されたと言うべきでしょう。

天皇は、

その公的な行為につき

内閣のコントロールに服します。

ということは、

「君が代」

を国民が斉唱するのを

快く思っていなかったとしても、

御存念を

明らかにして

自分の思いを公に伝えることが

できません。

にもかかわらずと言うか、

だからこそでしょうか、

天皇は、

「強制しないように」

というお気持ちを

あえて吐露されたご様子です

「中山研一の刑法学ブログ」参照〈注〉)。
 

(2)橋下知事は、

「君が代」の起立斉唱の義務を

組織マネジメントの問題として必要だとしました。

しかし、これは、

天皇という超越的な権威を持ちだすことによって、

マネジメントの労を省くものです。

言うならば、天皇のエコ利用。

自分に忠実であるかどうかを試す踏み絵みたいな

使い方をして、

反省するところがないようです。

(3)「君が代」は国歌です。

それを認める義務はあるでしょう。

ただ、どんな義務であろうと、

義務は、常にそれ一つとは決まってません。

場合によっては、

反対方向を向いた義務も成立します。

善と悪がそれぞれ一枚岩なものとして

互いに混じり合ってなければ、

このような義務の衝突は、生じません。

しかし、今や、価値観が相対化し、

絶対的な基準で

簡単に善悪を判定し切れるものではなくなりつつあります。

結果として、

義務の衝突が必ず起こります。

つまり、どちらを選ぶかは、

ある一群の人にとって善なることも

他の一群の人にとっては悪ということがありえます。

判断するのは自分です。

人はそれぞれ、

自分が正しいと信ずるものを選び取って

生きていくしかないんです。

「悪法も法なり」

という時代は終わりました。

いくら法であっても、

悪である限りは、

規範性を持ちえないです。


(注)このご発言につき、出所を調べました。

2004年10月28日における園遊会で米長永世棋聖を招待した折り、

同永世棋聖に述べられたとあります。

参考までに、

付言しておきます

「将棋王国」参照)。

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