のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

裁判員裁判第1号被告人の刑の確定

2010年06月14日 05時39分54秒 | Weblog
裁判員裁判第1号になった事件、

ぼんやりにしろ

覚えていらっしゃるかと思います。

5月31日付の上告棄却により、刑が確定しました。

懲役、15年です。

新聞各紙はベタ記事であっさり報道していたようです。

僕は、「裁判員裁判に今も納得が行かない」という

『週刊・金曜日』6/11発刊の雑誌記事(浅井健一筆)でそのことを知りました。

地裁の審理において、マスコミがアルバイトを百人単位で動員した、

法廷の傍聴席独占の、あの騒ぎは何だったのでしょう。

よく言えば、我々と同じ市民がどのような判断をするのか、

その歴史的瞬間を記録に残そうという趣旨です。

しかし、中心にいるべきは被告人なのです。

彼らこそが、本当は、裁判員裁判の出来・不出来を評価する立場にいます。

一,二審判決は、

「東京都足立区の路上で、

近所に住む整体師の女性の胸や背中をサバイバルナイフで刺した」

と事実認定しました。

殺意はあったのか、なかったのか――。

取調べの供述書には「殺意があった」ことを認める供述はなかったそうです。

これは、被告人自身の報告ですが、事実でしょう。

では、どうやって、殺意を認定したのかというと、

地裁の主任検事の

「殺意を持って殺害を決心しました」という発言によると言います。

この検事とは初対面で、

第三者の思い込みであることが明らかなのに、

被告人からの発言は認められず、

ただ裁判員に質問されることに答えるだけに終わったそうです。



被告人の頼みの綱は、裁判員たちのする質問だったわけです。

それに対し、裁判員たちは、痒いところに手が届くような問いを発せられたか、

被告人の言葉を借り、振り返ってみましょう。

「何の意味もない質問ばかりだった。事件の真相部分についての質問は

ひとつもなかった」とのことです。

さもありなんです、残念ですが。

裁判員たちは、訴訟の素人なんです。

無理ないです。

法廷に列席して、事件の核心に触れるような事実について

突っ込んだ問いなど発せられようはずがありません。

この点、当時、マスコミが報道の際に見せた

笑える評価とは対照的ですが、これが真実というものでしょう。

国民が一丸となって被告人を追い詰めた格好です。

メディアには、母親が幼稚園に通っている我が子の「お遊戯」の様子を

他の奥さんに語っているような、

甘ったるさがありました。

「識者」として、取材を受けて得意げに裁判員を誉めそやしていた人たちって、

今、話題のワールドカップで、

日本のサッカーチームを応援するファンのようなものです。

何が何でも選手を勇気づけたかったわけなのでしょう。




ところで、裁判員を選手団に譬えるならば、

彼らは何をもってゴールとされたんでしょうか。

被害者の遺族感情を逆撫でしないというだけでなく、

積極的に満足させる行動こそが

点数につながるシュートだったかのようです。

被害者の遺族は、冷静な判断が出来ない状態にあります。

そんな逆上した遺族に迎合せよ――。

どうすれば、その願望に答えられるのでしょうか。

独断と偏見で思うところを述べますと、

裁判の核心から目を逸らしておれば良さそうですね。

自白のでっち上げが警察の取調室でなく、

法廷において、合法的なものとしてなされました。

裁判員たちは、

物珍しそうに社会からの脱落者を見る目つきで、

被告人を観察しました。

そして、殺意があったことにしました。

このような形でシュートが放たれたのでした。



殺意(法律的な専門用語では故意)が認定されなければ、

傷害致死の成否が論じられることになります。

そして傷害罪が成立するとするなら(まず成立するでしょうが)

致死の点につき、

過失の有無が争われた事案です。

殺意の認定がなくとも、無罪放免ではありません。

つまり、可罰感情がそのことで害されるわけではなかったのです。

しかし、そういう流れにはなりませんでした。

裁判員たちは、自供がないにもかかわらず、

あえて殺害の意思あり、と認定しました。

しかし、せめて犯罪の動機の成り立ちぐらい

きちんと確認して置くべきではなかったでしょうか。

何故と言って、動機の態様如何によって、

被告の反社会性を論じる視点が自ずと異なるからです。

動機という、殺人に至る必然を探れば、

結果実現の可能性の強度もまた、推し量れたはずです。



被告人は、事件当時、七二歳でした。

その生涯を辿り、殺害の必然を論じるとなると、

時間が足りないですわな。

だからそこまでの考察は求めません。

しかし、犯罪に直接関係する逸話などは、

真偽のほどを明らかにすべきだったと思います。

被告人によると、

「被害者には、理不尽などを通り越して傍若無人の振る舞いがたくさんあった。

裁判ではそんな実際にあったことなど一言も審理されなかった」

と言います。

事件の背景にある事情に一切目を向けないのは、不公平と言うしかなく、

被疑者に酷過ぎではないでしょうか。

さらにまた、

被害者の長男が母親の性格について述べた調書を重要証拠として出したのに

判断がなかったそうです。

これもまた、杜撰の一言です。



こういう記事を読んでいると、

裁判員裁判って、

死刑判決を量産するためという

どこかで接した分析を思い出してしまいます。

この制度の狙いは、

死刑判決を下される可能性のある事案で、

「容赦しねぇ~」と叫びたがる素人衆の登場に

期待するものがあった、ということになるのでしょうか。

しかし、現実には、もし冤罪事件だったら、どうするのか・・・

裁判員になった者は、

裁判の後もそのような問いかけを

ずっと生涯引きずって生きていかなければなりません。

「刑に服させる」というのは、被告人に苦痛を与えられればそれで済む、

というものではないのです。

被告人が納得して受け入れなければ、

本来、刑としての目的を達しません。

しかし、だからと言って、

それを求めるのは、何だか普通の市民には重すぎる課題に思えます。



※ 法律家ならしなかったであろう質問がいかなるものか、

ならびに「識者」とされている人物が誰なのかが分かりました。

ご興味ある方は、下の色の少し変わった文字列をクリックしてください。

リンクさせてあるので、その説明のある記事に飛びます。


「娘さんの形見という大切なナイフを、脅すために持ち出したのはなぜ?」




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2 コメント

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Unknown (メグ)
2010-06-15 13:04:02
「識者」として、取材を受けて得意げに裁判員を誉めそやしていた人たちって、
今、話題のワールドカップで、
日本のサッカーチームを応援するファンのようなものです。
しかし、裁判員を選手団に譬えるならば、彼らは何をもってゴールとされたんでしょうか。

思うに、被害者の遺族感情を逆撫でしないというだけでなく、
積極的に満足させる行動こそが点数につながるシュートだったようです。

サッカーで例えると結局どうなのでしょうか?

すみません。
文章の読解力がなくて。
返信する
☆メグさんへ (忠太)
2010-06-30 05:10:46
答は、メグさんが引用している通りです。

被害者感情を満足させることがシュートになる、ということです。
返信する

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