のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

後味の悪いこと!

2008年05月05日 13時13分13秒 | Weblog
孔子は「精神的に未熟な内は易経を学ぶな」という遺戒を残している。文献学的なこ

とには興味がないので、典拠は述べない。



合理主義者の孔子は、「儒教」という教義の開祖ではあるけれど、宗教的な色彩はほ

とんどない。



その孔子が易経というある種、人間存在を超える書物を学ぶにあたって、あるきっか

けがあった。魯の国での”やりすぎ”だ。つまり、彼はそこで合理的に生きることの

限界を突き当たったのだ。



そういう挫折の体験があって、孔子は、易経に命を吹き込むことになった。



易経は、一言で言うなら、流転の哲学だ。変転して極まりない世界を描いて、「あな

たの置かれた状態」をメッセージとして伝えてくれる。



何故、若い内から易経に手を染めるべきではないか?



思うに、雨の日も、晴れた日と同じように日々を楽しむような生き方をすることを若

い人に願ったからではないだろうか。日々変化する天候に左右されていたんでは日常

の生活が疎かになるではないか。



仏教の開祖、釈尊は、人生の最後に


「汝自らの心を拠所として生きよ」という言葉を残して逝った。分かりやすく、現代

の言葉に翻訳すれば、自分を見失うなということだろう。書物に振り回されるという

のも、自分を見失う一つのあり方だ。



易経は、人を振り回すだけのパワーを内に秘めている。孔子は、それを感じ取ったれ

ばこそ、老婆心ながら、「読むんなら人間として十分に成熟してからにしなさよ」と

いう忠告を残したのだと思う。



易経は、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言われるように、幾つかの卦の構成で

成り立っている。正確には、総数64個だ。



初学者は、どうしても64個の内のどれかに執着しがちだ。たとえば、泰の卦がいい

など・・・



人間だから、ある意味、好き嫌いが出て当然だ。しかし、いかなる卦であろうと、そ

れに囚われてはならないというのは、絶対の要請だ。



つまり、自分は、「『坤』主義者だ、だから争わない」など、戯けたこと言いなさん

な、ということだ。



易経には十翼というのがついている。これは何かというと、易経本文の補説だ。この

補説が簡にして明。内容を読むと、筆者は、ただものではないことを窺わせる。古

来、孔子が書いたもの、というのが通説だ。



しかし、これには異論が出た。すなわち、易経は『革』を説いている。儒教を治世の

論理、帝王哲学として採用しようとする為政者にとって都合の悪い事実だったからだ。



儒教といって、普通、思い出すのは、「君は君たらずとも、臣は臣たれ。親は親たら

ずとも、子は子たれ」ということではないだろうか。



しかし、近時、そのような考え方は、孔子の説法の曲解だというのが有力だ。僕は、

上に述べたように、文献学的なことを人と議論したくて、このブログを書いているわ

けではない。不審に思われるなら、自分で論語の研究をすればよい。



というわけで、孔子は、為政者の交替ということを射程に入れて、その哲学を大成し

た、懐の大変深い人だ、と理解している。


しかし、世の中には分からず屋が多い。依然として、孔子を尊皇派の枠組みの中で捉

えたい人は、十翼は孔子の作ではないとする説に与することだろう。



僕は、あえてそのような人たちを相手に争論する気はない。もっと大切なことがあ

る。それは、易経は易経として、正しく理解したいということだ。



芙蓉峰さん、今、この僕のブログ、読んでるかい? 十翼が孔子作でなくてもよいと

いうのはそのような意味だ。



あなたとしては、孔子を偉大と認めるなら、十翼という果実を何故、孔子に帰属する

ものと認めないのか不思議だったのかもしれないね。



孔子が得た果実は、偉大な弟子たちだったということでいいんではないかな。

(生涯、諸国を放浪しながら、彼は周王のような名君を探した。しかし、見つからな

かった。で、どこが問題? 十翼も彼が手がけたものでないとしたら、彼は、何を残

したのか・・・論語という言行録だけなのか・・・ということが不満なのかな)



人が人と生まれて、後世に残せる偉大な果実、それは人と人の絆だ。僕が芙蓉峰産に

メッセージとして伝えたかったのは、そこのところだ。



全く伝わらなかったなという思いのみが残って、大変に残念だ。



『坤』もいいだろう。しかし、易経には『睽』徳も説かれている。そこのところ、も

う一度、考えてみたまえ。



ブログを止めるというのは、ある種、自殺願望の発露といっていいだろう。最後に、

孔子が自殺についてどう言ってるか紹介して、あなたへのお別れの言葉としたい。



「死にたいと思うときは、楽になりたい一心で、死にたいとだけ思う。しかし、死ん

だ途端、他に生きようがあったのではないか、と後悔するばかりではないか。死んで

しまってから、後悔しても遅いんだよ」



忠太流の現代語訳だ。論語のどの箇所に書いてあるか、調べるなら調べてみるのもよ

い。しかし、肝心なことは、ハートで受け止めるということだ。忘れなさんなよ。




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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
読ませて頂きました (芙蓉峰)
2008-05-05 14:28:41
十翼が孔子に帰属するかどうかということは、ぼくは問題にしたつもりはなかったのですが、忠太さんにそのように受け取られたとしたらこちらの未熟です。
お許し下さい。
ありがとうございました。

この問題はこれで終わりにしたいと思います。
返信する
意見の行き違い? (Kayo)
2008-05-05 21:35:43
こんばんは~
おおっと、忠太さんの鼻息に飛ばされそうでしたよ~
あらら、意見の相違か解釈の相違か、はたまたギアの入れ違いか…
私なんてね、車運転していてトップで走っているのに何故かニュートラルに戻してサードに落としたりするんですよ、減速の必要ない時にギア・チェンジしたりするんですよ、バカですよねぇ~
あ、そう言う事ではないですね スミマセン★

お二人の高邁な議論?にはついて行けない私ですが、でも自分の思うところはとことん話したらいいですよね、途中で引くと… そう、今日のお題のように後味の悪さだけが残っちゃいますからさ
芙蓉峰さんも最後まで話されたらいいのに…

こんな時にナンですが、忠太さん私の紹介文ありがとうございました、HPまでブックマークしてくださって嬉しいです
『男気』当たっているかもですアハハハ

今日の汽車ぽっぽ見に来てくださ~い
返信する
今晩は、芙蓉峰さん (忠太)
2008-05-05 22:05:35
了解しました。
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タンポポじゃなくて (Kayo)
2008-05-06 21:46:06
こんばんは~
また来ました

せっかく関心持ってくださったのだからお答えしようと思って
あの田んぼ道の花は〈ヒメジョオン=姫女苑〉と言う野草です
性質は花に似合わずたくましく丈夫!
こちらでは何処でも見かける野草ですけど、大都会で暮らす忠太さんはご存知ないですよね~
私と付き合うとイヤでも物知り、いや花知りになりますよん
あ、お返事には及びませんからお気になさらず…
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