のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

裁判に市民が参加する意味

2009年09月21日 00時13分13秒 | Weblog
 裁判員裁判の第一号の争点は、「殺意の強さ」だったなぁと思い出しながら、被告人のインタビュ―記事を読みました。改めて被告人の被る不利益について考えさせられました。以下、第一号と共に第二号の事件について論評します。

 [問題点その一]
 証人調べの不公平ですね。第一号裁判の証人は、目撃者三人と遺族で四人とも検察側。第二号裁判では証人は被害者のみ。なぜ被告人の言い分を裏付ける証人を一人も呼ばないのか・・・

 [問題点その二]
 被害者・遺族感情のみに焦点があっていること。第一号裁判では、長男と二男、母親が陳述し、死刑を求刑。「最低でも懲役二〇年だ」と訴えていました。第二号裁判では被害者が「被告を一生刑務所に」という主張をしてましたね。被害者参加制度に被告人の人権侵害の可能性を強く感じました。

 [問題点その三]
 量刑の問題は、一般市民に任せない方がよいのではないか――。
 まず、どの程度に科刑すべきかは、一般の人が想像する以上に、法解釈の技術的な面での見通しが要求されます。つまり、法定の加重・減刑事由との兼ね合いなど、先例を知らないと判定が困難な局面があります。先輩のやることに間違いはない、という無謬性(むびゅうせい)を根拠に単に先例を踏襲(とうしゅう)せよ、と主張しているわけではありません。量刑といえど、劇的な改革をするのは、罪刑法定主義との関係で問題があるのです。もし先例を破り、理不尽な裁判をしてしまったと後になって苦しむとして、その苦しみに喘ぐのは、先例変更に加担した裁判員自身です。現に、裁判員制度を契機として、厳罰主義に日本の司法は大きく舵(かじ)を切ったと思われますが、今回裁判員になられた方において、その点の自覚が十分でしょうか。しかし、今現在、自覚を欠如していても、いずれ気付きます。厳罰という、ある意味、蛮勇を奮わなければできないこのような決断を、どんな理由があるにしろ、一般の人に迫るべきではないのではないと考える所以(ゆえん)です。
 次に、被告人の側からしても、情状の酌量(しゃくりょう)の客観的判断に慣れていない一般人に量刑を任せたくないでしょう。判決を有利に導くべく、被告が事件を起こした背景をしゃべった場合、裁判員に「言い訳だ!」と反応されたり、勢い余って“被害者の落ち度”を指摘する結果となれば、被害者感情を逆なでするばかりだからです。

 [問題点その四]
 メディアは、裁判官が「業界用語を使わないように」と注意したとか、市民裁判員が被告人に寄り添うような説諭をしたとか、和気あいあいとした雰囲気(!)の下、裁判がなされたような伝え方でした。また、判決の内容はというと、ほとんど検察官の主張の丸のみなのに、裁判員を妙に高く評価する識者のコメントが目立ちました。連日、大々的に報道しているにかかわらず、一方的な事実認定であることに触れたものは皆無でした。

 [問題点その五]
 呼称にも問題がありました。証人・遺族については、原則匿名なのに、被告人だけは実名というのはおかしいです。メディアによる不当な社会的制裁というほかありません。

 ところで、実名報道に関し酒井法子さんの報道のこと、ついでながら述べておきます。最初こそタレント名で行方不明とか言っていたのに、薬物吸入があったとする警察発表があった途端、≪タカソウノリコ アブリ、タカソウノリコ アブリ≫と、やくざの業界用語、「アブリ」なる隠語を取り入れた上、実名を連呼し出しましたね。改めるべき姿勢です。容疑者には人権はないのか、よくよく考えてもらいたいものです。

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