のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

ハゲになぜなるの?

2009年10月11日 15時00分34秒 | Weblog
人間は、脳細胞の3%しか使えずに死んでいく、と何かの本で読んだことがあります。しかし、使わずに終わるなんて、考えようによっては一種の機能不全です。自然は、嫌になるほど合理的にできています。だから、使わずに見える大脳の細胞もきっと何かに使われているはずだと思います。

何にか…――。

“残像”の整理ではないか、というのが僕の推測です。記憶というのは、ことごとくに断片的です。それをつなげて見せるのが残像という頭の働きでしょう。この働きによって、人は、自分にはアイデンテティ――自己同一性などと訳されます。分かりやすく言えば、自分らしさ――があるという安心立命を得られます。しかし、難点もあります。日々の変化の相を捉え難くするのです。

記憶の本質は、世界との接触の絶えざる中断と、再開の繰り返しです。その間隙を埋め合わせるものが残像です。たとえば、歩くあの道、この道も、残像があればこそずっと続いていくように見えるわけです。もし、残像機能がないとすると、普通に歩けなくなることでしょう。考えてみて下さい。道が寸断され、突如として目の前の光景ががらりと変わるように感じるのです。怖いと思いますよ。

しかし、ある時期、残像の働きを停止する必要が生じる…。残像という記憶と記憶を埋める接着剤がなくなれば、変化の在りようがまざまざと残酷なまでに見える半面、鬱々とした気分にもなるでしょう。「昔はよかったな」などという愚痴がふいと口を衝いて出たりするのは、そのような気分のときです。しかし、それを乗り越えないと次の一歩を踏み出せない、という状況です。

変化した現実を直視することで、人は自己の核のようなものに触れます。そして何を信じて生きてきたかをなぞることで、物語の糸を新たに紡ぎ直すことも可能となるのです。後悔に沈んでいた自分を許し、憎んでいた相手を思い出しても胸が痛まなくなれば、その分、活動域が広がります。男性の場合、ハゲにもなり、こういう“淀み”の時間が特に必要なのは、あるいは、狩猟本能のせいかもしれません。生きとし生ける物の命を奪い、次に命を奪われるのは自分かも、という恐れが狩猟生活のどこかに潜んでいます。つまり、男性は、自分の人生のどこかで、“淀み”を作り、その気持ちに決着をつけなければ、平穏になりえない宿命を負っているということかもしれません。確かに“淀み”の中でこそ、人間は成熟するような気がします。もちろん、“淀み”の中ばっかりでは、腐ってしまうでしょうけどね。

ところで、最近知ったのですが、ジャン・ルノワールという監督の映画に「河」(1951年公開)という作品があるみたいです。背景にあるのは、ガンジス河です。河畔にある「大きな家」に、かつて英雄であった、しかし、現在は忘れ去られた、戦争のため片脚をなくした兵士が来訪します。ガンジスの流れを眺めながら、己の“不幸”な姿を“普通”として受け止める術を学びとる過程が描かれているようです (この映画のことは週刊「金曜日」10/9、770号で知りました)。

絶対的な希望! (上記映画を紹介した廣瀬純氏の言葉)

というものが、もしあるならば、映画の舞台となる「大きな家」は、それを育むものの象徴でしょう。思うに、ハゲは「もうそろそろ淀みなさいよ」という天からの啓示。あるいは、偉大な存在から恵みとして授けられた贈り物かもしれません。あるいは、進化の過程で獲得した、「人生を急停車させる」(同氏)ための生き物の知恵のような気がします。

どんな境遇にあっても、自分のありのままの姿を「普通の映像」(同氏)として、受け止められるようになりたいものです。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿