のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

被災地での地震ごっこ、火事ごっこ

2011年04月20日 16時28分40秒 | Weblog
被災地で「地震ごっこ」や「火事ごっこ」をする子どもがいる、

と言います。

「見守ってあげて欲しい」

という「日本冒険遊び場づくり協会」

(東京都世田谷区)副代表、天野秀昭さんのアドバイスに全面的に賛成です

(gooニュース「東日本大震災 子供の心のケア 遊びの中で気持ちを整理」参照)。

子どもと大人の目は違います。

溜めている気持ちを吐き出すことで

子どもは被災の体験を手なずけられるようになります。

実は、十何年か前、立場は違うのですけど、

僕も同じような問われ方に直面したことがあります。

自分自身が

地震に遭ったとか、火事に遭ったとか、

そういうことではありません。

図書館が仲介する絵本の読み聞かせをするボランティア活動に

参加しようと研修を受けたときです。

研修の最終日、

各自が好きな絵本を選んで朗読することになっていました。

僕が選んだ絵本は、

トンネルをくぐって何かになる――

という物語でした。

トンネルを抜けると、

蝶や飛行機になっていたりする、楽しいお話です。

この朗読は、

ボランティア活動を認めて良いかどうかの、

いわば認定試験(?)でした。

結果はと言うと、

NGでした。

読み方が下手とか言うのではないです。

独特の熱気があり、それがよくない、ということでした。

なんか自慢しているようですけど、

物語に引き込む力が強すぎるんでしょうね。

僕が本を読むと、

本当にトンネルの暗闇に閉じ込められたような

緊張を強いられると言われました。

もし何らかの事故を体験した子どもなら、

フラッシュバックを起こしてしまう恐れがあるので

止めてくれ、ということでした。

僕に言わせれば、逆です。

それほどのインパクトがあるのなら、

むしろ、やるべし、と思いました。

上に述べたように、

フラッシュバックを起こしそうな

疑似体験であればこそ、

恐怖心を手なずけ、

延いては自己を客観視できるようになるのです。

しかし、図書館の、

絵本読み聞かせプロジェクトのまとめ役の方は、

首を横に振るばかりでした。

そんな読み方をあくまで貫くと言うのなら、

読み聞かせボランティアとして認めない、とまで言われました。

実技指導に来ていた講師の先生は、

違う意見だったようです。

しかし、バックアップの主体は、

図書館という行政機関です。

その行政機関に拒絶されたら仕方ないと思い、折れました。

ボランティアを始めて以降、

読み聞かせの仲間内で興味を持たれました。

これを読んでくれ、あれを読んでくれと、

うるさかったです。

見たところ、僕はただのおじさん、

なのに絵本を読み出したら、子どもが形(なり)振り構わず遊んでいるような活気がある、

それが珍しかったのでしょう。

しかし、すごいな、と感心してくれる割には

実践の機会が与えられなく、

ただ、子どもを刺激し過ぎる、なんていう

訳の分らない警戒心を剥き出しにされたところなんぞ、

僕にとって、

おばちゃんたちは図書館の吏員と何も変わりませんでした。

結局、分別盛りの、この人等と一緒では萎縮してしまうだけやな、

と考えて絵本の読み聞かせのボランティアを

断念した、という苦い思い出があります。

その頃の気持と重なります。

多分、子どもたちは、

「地震ごっこ」や「火事ごっこ」やらを楽しいからやっています。

なぜ楽しいかって?

そりゃあ、恐怖を克服するのは楽しいですよ。

そしてそれは、創造性の芽です。

率先して遊ばせてやれ、とまでは言いません。

せめて、子どもたちを、そっとして置いてあげて欲しいものです。

さて、では、最後に一言。

「津波や~」


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2 コメント

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賛成です! (obichan)
2011-04-20 20:14:30
人間がいえ、生物が真似をするのは、生まれつき持っているものです。
子供は先ずは親を、そして家族や周りにいる人たちを見ながら成長して行くのです。
物心ついてきたら楽しいから真似するのも解ります。
大人と同じことができるのが嬉しいんですよね。

地震も火事も危ないことをしっかり認識させて、
そういうときにはどうしたらいいかをしっかり遊びとして身体に覚えさせておく。
いざという時、もしかしたら親よりも頼りに成る時があるかも知れませんよね

読み聞かせしている忠太さんをみてみたいです
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☆obichanさんへ (忠太)
2011-04-21 00:33:31
介護で憂き身をやつしているとき、確かPHPだと思うのですが、「疲れ切ったとき、私は、松阪慶子になる」と書いておられる方がいました。記事にしようかどうしようか、迷った介護のコツです。
(相手は、超美人やぞ。大丈夫なん)
と思いました。でも、時間が経つにつれ、そういう考え方もありかな、と思えるようになりました。誰でも、こうなりたい自分のモデルがあります。そうなるために努力する、なんて回りくどいことをやらず、思い込んだら命がけ、その日になってしまえばよいんですね。

ただし、人に言うと、笑われますからね、ひっそりとやる、ここが分岐点ですね、うまく気分転換をやり遂げるための。

こんなことをばらすと、「今だれを演じてる?」と訊かれるのが難点です。

この点、子どもは、これがコツとか、ここが分岐点などと、改めて自分に言い聞かす必要がないわけです。自然に遊びの世界でやってます。
子どもは、何時もなりたいものになっています。阪神大震災のとき、地震のため、家をなくした子どもたちが地震そのものになって遊んでいたというのは、その象徴です。

彼の地であったものは、この地にもあるでしょう。我が息子、娘が
「津波じゃほ~」なんて叫びだしたら、
(なんてことを!)
と、つい思ってしまうのは人情です。しかし、(あ、ついに内の子どもが災害を直視し立ち直ろうとしている)と思い直すことが出来たら、プラス思考が出来ます。また、それが阪神大災害の教訓が東日本大震災に生かされた一例になります。

なお、僕の読み聞かせの仕方ですけど、白状しますと、これ、結構、面倒なんです。上に書きましたように、誰になりきっているか秘密でなくてはならんのです。でも、ほら、見ての通り、おしゃべりクンですからね、尋ねられると正直なところをしゃべってしまうでしょう。そうすると、返ってくる反応は一つです。

「うっそー」です、多分ね。そうすると、神通力が失われます。痛し痒しって、ところですね。絵本の読み聞かせの場合は、絵柄を通して事実上ばれてますけどね。
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