のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

東電の情報操作

2011年04月03日 16時30分14秒 | Weblog
「炉心溶融」について、

したと見ていいんだと、前に書きました

(→「山のようにある誤解」参照)。

しかし、

そこまで言えば、嘘になるようです。

溶融という表現は、

「溶け落ちる」

ことを意味するという、元々の僕の理解でよく、

すなわち、槌田敦元名城大学教授によると、

「炉心が溶けるには2800度になる必要がありますが、

この温度を測定する方法がない」

ために

「溶け落ちた」

という事態に発展しなければ、

結局、溶融したか否かにつき不明なままに終わるわけです(注)

(成澤宗男・文「『想定外』という言い訳は通用しない」[週刊・金曜日3/25刊]所収参照)。

つまり、被膜管が水と反応して酸化され、水素が発生する事態になったことからすると、

炉心溶融の兆候が現れたと見てよいけれど、

実際に、部分的にしろ溶け落ちなければ、

「溶融」する事態は、生じなかったことになります。

少しややこしいですね。

この点、犯罪との対比で考えると分り易いかもしれません。

たとえば、ある人、AさんがBさんを殺そうとしたとします。

殺害の手段として青酸カリを

用意しました。

その場合、Bさんの目の前に飲める状態で

青酸カリを置けば、

殺害行為に取りかかったと言えますよね。

つまり、行為から殺害の兆候が見て取れるわけです。

しかし、何かの事情でBさんがそれを飲まなかったとします。

そうすると

「殺害した」とは言えなくなります。

それに似てます。

僕は知らなかったのですが、

テレビ局のニュースキャスターがした

「炉心溶融」の報道は、キャスターの独自な判断でなく、

東電の発表に基づく、と言います。

ということは、あえてした東電の情報操作なのかも、ですね(上掲、雑誌記事参照)。

ここで疑問に思うのは、

東電という原発事故の加害者が

「炉心溶融」という最悪の事態になるかどうかが不明な段階で

なぜ、そうなったと公表しえたか、

あるいは、こうも言えます。

なぜに彼らは、「最悪」の事態を窺わせる妄言をあえて吐きたがったのか、と。

これは、放射線濃度につき、

専門家ならすぐに判定がつく事柄だろうに、取消しに次ぐ取消しをした

という事件とも関連して、

この会社には非常に根深い甘え体質が根底にあるからでしょう。

被災地の救助を困難にし大勢の死者を出しているのに、

まるで他人事です。

それでも許されるという風に考えているんでしょうな。

東電にして見れば、

アメリカやロシアからの支援を受け入れると、原子炉の復旧が不可能になる恐れが強い、

廃炉にせず、この復旧という無謀な企みを実行に移すには、

他国の介入を避けるため、

“もう遅い”というメッセージを発する必要があったのでしょう。

ただ、自分たちは何をしても――

場合によっては、どれほど沢山な人間の命を犠牲にすることになっても――許される

とする甘えは、

裏を返すと傲慢さです。

誰が一体、彼らをここまで傲慢にしたのでしょうか。

お互いを思いやる想像力を口にすれば、彼らは反省してくれるでしょうか。

多分、答えは、NOでしょう。

どんなに共感能力の大切さを言ったって、

それは弱者の美徳であって、強者にとっては悪徳だ

ぐらいのレベルでしか受け止めてもらえない気がします。

腹が立つのを通り越して、情けないです。


(注)燃料棒には核分裂しない金属物質が含まれているようです。

だから、もし、その金属物質の飛抹が見つかれば、溶融があったと判定できます。

実際、今回の福島原発の事故の場合、ヨウ素やセシウム等の

放射性物質以外に金属物質が検知されたようです。

また、スリーマイル島原発事故では600度で溶融があったとする報告もあったらしく、

必ずしも温度にこだわる合理性がない

というような内容(それだけではないですが)の、

広瀬隆氏(作家)のタンポポ舎での講演がUstream.tvに公開されていました

「たんぽぽ舎緊急講演会(広瀬隆)3月26日午後の部」参照)。

再生してみて、熱の籠った話され方に胸打たれるものがありました。

この方、反原発“主義者”として、

きっと何十年も干し上げ続けてきたのだと思います。

ここへきて、怒りが噴出する気持ち、分らないわけではありません。

ただ、しかし、だからこそ、

自説の理のあるところを冷静に伝えないと、

敵を利するだけでしょう。

溶融温度が600度としても、

それをどう計るのかという問題は、依然として残ります。

また、服が焦げたからと言って、

その服を着ていた人がやけどを負ったことにはならないでしょう。

それと同様の関係は、

被覆管と燃料棒との間にも見られるはずです。

よって、「被膜管が溶けた」以外に何の事実も確定されない内から「溶融があった」

という発表を東電がしたことは、

専門家の判断としてはやはり論理的に飛躍があったと考え、

上記、本文に示した立場を崩さないで置きます。

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