zankurou日記

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読売新聞の記事から(リーダーシップについて)

2011-05-24 21:44:56 | 随想

5/10づけの読売新聞に次のような記事があった。(国際日本文化研究センター教授、日本近現代史 戸部良一氏の意見である。)

余震はおさまらず、原発事故への対応もまだ中途である。災害の実体や対応行動の全体像を把握できる段階にはなっていない。こうした状況で感じるのは、これは「戦時」ではないのか、あるべき資質非常時の指導者という思いである。もし今が戦時なら、戦時としての対応が必要である。

 それは平時型のリーダーシップとは異なる。平時なら、利害関係者の意向をよく聞き、時間をかけて落としどころを見計らって決定できる。だが戦時においては、しばしば瞬時に判断し、即座に決定しなければならない。平時を想定した手続きや慣習を、ときには「無視」して決断を下さなければならない。私権を制限しなければならない場合すらあるだろう。

かつて昭和戦前期の日本は、早くから「非常時」を叫びながら、実際には戦時下になっても、それにふさわしいリーダーを持つことができなかった。複数の大臣ポストを兼ね独裁者のように言われる東条英機でさえ、その政権末期まで陸軍の作戦・用兵を左右することができず、海軍には手も出せなかった。

 というものである。私はこの考え方に賛成である。非常時にリーダーがトップダウンで「命令」を下さなければならないのは理解できる。辛くとも全員の同意や納得は得られないかもしれない。しかし、「普段から信頼しているリーダーだから、信じる。」というものが根底にあればの話である。

 右顧左眄し、一貫性がなく、政局争いだけで終始している政権には、求心力などないだろう。本来ブレーンたるべき官僚を信じず、「俺の言うことを聞け、勝手なことをするな(言うな)」では、誰も付いてくることなどない。 

 以前から読ませていただいていた、乱世の姦雄ともいうべき佐々淳行氏の言葉を借りると、以下のようである。

 1.事態は平時でなく非常時である。平和時の地方自治体の活動を前提とする「災害対策基本法」から、国家非常事態に備えて中曽根内閣(後藤田官房長官)により1986年7月1日から施行された「安全保障会議設置法」に切り替えるべし。』(佐々氏)

 警察官僚として、学生運動の活動家であった菅氏と正反対である。自分たちの警備行動をどう位置づけていたか考えることにより、来るべき災害時や、北朝鮮の不審船対応時の法適用についても常々考えていたことが、佐々氏の著書である後藤田氏の追想の本などに何回も出てきていた。

 『治にいて乱を忘れず』を実践している方だなと思ったものである。このような考え方は、まさにまっとうな考え方だと思う。自衛隊を「暴力装置」と考える政権には、踏み切れないのであろうが、多くの心ある官僚を使いこなせれば、三人ばかりではない文殊の知恵がいくらも出てくるだろう。

 毎日毎日一生懸命やっている自衛隊等に、初動体制で歯がゆく無念な思いをさせたのが残念である。



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