6月30日に同行させていただいた、濁沢例祭の記事がありましたので転載です。
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濁沢大聖不動瀧:月山北方の滝、大崩落免れ健在 信仰の聖地で例大祭復活 /山形
崩落で93年に消滅したと思われていた月山北方の滝が健在と分かり、鶴岡市羽黒町手向の宿坊「大聖坊(だいしょうぼう)」経営、星野文紘さん(63)は感無量だ。星野さんは、出羽三山信仰の行事「冬の峰百日行」で07年度には重要な役松聖(まつひじり)も務めた山伏。滝は大聖坊でご神体としてあがめていた。滝が無事と分かり2度目の夏。今年も「講」と呼ばれる信者たち約20人を連れ沢を登り、滝を目前に例大祭を開いた。【佐藤伸】
滝は大聖坊が「濁沢大聖不動瀧」と呼ぶ落差約10メートルの3本の滝。月山北方のにごり沢流域の岩壁にかかる滝だが、一帯は93年6月上旬、融雪期の豪雨で約30ヘクタールにわたり大崩落した。庄内森林管理署によると、土石流は治山ダム9基を埋没させたほか、東北電力・月の沢発電所の取水施設を一部損壊させた。流出土砂量は190万立方メートル。濁った水は最上川を下り日本海に達したという。
星野さんは現地を訪れたが現場は滝どころか、滝へのルートすら推測できないほどに一変。滝は消滅したと確信したという。
「大聖坊」は、羽黒山の執行・別当として威をふるった高僧、天宥の直参山伏「御恩分」61人のうちの1人が江戸時代の1630年代に構えた宿坊で星野さんはその13代目。東京や福島から檀家信者たちが訪れるが、御神滝への登拝は不可能となってしまった。
ところが08年11月、キノコ採りをしていた友人が、沢の対岸に細く白く糸を引く滝を見つけ星野さんに連絡した。数日後、友人とにごり沢の枝沢の1本に目星をつけてやぶをかき分け約30分さかのぼると視界が突如開け、滝が姿を現したという。滝は以前同様3本あり「言葉にできないほど感動した」。大崩落は滝の下部で発生したため被害を免れたらしい。
星野さんは、現地に「不動瀧」の標柱を立て、改めて「濁沢大聖不動明王」をまつり、裸になって滝に打たれた。東側は広大に開け山並みは見渡す限り。星野さんは「早朝、滝を拝むと水煙に信者の影が映り込み、その影を丸い虹が包み見事な御来迎が見られる。ご神体とあがめられたのもわかる」と話す。これからも出羽三山信仰の聖地の一つとして大切に守っていくという。
毎日新聞 2010年7月30日 地方版
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さてさて、濁沢については江戸時代、俳人松尾芭蕉が行った?とされているようであるが、その著作「奥の細道」に濁沢についての記載はなく、同行した曽良の日記に記述がある。元禄二年(1689年)6月6日、今から320年ほど前である。
曽良 奥の細道随行日記には次のようにある。
「〇六日 天気吉。登山。三リ、強清水、ニリ、平清水(ヒラシミツ)、ニリ、高清(高清水)、是迄馬足叶。道人家小ヤガケ也。彌陀原コヤ有。中食ス。是ヨリフダラ、ニゴリ沢、御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。」
芭蕉たちは弥陀ヶ原(標高約1400m)で昼食をとって、そこから東補陀楽、濁沢、御浜へ下ったようであるが「難所成り」とあるとおり、かなりの下りにある。およそ濁沢まで標高600mほど鎖や木を伝わり下ることになる。今では御浜から濁沢への道はなく、ガケ崩れ等もあり地元の詳しい人でもこの間のルートは分からないようだ。
日記ではそこをまた辿って600m登り元の弥陀ヶ原に戻って来たというのだ。
東補陀楽、濁沢、御浜ともに、出羽三山の山中にあってとりわけ神秘的な拝所である。
案内なくしてはたどり着く道は分からない。芭蕉たちは山先達に案内され拝所を巡った。
神秘的な拝所であり、山中の険しい箇所にもあることから容易に人を寄付けない。
ここを巡っての芭蕉たちの感想はどんなものだったのだろうか?
俳句には表現できないものがあったのではなかろうか。
日記は羽黒山を出て、濁沢を駈けて申の上剋(午後3時半ごろ)には月山山頂に至ったという記述になっている。
月が明るくなければ夜が白み始める午前4時くらいに羽黒山を出たとして、11時間はあるが、このコースの半分くらいは走るように上ったのではないか?と思うくらいの強行ルートだと思う。
人生も半ば終わった人?がのんびり山歩きしているようなイメージのコースではない、完全にクレイジーなペース配分である。
さて、月山に至ってからであるが、「雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也」というのは奇妙な記述と思うかもしれない。
この場合の「来光」とは、朝日を見ることではなく、ブロッケン現象のことで、月山権現である阿弥陀さんが「ご来迎」下さるわけである。
月山に至り、人間と日と雲と神様が一体となる時間。
それが稜線を挟んで片側に必ず雲が無いとブロッケン現象は成り立たないので、夕には東、朝には西に見える、というわけ。
曽良が山頂にたどりついたときには雲晴れて来光なし、となるのである。
何だか謎解きのような日記である。
話が逸れてしまった。
さて、濁沢の拝所の話。
念願かなって同行させていただいた濁沢。
林道を車で行く。雨の中、まともに車に落ちればぺしゃんこになるであろう落ちてきたばかりのような岩石を避けながら1時間近く車で登り、途中から歩き出す。
標柱のあるところからはヤブの中の小さな沢を濡れながら上っていく、足元には水芭蕉も見られる。残雪がある。
しばらく歩くと急に視界が開けた。
少し開けた場所で三本の瀧が轟々とそして流れ落ち、周囲を取り囲む岩に鳴り響く。
6月の終わりであるが、近くにいるだけで肌寒さをおぼえる。
雨なのか飛沫なのか分からないが近くにいるとすっかり濡れていた。
大聖坊さんの例祭が滞りなく進められた。
終わってしばらく先輩の行者さんと代わる代わる法螺を立てる。
その音は瀧の音と一体となって周囲の岩に反響する。
大自然は人間のように語りかけてはくれない。何も語らない。
とりあえず精一杯の法螺を三本の御瀧へ向かって立てる。
足元からずぶ濡れになりこれ以上じっとしていられない状況になっていた。
瀧のある後方を気にしつつ、ずっと法螺を立てながら、山を下った。
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濁沢大聖不動瀧:月山北方の滝、大崩落免れ健在 信仰の聖地で例大祭復活 /山形
崩落で93年に消滅したと思われていた月山北方の滝が健在と分かり、鶴岡市羽黒町手向の宿坊「大聖坊(だいしょうぼう)」経営、星野文紘さん(63)は感無量だ。星野さんは、出羽三山信仰の行事「冬の峰百日行」で07年度には重要な役松聖(まつひじり)も務めた山伏。滝は大聖坊でご神体としてあがめていた。滝が無事と分かり2度目の夏。今年も「講」と呼ばれる信者たち約20人を連れ沢を登り、滝を目前に例大祭を開いた。【佐藤伸】
滝は大聖坊が「濁沢大聖不動瀧」と呼ぶ落差約10メートルの3本の滝。月山北方のにごり沢流域の岩壁にかかる滝だが、一帯は93年6月上旬、融雪期の豪雨で約30ヘクタールにわたり大崩落した。庄内森林管理署によると、土石流は治山ダム9基を埋没させたほか、東北電力・月の沢発電所の取水施設を一部損壊させた。流出土砂量は190万立方メートル。濁った水は最上川を下り日本海に達したという。
星野さんは現地を訪れたが現場は滝どころか、滝へのルートすら推測できないほどに一変。滝は消滅したと確信したという。
「大聖坊」は、羽黒山の執行・別当として威をふるった高僧、天宥の直参山伏「御恩分」61人のうちの1人が江戸時代の1630年代に構えた宿坊で星野さんはその13代目。東京や福島から檀家信者たちが訪れるが、御神滝への登拝は不可能となってしまった。
ところが08年11月、キノコ採りをしていた友人が、沢の対岸に細く白く糸を引く滝を見つけ星野さんに連絡した。数日後、友人とにごり沢の枝沢の1本に目星をつけてやぶをかき分け約30分さかのぼると視界が突如開け、滝が姿を現したという。滝は以前同様3本あり「言葉にできないほど感動した」。大崩落は滝の下部で発生したため被害を免れたらしい。
星野さんは、現地に「不動瀧」の標柱を立て、改めて「濁沢大聖不動明王」をまつり、裸になって滝に打たれた。東側は広大に開け山並みは見渡す限り。星野さんは「早朝、滝を拝むと水煙に信者の影が映り込み、その影を丸い虹が包み見事な御来迎が見られる。ご神体とあがめられたのもわかる」と話す。これからも出羽三山信仰の聖地の一つとして大切に守っていくという。
毎日新聞 2010年7月30日 地方版
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さてさて、濁沢については江戸時代、俳人松尾芭蕉が行った?とされているようであるが、その著作「奥の細道」に濁沢についての記載はなく、同行した曽良の日記に記述がある。元禄二年(1689年)6月6日、今から320年ほど前である。
曽良 奥の細道随行日記には次のようにある。
「〇六日 天気吉。登山。三リ、強清水、ニリ、平清水(ヒラシミツ)、ニリ、高清(高清水)、是迄馬足叶。道人家小ヤガケ也。彌陀原コヤ有。中食ス。是ヨリフダラ、ニゴリ沢、御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。」
芭蕉たちは弥陀ヶ原(標高約1400m)で昼食をとって、そこから東補陀楽、濁沢、御浜へ下ったようであるが「難所成り」とあるとおり、かなりの下りにある。およそ濁沢まで標高600mほど鎖や木を伝わり下ることになる。今では御浜から濁沢への道はなく、ガケ崩れ等もあり地元の詳しい人でもこの間のルートは分からないようだ。
日記ではそこをまた辿って600m登り元の弥陀ヶ原に戻って来たというのだ。
東補陀楽、濁沢、御浜ともに、出羽三山の山中にあってとりわけ神秘的な拝所である。
案内なくしてはたどり着く道は分からない。芭蕉たちは山先達に案内され拝所を巡った。
神秘的な拝所であり、山中の険しい箇所にもあることから容易に人を寄付けない。
ここを巡っての芭蕉たちの感想はどんなものだったのだろうか?
俳句には表現できないものがあったのではなかろうか。
日記は羽黒山を出て、濁沢を駈けて申の上剋(午後3時半ごろ)には月山山頂に至ったという記述になっている。
月が明るくなければ夜が白み始める午前4時くらいに羽黒山を出たとして、11時間はあるが、このコースの半分くらいは走るように上ったのではないか?と思うくらいの強行ルートだと思う。
人生も半ば終わった人?がのんびり山歩きしているようなイメージのコースではない、完全にクレイジーなペース配分である。
さて、月山に至ってからであるが、「雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也」というのは奇妙な記述と思うかもしれない。
この場合の「来光」とは、朝日を見ることではなく、ブロッケン現象のことで、月山権現である阿弥陀さんが「ご来迎」下さるわけである。
月山に至り、人間と日と雲と神様が一体となる時間。
それが稜線を挟んで片側に必ず雲が無いとブロッケン現象は成り立たないので、夕には東、朝には西に見える、というわけ。
曽良が山頂にたどりついたときには雲晴れて来光なし、となるのである。
何だか謎解きのような日記である。
話が逸れてしまった。
さて、濁沢の拝所の話。
念願かなって同行させていただいた濁沢。
林道を車で行く。雨の中、まともに車に落ちればぺしゃんこになるであろう落ちてきたばかりのような岩石を避けながら1時間近く車で登り、途中から歩き出す。
標柱のあるところからはヤブの中の小さな沢を濡れながら上っていく、足元には水芭蕉も見られる。残雪がある。
しばらく歩くと急に視界が開けた。
少し開けた場所で三本の瀧が轟々とそして流れ落ち、周囲を取り囲む岩に鳴り響く。
6月の終わりであるが、近くにいるだけで肌寒さをおぼえる。
雨なのか飛沫なのか分からないが近くにいるとすっかり濡れていた。
大聖坊さんの例祭が滞りなく進められた。
終わってしばらく先輩の行者さんと代わる代わる法螺を立てる。
その音は瀧の音と一体となって周囲の岩に反響する。
大自然は人間のように語りかけてはくれない。何も語らない。
とりあえず精一杯の法螺を三本の御瀧へ向かって立てる。
足元からずぶ濡れになりこれ以上じっとしていられない状況になっていた。
瀧のある後方を気にしつつ、ずっと法螺を立てながら、山を下った。
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