ほらふきにっき

発作的な日記です

江戸十老開基

2021-05-10 | つれづれ

三山雅集挿絵 国立国会図書館ウェブサイトから転載


「江戸十老開基」
寛文年中、江戸に於いて羽黒派行人願い立て、関東八ヶ国散在の羽黒派錫杖頭立て、国割に行人支配を預らる。普門院・金剛院・運徳院・高徳院・正徳院・東朝院六人也。相談相手と為し老分四人、宗法院・學法院・高學院・寶性院、是合せて江戸十老と云う也。末派・他派・公事等出来候刻は、此の山え窺わず、十人の内、番替わり御奉行所え出、相済候筈。

元和三年立  本誓寺下   高學院
同年立    ゑさし町   運徳院
同五年立   富澤町    金剛院
同六年立   本町     寶性院(寶生院?)
寛永二年立  神田鍋町   普門院
同年立    駒込     東朝院
同年立    浅草聖天町  正徳院
同四年立   永留町    高徳院
同七年立   明神下日明町 宗法院(同朋町?)
慶安元年立  葺屋町    學法院
普門院支配 慶安二年立 西久保飯倉町熊野堂別當 正宮寺
正徳院支配 寛永四年立 目黒村 大圓寺
普門院支配 寛永五年立 威徳院

「神道大系 神社編 -出羽三山-」より

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寛文年中(1661~1673年ころ)に江戸において羽黒派の行人が願い出て、関東八か国に散在する錫杖頭(しゃくじょうがしら)と呼ばれる山伏を擁立し国ごとに行人の統制を図った。
普門院・金剛院・運徳院・高徳院・正徳院・東朝院六人の山伏である。相談相手として老分四人、宗法院・學法院・高學院・寶性院の山伏を合せて江戸十老と云う。
羽黒派に所属する山伏が他派の山伏と訴訟ごとが発生した場合は、羽黒山にいちいち伺いを立てなくても、十人の内から順番に御奉行所に出廷してもらうことで解決できるものである。・・・・・

江戸十老は関東近辺の羽黒派の調整役として、そして各地に散在する錫杖頭という山伏は触頭の役割として本山からの御触れ(通知)を連絡する役割を果たしていたようだ。

ちなみにこの羽黒派の江戸十老として史料に記載されているお寺は現在は羽黒派として残っていないが、天台宗へ移行し一部残っているものと思われる。駒込東朝院は江戸五色不動のうちの目赤不動南谷寺と思われる、また十老からは外れているが目黒村大圓寺は行人坂の大圓寺と思われる。

このほかに現存していない寺として、宝性院は万蔵院春海上人の寺のことだろうか。
また普門院は「新編武蔵風土記」を見ていくと江戸日本橋音羽町普門院末、江戸霊巌島普門院触下、江戸音羽町普門院配下、などという羽黒行人派、天台行人派の修験寺の記載があり、普門院自体住所こそ転々としていたようであるが武蔵国一円に末寺が点在していたものと思われる。

江戸十老についてはその住所から当時の江戸の中心地である日本橋近辺に多くが在った様子であるので、羽黒山とゆかりのある於竹大日如来について、その舞台が日本橋とされるのも自然な気がしてくる。

明治の廃仏毀釈の影響やその後の震災、戦災、東京の都市化により失われたものは大きいが、まだほんの微かではあるけれど残っている羽黒派の足跡を感じ取ることができる。

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