最近漢字がいっぱい書いてあるような頭の痛くなるような本ばかり読んでいた。
で、こんな本も読んでみる。谷川俊太郎「詩ってなんだろう」
ほとんどがひらがなで書いてある。小学生の低学年でも読める。
頭を使うというよりは読んで声に出して楽しむことが出来る、良い本。
そして、あとがきを読むと作者が詩というものをどのようにして伝えようとしたか?が分かる。
*********************
「もじがなくても」
もじがなくても、もじがよめなくても、詩をたのしむことはできる。
詩はもじがうまれるまえからあった。
そのころ、詩とうたはおなじもので、おまじないやいのりだったり、はたらくときこえをそろえてうたううただったり、おどるときのはやしことばだったり、おうさまのものがたりだったりもした。
あはれ あなおもしろ あなたのし あなさやけ をけ
〔古事記〕
オホホホ へへへ ヘイヤ ヘイヤ
オホホホ へへへ ヘイヤ ヘイヤ
エオ ラド エオ ラド エオ ラド ナセ
ホワニ ホウ オウオウ オーエ
エオ ラド エオ ラド エオ ラド ナセ
ホワニ ホウ オウオウ オーエ
ホワニ ホワニ ホウ ヘイエイエイエ イエイエヤーヒ……
〔(ナバホ・よるのうた)金関寿夫訳〕
おとだけでいみのないうたや詩がある。
でもいみがなくとも、こえにはひとのこころをうごかすちからがある。
もじにはおとがある、詩にはこえがある。
谷川俊太郎「詩ってなんだろう」ちくま文庫 より
*********************
「こえにはひとのこころをうごかすちからがある」というのは
詩人のことばとして出てくると非常に説得性がある。
現代の日本では義務教育が9年あるので簡単な漢字ひらがなは誰でも読めるし書ける。
いつの時代ということではないけれど、文字は誰しもが書けるものではなかった。
世界的にも文字を読めない人たちは沢山いる。
しかし、読めないというのは読める人からの見方かもしれない。
むしろ必要としていない世界でもあるかもしれない。
会話はできるしお互いの意思は通じる。
会話をしているとき、悲しげな声であればその人が悲しいのだとわかる。
嬉しそうな声は、嬉しいのだと。
最近は仕事でもメールでやりとりすることが多い。
一方的な連絡を業務用で使うには効率的だと思う。
メールは文字の文化である。
文面から見えなくなってしまうこともある、文面に表すのが苦手な人のメールは場合によって意味が分からないこともある。少し話をしてみないと分からない。
そういうときは実際電話してみると手っ取り早く終わることがある。
相手の言おうと思っていることが声のほうが分かりやすい。
声からは感情が分かるから。
さて、いつもながらに法螺の場合はどうだろう。
法螺の文に「我今吹大法螺声…」とある。
法螺は声なのだ、ただ単なる音ではないと思う。
文字には表現できないが、大自然にある音を行者を通して表現された声となる。
風の音、木々のざわめき、瀧の音、鳥のささやき、雨の音…。
そして生きざまが加わる。
悲しい時には悲しい音。嬉しいときには嬉しい音に。
やさしい気持ちでやさしい音に。
で、こんな本も読んでみる。谷川俊太郎「詩ってなんだろう」
ほとんどがひらがなで書いてある。小学生の低学年でも読める。
頭を使うというよりは読んで声に出して楽しむことが出来る、良い本。
そして、あとがきを読むと作者が詩というものをどのようにして伝えようとしたか?が分かる。
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「もじがなくても」
もじがなくても、もじがよめなくても、詩をたのしむことはできる。
詩はもじがうまれるまえからあった。
そのころ、詩とうたはおなじもので、おまじないやいのりだったり、はたらくときこえをそろえてうたううただったり、おどるときのはやしことばだったり、おうさまのものがたりだったりもした。
あはれ あなおもしろ あなたのし あなさやけ をけ
〔古事記〕
オホホホ へへへ ヘイヤ ヘイヤ
オホホホ へへへ ヘイヤ ヘイヤ
エオ ラド エオ ラド エオ ラド ナセ
ホワニ ホウ オウオウ オーエ
エオ ラド エオ ラド エオ ラド ナセ
ホワニ ホウ オウオウ オーエ
ホワニ ホワニ ホウ ヘイエイエイエ イエイエヤーヒ……
〔(ナバホ・よるのうた)金関寿夫訳〕
おとだけでいみのないうたや詩がある。
でもいみがなくとも、こえにはひとのこころをうごかすちからがある。
もじにはおとがある、詩にはこえがある。
谷川俊太郎「詩ってなんだろう」ちくま文庫 より
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「こえにはひとのこころをうごかすちからがある」というのは
詩人のことばとして出てくると非常に説得性がある。
現代の日本では義務教育が9年あるので簡単な漢字ひらがなは誰でも読めるし書ける。
いつの時代ということではないけれど、文字は誰しもが書けるものではなかった。
世界的にも文字を読めない人たちは沢山いる。
しかし、読めないというのは読める人からの見方かもしれない。
むしろ必要としていない世界でもあるかもしれない。
会話はできるしお互いの意思は通じる。
会話をしているとき、悲しげな声であればその人が悲しいのだとわかる。
嬉しそうな声は、嬉しいのだと。
最近は仕事でもメールでやりとりすることが多い。
一方的な連絡を業務用で使うには効率的だと思う。
メールは文字の文化である。
文面から見えなくなってしまうこともある、文面に表すのが苦手な人のメールは場合によって意味が分からないこともある。少し話をしてみないと分からない。
そういうときは実際電話してみると手っ取り早く終わることがある。
相手の言おうと思っていることが声のほうが分かりやすい。
声からは感情が分かるから。
さて、いつもながらに法螺の場合はどうだろう。
法螺の文に「我今吹大法螺声…」とある。
法螺は声なのだ、ただ単なる音ではないと思う。
文字には表現できないが、大自然にある音を行者を通して表現された声となる。
風の音、木々のざわめき、瀧の音、鳥のささやき、雨の音…。
そして生きざまが加わる。
悲しい時には悲しい音。嬉しいときには嬉しい音に。
やさしい気持ちでやさしい音に。
おつかれ山です。
だいぶ遅くなりましたが、黄色い粉(きな粉ではありません)と一緒にラブレター?お送りしました。
資料は法螺とは似て違うものなので参考まで。峰中に会員の皆さんにお配りしてましたが遅くなりました。
ホラ練がんばりましょう~。
そして峰中は声と音が多彩です。
修験の声と音については大内氏の各論文が非常に興味深いです。こちらも参考まで。
http://www.mgu.ac.jp/~music/staff/ohuchi.html
今日は「音」ネタ!共感しております★
私にとっての修験道はまさに声の力の魅力にあります・・・。
それはやはり「呼吸」に繋がる訳ですね。
声・言葉・呼吸・振動・音・・・
しかし義務教育が9年もあるのに、
学校では何故きちんと呼吸や発声について
教えないのでしょうかねぇ。
追伸 只今あなた様からのラブレターが届いていることに気付き開封致しました!
法螺歴の浅いワタクシにとっては漢字が多く
頭痛が起こりそうな解説書
有難く拝受いたしました~