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夜の中に犬の吼え声が響く。
基地の夜戦飛行場で、犬は落ち着かずはねながら空を見上げて吠える。
チャペック軍曹が振り返ると、いつもの犬は疑わしげに軍曹を見返す。
「どうしたわんこ。あいつはでか過ぎてお前なんか食っても腹は満ちないぜ」
けれど納まらなかったらしい。犬はふたたび頭上へ向けて吼える。
星空を押し隠して、それはゆっくりゆっくりと空から降りつつある。シュトラール軍の大型輸送飛行船だ。飛行船と言っても、浮力のみに頼って浮いているわけではない。推力と浮力の複合船だ。ちょっとした滑走路くらい覆いつくしてしまうほど巨大な飛行船が降りてくるというのはそれなりの見ものだ。チャペック軍曹や犬だけでなく、結構な人影が野戦飛行場の縁へ集まり、その姿を見上げていた。
初めは遠く、星空の中の染みのようであったものが、近づくに連れて次第に広がり、広がりは大きく膨らみ、伴う護衛機に気づくころには頭上を圧するほどになっていた。飛行船と古風に呼ばれていても、ガス浮力にのみ頼るものではない。推力、揚力、浮力を組み合わせた複合飛行船だ。それがゆえにこの輸送飛行船は膨大な搭載量を誇り、しかも滑走路のほとんど無い飛行場へと降り立つことも出来る。
護衛機を伴いながらゆっくりと降下してきた飛行船は、さながら夜の女王といった風情だ。とはいえ巨大な船体には、付随する欠点がいくつもある。風の影響を受けやすいこともその一つだ。同じように空気抵抗と推力から速度も限られる。なにより巨体は敵から発見されやすい。敵の航空戦力が充実し始めた今、見つかることはすなわち船と搭載物との両方を失いかねない。だからほとんどつねに夜を飛び、護衛機を伴う。今も轟音と共に駆逐機が上空を旋回している。ホルニッセより大型の戦闘機、ザラマンダーだ。旋回しているのは駆逐機のみではない。この基地からも航空団が哨戒機を出している。
飛行船は大きさに合わない軽々しさで揺れながら、夜の中に圧縮機の音を響かせる。噴射の気流をふきだし、じわりと降りてはまた風に振られ、エンジン音を高鳴らせて持ち直す。下部船体からは着陸脚を伸ばしているのにいつ降りるともわからない。待ちきれずに帰ろうかと思ったころ、飛行船はエンジン音を高鳴らせながらふんわりと降り立ち、ついでに砂塵を巻き上げた。
吹き寄せる熱風に犬は跳ねるように駆け逃げかける。けれどそれ以上何事もないことに、拍子抜けしたように足を止める。落ち着かなげに足踏みをし幾度も体をめぐらせて、飛行船を見やるだけだ。気にはなるが自分には関わり無いものだとわかったのだろう。振り返って見つめるチャペック軍曹へは目を向けようとさえしない。犬にはそういうところがある。その気まずげな様子に軍曹は思わず笑ってしまったのだったが。
着陸してしまえば飛行船は倉庫と変わりない。船倉を開き積載物を降ろすだけだ。船体の扉が左右に開き、斜路が引き出される。牽引車が向かってゆくが作業灯はおおっぴらには灯されない。敵の目を引くようなことはできるだけ避けるためだ。
本当の見物はそこからだ。しばらくして作業車がふたたび斜路に姿を見せたとき、見物の人垣から声が上がった。牽引する台車の上には上には大きな影がある。脚を折りたたみ身を低くしていても、装甲戦闘服の二倍ほどの背丈がある。
それを何に例えればいいのか、軍曹には見当もつかない。それぞれが機能を備えた複合体としか言えない。ベースとなる胴体があり、胴体の左右に脚がある。脚は付け根と足首の間に二つの関節を持っているから人の足とは似ても似つかない。それを縮めるようにまげて低く構えている。見ようによってはカエルに見えなくもない。実際、その姿はクレーテ - ヒキガエル - とあだ名される無人歩行戦車に似ている。だが背はクレーテより五割ほど高いし、幅は倍近くになっている。胴体の上に乗せられた砲塔はずっと大型で幅広だ。今は輸送状態にあって、武装は施されておらずアンテナの一部も外されていた。
それの名をケーニヒスクレーテという。もちろん皆がその名を知っていた。皆が我知らず声を上げていたのは、皆がその機能を知っていたからだ。
ケーニヒスクレーテはこれまでにない高度な情報処理能力を備えた人工知能を搭載していた。その能力は少将各の階級を与えられてシュトラール軍のネットワークに組み込まれるほどのものだ。将官は、師団をはじめとした戦略単位の指揮を行う階級だ。
ケーニヒスクレーテの場合、それら部隊の中の直接の指揮官として位置するというよりも、多数存在する戦術部隊を統合誘導するための階級であるとは説明されていた。そのケーニヒスクレーテが、この戦闘団へ前進配置されるということはすなわち、ここに複数の戦闘団が投入されうると判断されているということだ。
飛行船の船倉から降ろされてくるのは、ケーニヒスクレーテとそのパーツ類だけではない。多くの戦闘兵器の予備部品類だ。規格コンテナに収められていて、知らないものが一見しただけではその中身はわからない。けれど無人牽引車に引かれて、続々と降ろされてくる。この基地の一個大隊のナッツロッカーのためのものであり、一個航空団のPKAとホルニッセのためのものであり、さらに一個ロケット砲兵中隊のスフィンクスのためのものだ。さらに飛行船には補充の犬が乗っている。もちろんグローサーフントのことだ。他の部品と同じように規格コンテナに詰め込まれて運び出されるのを待っている。
そして飛行船は補給物資を運び込むためだけにこの基地へ来たのではない。むしろ運び出すためにやってきたのだ。
この基地に据え付けられていた整備機材を搬出する。これらの補給物資はその代償だ。これまで戦闘団は損傷した機材を、基地で自力回復させていた。この基地の位置づけがそもそも機動作戦の拠点であり、長距離作戦行動を行わせるために、多くの整備機材が備えられていた。部隊はこの基地で整備を受け、前方に進出して戦闘を行なう。
この基地が敵から攻撃を受ける恐れは小さかった。これまでの想定では。
チャペック軍曹は犬へと振り返る。犬はすでに地面にぺたりと横になり、落ち着いた様子を見せている。無人車輌がごろごろ走り回ることも、上空を戦闘機が飛び交うことも、この基地ではいつものことだ。
生き物である限り恐れを感じる。目の前に起きている異常なことに、あるいはそれから知った先行きに。取るに足らない犬ですらそうだ。ただ怖れるものが怖れるに足るものとは限らないだけだ。
犬がふいに耳をぴくりと震わせ、ふたたび夜を見上げる。軍曹も顔をあげた。夜空へではなく、そこここへ立つスピーカーへだ。夜の中に警報音が響き始めていた。警報を知らせるものだ。それに重なって声が流れる。スピーカからの声は告げる。無人前哨が敵機らしき反応を捕えた。本基地は増強防空態勢に基づき、防空警戒態勢を発令する、と。
とたんに人垣が動き始める。この基地にある部隊でもっとも人が多いのは航空団で、人垣の姿も航空団のものが少なくない。防空警戒が発令されれば、航空団の人員もそれに備えなければならない。軍曹ら他の部隊の者も所定の位置へ復帰しなければならない。犬は身を起こし何事が起きたのかと落ち着かなげだ。
「落ち着けよ、わんこ。俺たちの出番が来るのはもうすこし先だ」
たとえ航空団の即応小隊が飛び立ち始めようと、当直中隊が即時発進の準備を始めようと、航空装備を持たないチャペック軍曹たちは何をすることも無い。だがこれから起きる戦いの中では必ず役割を果たす。
犬はチャペック軍曹をじっと見詰める。犬にはそんな理屈はわからない。
だが、先までのように地面にぺたりと横たわることはしなかった。
夜の中に犬の吼え声が響く。
基地の夜戦飛行場で、犬は落ち着かずはねながら空を見上げて吠える。
チャペック軍曹が振り返ると、いつもの犬は疑わしげに軍曹を見返す。
「どうしたわんこ。あいつはでか過ぎてお前なんか食っても腹は満ちないぜ」
けれど納まらなかったらしい。犬はふたたび頭上へ向けて吼える。
星空を押し隠して、それはゆっくりゆっくりと空から降りつつある。シュトラール軍の大型輸送飛行船だ。飛行船と言っても、浮力のみに頼って浮いているわけではない。推力と浮力の複合船だ。ちょっとした滑走路くらい覆いつくしてしまうほど巨大な飛行船が降りてくるというのはそれなりの見ものだ。チャペック軍曹や犬だけでなく、結構な人影が野戦飛行場の縁へ集まり、その姿を見上げていた。
初めは遠く、星空の中の染みのようであったものが、近づくに連れて次第に広がり、広がりは大きく膨らみ、伴う護衛機に気づくころには頭上を圧するほどになっていた。飛行船と古風に呼ばれていても、ガス浮力にのみ頼るものではない。推力、揚力、浮力を組み合わせた複合飛行船だ。それがゆえにこの輸送飛行船は膨大な搭載量を誇り、しかも滑走路のほとんど無い飛行場へと降り立つことも出来る。
護衛機を伴いながらゆっくりと降下してきた飛行船は、さながら夜の女王といった風情だ。とはいえ巨大な船体には、付随する欠点がいくつもある。風の影響を受けやすいこともその一つだ。同じように空気抵抗と推力から速度も限られる。なにより巨体は敵から発見されやすい。敵の航空戦力が充実し始めた今、見つかることはすなわち船と搭載物との両方を失いかねない。だからほとんどつねに夜を飛び、護衛機を伴う。今も轟音と共に駆逐機が上空を旋回している。ホルニッセより大型の戦闘機、ザラマンダーだ。旋回しているのは駆逐機のみではない。この基地からも航空団が哨戒機を出している。
飛行船は大きさに合わない軽々しさで揺れながら、夜の中に圧縮機の音を響かせる。噴射の気流をふきだし、じわりと降りてはまた風に振られ、エンジン音を高鳴らせて持ち直す。下部船体からは着陸脚を伸ばしているのにいつ降りるともわからない。待ちきれずに帰ろうかと思ったころ、飛行船はエンジン音を高鳴らせながらふんわりと降り立ち、ついでに砂塵を巻き上げた。
吹き寄せる熱風に犬は跳ねるように駆け逃げかける。けれどそれ以上何事もないことに、拍子抜けしたように足を止める。落ち着かなげに足踏みをし幾度も体をめぐらせて、飛行船を見やるだけだ。気にはなるが自分には関わり無いものだとわかったのだろう。振り返って見つめるチャペック軍曹へは目を向けようとさえしない。犬にはそういうところがある。その気まずげな様子に軍曹は思わず笑ってしまったのだったが。
着陸してしまえば飛行船は倉庫と変わりない。船倉を開き積載物を降ろすだけだ。船体の扉が左右に開き、斜路が引き出される。牽引車が向かってゆくが作業灯はおおっぴらには灯されない。敵の目を引くようなことはできるだけ避けるためだ。
本当の見物はそこからだ。しばらくして作業車がふたたび斜路に姿を見せたとき、見物の人垣から声が上がった。牽引する台車の上には上には大きな影がある。脚を折りたたみ身を低くしていても、装甲戦闘服の二倍ほどの背丈がある。
それを何に例えればいいのか、軍曹には見当もつかない。それぞれが機能を備えた複合体としか言えない。ベースとなる胴体があり、胴体の左右に脚がある。脚は付け根と足首の間に二つの関節を持っているから人の足とは似ても似つかない。それを縮めるようにまげて低く構えている。見ようによってはカエルに見えなくもない。実際、その姿はクレーテ - ヒキガエル - とあだ名される無人歩行戦車に似ている。だが背はクレーテより五割ほど高いし、幅は倍近くになっている。胴体の上に乗せられた砲塔はずっと大型で幅広だ。今は輸送状態にあって、武装は施されておらずアンテナの一部も外されていた。
それの名をケーニヒスクレーテという。もちろん皆がその名を知っていた。皆が我知らず声を上げていたのは、皆がその機能を知っていたからだ。
ケーニヒスクレーテはこれまでにない高度な情報処理能力を備えた人工知能を搭載していた。その能力は少将各の階級を与えられてシュトラール軍のネットワークに組み込まれるほどのものだ。将官は、師団をはじめとした戦略単位の指揮を行う階級だ。
ケーニヒスクレーテの場合、それら部隊の中の直接の指揮官として位置するというよりも、多数存在する戦術部隊を統合誘導するための階級であるとは説明されていた。そのケーニヒスクレーテが、この戦闘団へ前進配置されるということはすなわち、ここに複数の戦闘団が投入されうると判断されているということだ。
飛行船の船倉から降ろされてくるのは、ケーニヒスクレーテとそのパーツ類だけではない。多くの戦闘兵器の予備部品類だ。規格コンテナに収められていて、知らないものが一見しただけではその中身はわからない。けれど無人牽引車に引かれて、続々と降ろされてくる。この基地の一個大隊のナッツロッカーのためのものであり、一個航空団のPKAとホルニッセのためのものであり、さらに一個ロケット砲兵中隊のスフィンクスのためのものだ。さらに飛行船には補充の犬が乗っている。もちろんグローサーフントのことだ。他の部品と同じように規格コンテナに詰め込まれて運び出されるのを待っている。
そして飛行船は補給物資を運び込むためだけにこの基地へ来たのではない。むしろ運び出すためにやってきたのだ。
この基地に据え付けられていた整備機材を搬出する。これらの補給物資はその代償だ。これまで戦闘団は損傷した機材を、基地で自力回復させていた。この基地の位置づけがそもそも機動作戦の拠点であり、長距離作戦行動を行わせるために、多くの整備機材が備えられていた。部隊はこの基地で整備を受け、前方に進出して戦闘を行なう。
この基地が敵から攻撃を受ける恐れは小さかった。これまでの想定では。
チャペック軍曹は犬へと振り返る。犬はすでに地面にぺたりと横になり、落ち着いた様子を見せている。無人車輌がごろごろ走り回ることも、上空を戦闘機が飛び交うことも、この基地ではいつものことだ。
生き物である限り恐れを感じる。目の前に起きている異常なことに、あるいはそれから知った先行きに。取るに足らない犬ですらそうだ。ただ怖れるものが怖れるに足るものとは限らないだけだ。
犬がふいに耳をぴくりと震わせ、ふたたび夜を見上げる。軍曹も顔をあげた。夜空へではなく、そこここへ立つスピーカーへだ。夜の中に警報音が響き始めていた。警報を知らせるものだ。それに重なって声が流れる。スピーカからの声は告げる。無人前哨が敵機らしき反応を捕えた。本基地は増強防空態勢に基づき、防空警戒態勢を発令する、と。
とたんに人垣が動き始める。この基地にある部隊でもっとも人が多いのは航空団で、人垣の姿も航空団のものが少なくない。防空警戒が発令されれば、航空団の人員もそれに備えなければならない。軍曹ら他の部隊の者も所定の位置へ復帰しなければならない。犬は身を起こし何事が起きたのかと落ち着かなげだ。
「落ち着けよ、わんこ。俺たちの出番が来るのはもうすこし先だ」
たとえ航空団の即応小隊が飛び立ち始めようと、当直中隊が即時発進の準備を始めようと、航空装備を持たないチャペック軍曹たちは何をすることも無い。だがこれから起きる戦いの中では必ず役割を果たす。
犬はチャペック軍曹をじっと見詰める。犬にはそんな理屈はわからない。
だが、先までのように地面にぺたりと横たわることはしなかった。