恩師のご著書「思いの中に生きる」より
「先祖供養」について(その1)
先の続き・・・
というのは、私には私のお父さんそしてお母さんがいてくれました。
そのお父さん・お母さんにはまたそれぞれお父さん・お母さんがおられるはずですね。
そのお父さん・お母さんにもまたそれぞれお父さん・お母さんがおられます。
そのようにして、三代、四代、五代、六代、七代、八代・・・
三十代溯りますと十憶のご先祖様(2の30乗=1,073,741,824)、わずか三十代前で十憶を
超えるご先祖様のご縁をいただいているということです。
じゃあ、十憶以上の数え切れないご先祖様になんぼ大きな丼茶碗をもってきましても、そりゃ足りません。
また、どれだけ大きな丼茶碗に御飯を装ってお供えしても、一粒ずつもあたらないのです。
そして、そんなもので成仏はできないのです。
以前に、地獄に八百年も迷うておられる方が出てきました。
その方に、「八百年の間にあなたの子孫の方はあなたにどれほどの経文を供養しましたか。
八百年間、あなたはどれほど経文の供養を受けましたか。
それによって救われましたか」と聞きますと、その霊が言われましたね。
「あれは何もならんのう」。「どうしてですか」と聞きますと、
「意味が難しゅうて訳がわからんわい」お経の意味がわからんとおっしゃった。
だから、いくらお経をあげても何にもならないのです。
また、お茶も聞きました。
「あなたが所望されたら、子孫の方はどれほどのお茶を献じましたか。
お茶によって救われましたか」と言いますと、
「いや、救われない。満たされることができない」とおっしゃった。
それは、いくら供えてもらっても満足できないのです。
その時、「ああ供えてくれたなァ」という一時の心の納得というか、
供えてくれたという思いはあるのですけれども、いつまでたっても満足を得ることはできません。
また供え物についても聞いてみました。
「今日までに、どれほどの供え物を子孫の方はあなたに捧げましたか」。
しかし、それによっても満足は得られなかった。
戒名なんかはけっさくです。
「よき戒名を付けられたでしょう」と聞きますと、「あれは何もなっておらん」。
「どうしてですか」と聞いたら、「わしが死んだ後のこと、わしゃ知らん」
こう言われました。
だから、ご先祖様にお茶を供え、炊きたての御飯を供えるのは、「ご先祖様の
お陰さまで、こうして今日も熱いお米の御飯を頂戴できます」と言って、
感謝の気持ちを形として表したものです。
それが本当のお供えです。
そうでなくて、「ご先祖様に食べて下さい」と言って供えたらいけませんよ。
ご先祖様も難儀されます。
取り合いして、「俺の飯もうないわ」必ずそうなると思います。
お茶もそうです。
しかし、極楽へ行くと「御飯、お茶」と言えばすぐに出てきて、何も不自由しないのです。
本当の帰るべき世界・正しい教えというものを知っておりますと、そんな供物はいりません。
~ 感謝・合掌 ~