思いの中に生きる

奇蹟の人「長尾弘」先生の法話

思いの中に生きる

2015-02-23 00:26:34 | 日記

      恩師のご著書「思いの中に生きる」より


        「先祖供養」について(その1)

先の続き・・・

      「戒名」について

今日はお坊さんはお見えになっておられませんね。
お坊さんの営業妨害になったら叱られますので。
夕べですが、「戒名」についてテレビで言っていましたね。
お寺さんが戒名いくら、お布施いくらと決めるのは、宗教上ちょっとおかしい。
だから、宗教法人への税金を考えないといかんということがニュースに出ていましたね。
まるで商売。
或る方は言われました。
お寺さんに行きますとメニューみなたいに、「この戒名やったらいくら、
これやったらいくら、どれにしますか」言うて、見せてくれはるそうですね。
「戒名のメニュー」です。

しかし、いくらいい戒名をつけても、それは亡くなった方には何の関係もないそうです。
わからないからです。
その証拠に、あの世の霊の方と数え切れないほどお会いさせてもらってお救いさせていただきましたが、
そういう方は皆、戒名は何にもならんとおっしゃいます。
そして、呼び出す場合に戒名を呼んだら出てきません。
自分のこととわからないんですね。
俗名を呼んだらすぐに出てきます。
「おい、はっつぁん」と言ったらすぐ出てきます。
「おい、熊さん」と呼んだらすぐ出てきます。
常に一番親しい自分の呼び名を覚えているんですね。
だから、戒名なんか呼んでも出てこられません。
そのようになっております。


             ~ 感謝・合掌 ~



思いの中に生きる

2015-02-16 01:09:10 | 日記

        恩師のご著書「思いの中に生きる」より


    「先祖供養」について(その1)

先の続き・・・

というのは、私には私のお父さんそしてお母さんがいてくれました。
そのお父さん・お母さんにはまたそれぞれお父さん・お母さんがおられるはずですね。
そのお父さん・お母さんにもまたそれぞれお父さん・お母さんがおられます。
そのようにして、三代、四代、五代、六代、七代、八代・・・
三十代溯りますと十憶のご先祖様(2の30乗=1,073,741,824)、わずか三十代前で十憶を
超えるご先祖様のご縁をいただいているということです。
じゃあ、十憶以上の数え切れないご先祖様になんぼ大きな丼茶碗をもってきましても、そりゃ足りません。
また、どれだけ大きな丼茶碗に御飯を装ってお供えしても、一粒ずつもあたらないのです。
そして、そんなもので成仏はできないのです。

以前に、地獄に八百年も迷うておられる方が出てきました。
その方に、「八百年の間にあなたの子孫の方はあなたにどれほどの経文を供養しましたか。
八百年間、あなたはどれほど経文の供養を受けましたか。
それによって救われましたか」と聞きますと、その霊が言われましたね。
「あれは何もならんのう」。「どうしてですか」と聞きますと、
「意味が難しゅうて訳がわからんわい」お経の意味がわからんとおっしゃった。
だから、いくらお経をあげても何にもならないのです。
また、お茶も聞きました。
「あなたが所望されたら、子孫の方はどれほどのお茶を献じましたか。
お茶によって救われましたか」と言いますと、
「いや、救われない。満たされることができない」とおっしゃった。
それは、いくら供えてもらっても満足できないのです。

その時、「ああ供えてくれたなァ」という一時の心の納得というか、
供えてくれたという思いはあるのですけれども、いつまでたっても満足を得ることはできません。
また供え物についても聞いてみました。
「今日までに、どれほどの供え物を子孫の方はあなたに捧げましたか」。
しかし、それによっても満足は得られなかった。
戒名なんかはけっさくです。
「よき戒名を付けられたでしょう」と聞きますと、「あれは何もなっておらん」。
「どうしてですか」と聞いたら、「わしが死んだ後のこと、わしゃ知らん」
こう言われました。

だから、ご先祖様にお茶を供え、炊きたての御飯を供えるのは、「ご先祖様の
お陰さまで、こうして今日も熱いお米の御飯を頂戴できます」と言って、
感謝の気持ちを形として表したものです。
それが本当のお供えです。
そうでなくて、「ご先祖様に食べて下さい」と言って供えたらいけませんよ。
ご先祖様も難儀されます。
取り合いして、「俺の飯もうないわ」必ずそうなると思います。
お茶もそうです。
しかし、極楽へ行くと「御飯、お茶」と言えばすぐに出てきて、何も不自由しないのです。
本当の帰るべき世界・正しい教えというものを知っておりますと、そんな供物はいりません。


                ~ 感謝・合掌 ~




思いの中に生きる

2015-02-15 02:31:18 | 日記

          恩師のご著書「思いの中に生きる」より


            「先祖供養」について(その1)

ある宗教はご先祖様を大事にすることを強調しています。
これはいいことですね。
ところが、仏壇の中へご先祖様のとまっていただく位牌、先祖様のとまり木を
作らなければならないといっています。
これはご先祖供養の本当の意味が理解されていないのです。
もし、私たちがこの世を去りまして、仏壇の中の位牌のような所へとまってしまいますと、
成仏はできません。
とまり木、そんな所へとまらされたら大変です。
私たちは素晴らしい光輝く天上の世界、光明燦然と輝く喜びと安らぎと調和に満たされた世界へ
帰ってこそ本当の成仏ができます。
それはこの三次元の世界とは全く質の違う世界ですね。

私たちはその世界からこの地上の世界へ自分の魂の修行に出させてもらっています。
ですから、実践といいましても、ご先祖供養というと、拝みなさい、ものを供えなさい、
護摩を焚きなさい、あるいはいい戒名を付けなさいということになりますが、
これらはあくまでも供養の手段でしかないのです。
では、目的は何かです。
極楽の世界へ帰ってもらうことこそ本当の目的のはずですね。
この世界に思いを残しますと、その思いによって自分の心がその場所にとどまります。
私は死んだら仏壇の中に祀ってもらう、あるいは、このお墓の中に入れてもらうと思っておりますと、
必ずその場所に行ってしまいます。
その場所は極楽とはほど遠い場所です。
極楽は素晴らしい世界です。

その極楽へ帰っていただくことが、私たちが先祖供養させていただく究極の目的のはずですね。
また、「慰霊(霊を慰める)」あるいは「鎮魂(魂を鎮める)」
「除霊」とかいろいろありますけれども、
「救霊(霊を救い上げる)」という言葉はあまり聞きません。
どの宗教もあまり説いておられませんね。
「救霊」すなわち霊を救い上げてしまうのが本当の供養の目的です。
それを知らなかったから、供えなさい、祀りなさい、拝みなさい、ということになるのです。
ひどい所になりますと、あるお宅へ寄せていただきましたら、お仏壇に、
大きなお仏壇ですけど、湯呑みが四十個も供えてあるんですね。
それにお茶を入れて、毎日お茶湯されています。
また、あるお宅へ行きますと、大きな丼茶碗に何杯もお茶を供えてあるんです。
丼茶碗です。
「これ、何しているんですか」と聞きますと、
「これ、ご先祖さんにお茶を飲んでもろてますんや」とのこと。
なるほど大きな丼茶碗あるいは四十個の湯呑みをずーっと並べまして、
お茶をなみなみとついで供えていますけれども、
私たちのご先祖様はそんなに少なくないんです。


            ~ 感謝・合掌 ~





思いの中に生きる

2015-02-14 01:17:21 | 日記

      恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          「結構の源やん」

思い替えの方法で一番参考になるのが、この『結構の源やん』の話しです。
今の東大阪に、名前は「源やん」、渾名は「結構」という方がおられたそうです。
明治の初期だそうです。
この方はどんなことが起きても絶対に不足を言われなかった。
何が起きても「アア、結構やないか、結構やないか」とおっしゃったそうです。
だから、「結構屋さん」とか「結構の源やん」という名前です。

で、ある年、毎日毎日雨が降り続いたそうです。
一カ月ほども降ったそうです。
その時代、「土方殺すに刃物は要らぬ。雨の三日も降ればよい」といって、
三日間仕事ができなければ、もう日雇いの人は食べられないような状態だったのです。
源やんの友だちの人たちが、「さすがにあの結構の源やんもこれだけ雨が降ったら、
もう結構ってよう言わんやろなァ。

一回何て言うか聞きに行こうか」と言って、源やんの家に行ったそうです。
「源やん居てるかーッ」と言って行ったら、「ハーイ」と出て来られたそうです。
「かなわんなァ、こんだけ降ったら」と言いますと、その源やんが
「ああ結構やないか」とおっしゃったそうです。

「結構、結構やないか」というのは、「有難いやないか」ということです。
「ああ結構やないか」。「これだけ雨が降るのに何が結構や」と聞きますと、
「お前らよう考えてみい。
これだけ毎日毎日降る雨を、もし神さんが天で受けてくれはって、
そしていっぱいたまった三十日分をバーッと一遍にぶっちゃけてくれはったら、
家も畑も田圃もみな流れてしまう。

こんなに毎日しとしとと分けてよう降らしてくれはったもんや」と言って喜ばれたそうです。
世間の人は皆「かなわんなあ、かなわんなあ」と言っているのに、
そのお方はさすがに「何と結構やなァ」と言われたといいます。
やがて、その方は東大阪一番の結構な人になられたそうです。
ものすごい結構な結構な、まあ大金持ちになられたそうです。
大阪で有名な話です。


            ~ 感謝・合掌 ~



思いの中に生きる

2015-02-13 01:27:31 | 日記

      恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          「感謝する」とは

先の続き・・・

腹立つことも人間の心の苦しみですね。
いつもお話しします『心の砂袋』、私たちの心の砂袋、その砂袋の材料です。
怒りとか、妬みとか、そしりとか、愚痴とか、あるいは恨んだり、憎んだり、
いらぬ取越し苦労したり、また不安とか恐怖。不安・恐怖はあまり楽しくないでしょう。
あれは砂袋の材料です。

そして、そういうものを心の中へいっぱい詰めてしまいますと、心が重くなります。
ところが感謝しておりますと、そういう砂が入ってこないのです、自分の中へ。
感謝で心を満たしている限り、二つを同時に思えませんから、
ただ感謝だけですから、他のものが入れないのです。
ということは、自分の心が曇る量が少なくなるのです。
「有難い」「結構や」「何と幸せや」、そういう思いを常に持ち続けたら
他の想念が入れませんから、
その人の感謝を続けた時間だけ幸せな時間が与えられるということですね。

そして、心が「結構や、結構や、ああ結構やないか」といって結構に満たされておりますと、
その人の感謝を続けた時間だけ幸せな時間が与えられるということですね。
そして、心が「結構や、結構や、ああ結構やないか」といって結構に満たされておりますと、
こんどは肉体も結構になっていくのです。
肉体が結構になるということは健康になることです。
病気が消えていきます。

何故かと言いますと、「肉体の支配者は己の意識なり」と説いていただいています。
自分の肉体を支配するのは、自分の心だということですね。
肉体の支配者は己の心。
その心が「結構や、結構や」と言っておりますと、支配者が「結構や」と言っているから、
その家来である肉体も結構になっていくのです。
また同時に、今度は環境が結構になります。
環境が結構になるということは、商売は繁盛する、家の中はうまくいく、
そして人からかわいがってもらえる等です。

感謝ということはものすごい功徳があるということですね。
この功徳を説きますと、「ア、そりゃ現世利益や」と、言われるかも知れませんが、
まあ何と言われようと構いません。
要は幸せになることです。
幸せになれない信仰、幸せになれない教えでしたらしない方がましですね。
そんな簡単なところに幸せになる「法」がちゃんと与えられていたのです。
それに気付くことができなかった。

この「法」とは、そういう真理、隠された真理が現象に現れるのです。
ですから、思いはこのように持たなくてはならない。
常に他を生かす、あるいは喜び・感謝の心を持つこと。
これを今様の言い方をしますと、プラス・マイナス、プラス思考あるいはマイナス思考。
常に心はプラス思考、プラスの考えの方に向けておけばいいのですね。
マイナスの方に向けますと、やがてすべてがマイナスになってしまいます。


             ~ 感謝・合掌 ~