複雑な気分。
被爆者や遺族の方々の感情のことは置く前提で書きます。置いてからでないとこういうことは書けないから。
久間さんが公演で言いたかったことは論理的には理解できます。そういう考え方を真っ向から完全否定しきるには、神学論争にするしか手がないと私には思われてしまいます。
神学論争というのは言葉の使い方が違うかも。要は論理とか合理性とかは顧慮せず、全く別の概念、哲学とか倫理とか理念とかの面からでないと反論が難しいと思える、ということです。
考え方によってはそれすら難しいかも。戦争終結を早めたと考えることもできるわけだから。
広島や長崎の訴え(敢えて「日本の訴え」とは書きません)、すなわち核廃絶(=私の理解では必ずしもアメリカ謝罪せよではないです)ですが、それが人々に認められるには、今回のような客観的な歴史の分析の仕方を超えたところで共感を得なければならない。自業自得論だってあります。じゃ本当にそうするにはどうしたらいいのかと。
核兵器絶対悪。ノーモアヒロシマ。
私にとっては、それがとても難しいというか、できるのかそんなこと?と感じて絶望的な気分になってしまうような出来事でした。だから複雑なんです...
もっとも、いろんな意見があるのが正常なんだと思えば、そんなに複雑になることはないのかも知れません。
けれども、大勢が、「時と場合によっては核兵器使うのもアリだよね?」となってしまうことはやっぱり恐ろしい。
たぶん私には身近にいる価値観が違う人ひとりにすら、この訴えを心に届かせることはきっとできないでしょう。例えば、体験してはいないから。けど、これから先、体験したことがない人ばかりの世の中に確実になるわけですよね。
心に届く訴えというのはどうあるべきなんでしょうか。考えさせられます。