私にとってキャンプでの焚き火と言うものは特別なものである。暖を取るだとか、料理を作るだとか、灯りを得るだとか、色々あるのだろうがそれだけではない様に思う。火は古来から生活であり営みであり希望でもあった。火は全てを与える恵みの存在であり、そして全てを奪う存在であり全てを焼き尽くすものでもある。一筋の炎は乏しく頼りないものであるが、まとまった炎になればそれは灯りとなり暖を取る手段にもなる。だが、人間の必要とする範疇を一度超えてしまえばそれは全てを飲み込む業火となり手の付けられない存在となる。森は焼かれ人や家までも焼き尽くす。
人間は古来より火を操って来た。人の繁栄は火と共にあると言っても過言ではない。火を扱う事によって人間は進化を遂げてきた。火はそれ程人間の進化にとって大切な物であったのだ。火を起こす、それは何か一つの儀式の様でもある。
私の中では焚き火は文学にも似た物があって独特の世界観と個人的主観があり、それ以外そこには他に何もない。たった一つの情景が織り成す壮大な物語。しかし、だからと言って別に山や火と言うものが理屈っぽい訳ではない。寧ろそこに理屈などが入り込む余地はこれっぽっちもない。だが、目の前で見たもの聞いた音の全てに一つ一つ物語がある。例えて言うなら傍の雑木林がガサガサと音を立てる、その音の正体は一体何なのか。それを突き詰めていくとそれはもう、一つの物語なのだ。私が森で一人、キャンプをしているのだが、見慣れない人間の姿が気になるのかそこには鹿の親子が居てこちらの様子を伺っている、焚き火の炎の光と音をじっと見つめる鹿の親子。そんな時、つい好奇心が勝り歩き出してしまった子鹿が物音を立ててしまったのかも知れない。そんなありとあらゆる事柄を物語にしてしまうのも良い。キャンプでの物語が広がる可能性はそれこそ無限なのだ。一人、焚き火を眺めながら想像する事がソロキャンプの醍醐味であろうと私は思う。本来、ソロキャンプと言うものは、当然一人で行うものであるから何となく感じる物足りなさと儚さ。寂しさにも似た切なさ。野生の中に感じる不便さ。それを敢えて楽しむ。
山は不思議なのだ。昼は穏やかな風と光。そこはまるで私だけの世界だ。そこに邪魔者はいない。そして夜はまるで私をまるごと吸い込んでしまいそうな闇の空気がそこにはある。だから私はその、私を吸い込まんとする闇を打ち消す様に焚き火の火で森を照らす。ゆっくりゆっくり流れる時間を感じながら、私はそのたった一つの焚き火の灯りを神聖な炎の様に見つめる。まるで森の闇を寄せ付けぬ様に。
深い真っ暗闇の中でパチパチと薪が爆ぜる音。辺りゆらゆらとを照らすオレンジ色の灯り。黒く赤く、そして白く変化していく木炭。それをぼんやり眺める。熱いコーヒーを啜りながら俗世の事は何にも考えない。夢想の境地。他に物語は何にもいらない。ただ時間だけが流れる、いつまでも。やがて闇の色が更に濃くなり焚き火の熾も地面に落ちる頃、私はテントの中に入り、柔らかな寝袋に包まれる。そしてランタンの灯を少し落として目を閉じる。やがて私は森の闇よりも更に深い深い眠りに落ちていく。この非日常に近い感覚が人々の本来の日常なのである。
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