「あそこに行ってみようよ」って、誰かが言ったのを覚えてる。あれは確か、真夏の昼下がり。じっとりとした湿気が体にまとわりついて、空気は重くて、歩くだけで汗が噴き出すような日だった。私はカフェの一番奥の席に座って、アイスコーヒーのグラスを握りしめながら、「そこ?」とだけ返した。
「あそこ」とか、「そこ」とかって、曖昧な言葉だけど、どこかに心が惹かれるのが不思議だ。実際の場所がどこかは知らなくても、その音の響きや、言葉が持つ感触に「行きたい」と思わされる。あの日も、私は特に意味を考えずに、「あそこ」に足を向けてしまったのだと思う。
「あそこ」はいつだって、具体的な場所ではない。あるいは、私が勝手にそう思い込んでいるだけかもしれないけど。「あっち」とか「こっち」とかもそうだよね。言ってる本人が分かっているようで、実は何も説明していない。けれど、その曖昧さが心地いい。何かを期待している自分がいて、その期待は、実際にその場所がどこであれ、それを超えてしまうことがある。
さて、あの日の「あそこ」。あれは、どこだったのか?
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カフェから出た私は、友達に誘われるまま、あっちへ、こっちへと歩き続けた。特に行き先があるわけじゃないけれど、話しながらだとそれが気にならなくなるのは不思議だ。会話の中に流れるリズムが、足取りを軽くしてくれる。「ねえ、こっちでいいんだよね?」って何度か確認し合ったけれど、どっちでも良かったんだと思う。目的地なんて最初から無かったんだから。
それでも、私たちは「あそこ」にたどり着いた。振り返ると、それがどこかももう覚えていない。小さな公園のベンチだったのか、古びた駅のホームだったのか、あるいは誰かの家のリビングだったのかもしれない。でも、そんなことはどうでもよかった。ただ、その瞬間に「あそこ」と呼べる場所にいたことが、今でも妙に心に残っている。
「こっちに来て!」と呼ばれると、人はなぜかついて行ってしまう。「あっち」と指さされれば、その方向を向かってしまう。まるで言葉が持つ誘導力に、私たちが自然と従ってしまうみたいに。思えば、人生なんてそんなものかもしれない。あれこれ考えながら「ここ」だと思っていた場所が、いつの間にか「あそこ」になっていたりするんだから。
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「あそこ」とは何だろう?振り返れば、いつも私の生活には「あそこ」があった気がする。ネットでエッセイを書き始めたのも、誰かが「そこ、どう?」と勧めてくれたからだった。それまで文章を書くことなんて、自分にできると思ってなかった。でも、その一言で、私は「そこ」に飛び込んだ。結果として、エッセイが売れて、「1人だってできるもん」が世に出たわけだけど、あの時の私は「あそこ」への期待だけで動いていた。
そう、期待。それが「あそこ」には詰まっている。「あそこに行けば、何かが変わるかもしれない」「そこにたどり着けば、もっと自分が成長できるかもしれない」。そうやって期待して、実際に行ってみた場所がどうだったかは、案外どうでもいい。むしろ、「あそこ」に行く過程や、その瞬間に感じた何かが、その場所以上の意味を持つことが多い。
私が初めて一人暮らしを始めたのも、そんな「あそこ」だった。家賃2万円のマンションを見つけて、「ここで新しい生活が始まる」とワクワクした。それが28歳の「売れっ子エッセイスト」の姿に重なって、理想的な自分を描いていた。けれど実際は、ガスがつかなくて、最初の夜は懐中電灯の明かりで食事をする羽目になったんだけど。
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そして、今の私にとっての「あそこ」。それは、また違うかもしれない。最近の私は、介護の仕事に昇進という形でちょっとした変化が訪れている。二度目の昇進なんて、予想もしなかったけれど、「あそこ」にたどり着いた感覚があるのは確かだ。
でも、それは「そこ」じゃなくて「こっち」なのかもしれない。もしかしたら、「あっち」にまだ何かがあるんじゃないかという期待も、どこかにある。だけど、今は少し疲れているから、「こっち」に腰を落ち着けておきたい。介護の仕事をしながら、時々カフェでアイスコーヒーを飲んで、「あそこ」について考える。それで十分だと思えるようになったのは、年齢のせいだろうか?
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「あそこ」に行ってみたい。まだ見ぬ「あそこ」に対する憧れや期待は、きっと誰にでもあるものだと思う。けれど、ふと立ち止まってみると、今いる「ここ」だって悪くないんだよね。「あれ」と思っていたことが、実は大切だったりするのだから。
結局、「あそこ」に行っても、そこで見つけるのは、自分自身だったりするのかもしれない。「あそこ」は、いつも私の中にあって、どこに行こうが変わらない何か。だから、また「あっち」に行く時が来たら、きっと私は何も迷わずに足を向けるんだろうと思う。
その時、そこに何が待っているかは分からないけれど。それでも、私は「あそこ」に向かって歩き出す。
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