親父は貧しい農家の長男として生まれた。
姉が2人、妹が3人、弟が1人。
ほぼ同じ環境で生まれた貧乏時代と苦学を口にする同年代の政治板がいるが、親父に言わせると「あいつは貧乏じゃねーよ。高校に行ってるじゃないか。あの時代の同年代は、中学を卒業すると家業を手伝うか、寝台列車に乗って内地に集団就職していた」とよく言っていた。
小学生の頃は、雨が降っても、子供用の長靴などはなく、一足だけあった大人用の長靴を一番最初に家を出る人が履けたと言う。
集団就職で内地の工場で数年間働いた後、親父の母、つまり私の祖母が体調を崩したのをきっかけに地元に戻った親父は大工になった。
祖父は農家を続けていたが、祖母の治療費を捻出するために畑を売り払ったと言う。
当時には高額医療費の補助は無かったのか?と思わずにはいられないのだが、その地は今でも田舎というか、人が住んでいるかもわからない場所なので二足三文だったのかもしれない。
祖母は胃癌で亡くなった。
祖父は農家を廃業した。
その後、私の母と知り合い結婚した。
母はヤクザだった元夫の間に娘がいた。
子連れ再婚である。
23で5歳の娘の義父になった。
自分ならそんな選択はしないと思うが、当時の父がどういう心境で結婚したのかは知らない。
聞いたこともない。
子供の頃の親父の印象は頑固で気難しい人だった。
自分はあんまり殴られた記憶は無いが、姉と弟はよく殴られていた。
中学生の頃から家出を繰り返していた姉が何度目かの家出で警察に保護され家に戻ってきたときにアフロだった髪型が、翌朝起きて居間に降りるとパンチパーマになり、顔中アザだらけで恥ずかしそうに笑う姉を見た時は思わず自分も笑ってしまった。
そんな父の若い時の話を母親から聞いたことがある。
中学生の頃は合気道を習っていたらしい。
街で警察も近づかない片腕のチンピラと喧嘩になり、残った腕の骨を折った。
と言う話を聞いたことがあった。
母曰く、たんぱらだったとのことである。
食事中はテレビを見ることは許されず、黙って食事をしなければならなかった。
箸の持ち方が悪いと、いきなり自分の箸で手を叩かれた事があった。
それはマナーとしてどうなんだと子供心に思ったが、怖いので言い返すことはなかった。
そんなんで、中学に上がった頃から食事を一緒にするのは嫌でいつからか家族はバラバラに食事をする様になった。
自分が高校に行けなかった事に思う所があったのか、私が高校に進学し、卒業するまでが一番険悪な期間だった。
高校卒業後の進路として専門学校への進学を希望したが「蛙の子は蛙だ。どこに進学させる様な金があるんだ」と言われて、私の就職希望と言う進路が決まった。
その時の恨みと絶望は何十年も続くこととなる。
今年52になる私が父の日に何も贈ったことがないのはそれが理由である。
与えてくれないなら、何も返さない。
そう17の時に誓ったのである。
10年前、悪性リンパ腫になった父は死を覚悟したらしい。
「俺はもうダメだ。あとは何とかやってくれ」
病室に見舞いに行くと親父はそう言った。
母の事、姉の事、その息子の事、弟の事。
全て私にぶん投げて逝かれるのは勘弁してくれと思った。
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