パピとママ映画のblog

最新劇場公開映画の鑑賞のレビューを中心に、DVD、WOWOWの映画の感想などネタバレ有りで記録しています。

野のなななのか ★★★.5

2014年06月07日 | な行の映画
『その日のまえに』『この空の花 長岡花火物語』などの大林宣彦が、北海道芦別市を舞台にしたドラマ。92歳で亡くなった家長の葬儀で顔をそろえた一族が、ある女性の来訪を契機に家長の知られざる過去を知る姿を描く。ベテランの品川徹、『赤い月』などの常盤貴子をはじめ、安達祐実、村田雄浩、松重豊ら実力派が結集。日本人の生き方を見つめたストーリーに加え、大林監督ならではのノスタルジックなタッチにも注目。
あらすじ:北海道芦別市で古物商を経営する元病院長の鈴木光男(品川徹)が、3月11日の14時46分に逝去。92年に及ぶ人生の幕を閉じる。告別式と葬儀の準備をするため、鈴木家の親族が故郷である芦別に集結。大学教授の冬樹(村田雄浩)、原発職員の春彦(松重豊)、看護師のカンナ(寺島咲)ら、光男の長男、次男の子どもたちが久々の対面を果たしていると、清水信子(常盤貴子)という女が訪ねてくる。やがて、彼女を通して1945年に起きた旧ソ連の樺太侵攻で光男が体験した出来事を彼らは知る。

<感想>ある男の戦争体験を通して、現代の日本再生の正しき道を示そうとする大林宣彦監督による人間ドラマである。芦別という古里の過去と現在を語る物語でもあるのだ。芦別の町を訪れた少女は、観光案内よろしく炭鉱跡を初めとする観光地を紹介してゆき、それだけならごく当たり前の観光映画とも見えるのだが。
炭鉱の全盛期のように機関車が走り抜ける、ですが同時に炭鉱跡での戦争時の戦死者の遺骨発掘作業も描かれているのだ。現在の中には過去が埋まっており、すべての過去は同時に起こっているというわけ。とにもかくにも、時制の混乱きわまりないのだ。

92歳で死ぬ老人の物語で、樺太での敗戦記を伝える役割だけど、何故か「大震災の3.11」の14時46分で死んでいるのだ。それに爺ちゃんの時計も14時46分で止まっている。この映画の樺太と東日本の大震災は無縁だが、総論としては繋がっているようです。更には、広島、長崎、ビキニ環礁と福島原発とも結びついてゆくのだから。これはそういう、エッセイ・ムービーなのだ。
ですが、過去と現在は同時に起きている。ここには多くの現在が存在する。北海道芦別市で、「星降る文化堂」を経営する元医師、鈴木光男の死から物語が始まる。同居していた孫娘のカンナ。その死を知って訪れるかつて病院で働いていた信子らの前で、光男の過去が明かされていくのだが、その語りは極めて奇妙なものであった。

自制は自由自在に、現在といくつもの過去、第二次世界大戦から現在に至るまでの幾つもの時代を飛び回る。視点人物はくるくると目まぐるしく変わり、信子や光男が一人称でナレーションをする。死の床の光男はその世話をするカンナと会話を交わす。あるいは、初七日の法要の席でかつての友人と語り明かす。死者が回想をしているわけではないし、観客に向かってナレーションとして語られるわけでもないのだ。
時空間もきわめて曖昧な中で、あたかも死者と生者が同じ世界にいるかのように描かれる。やがて語られる光男の終戦時の出来事。青年期を演じる光男とその恋人、いや想い人と言うべきか、綾野というヒロインが画面に並び、一礼をする。観客に向かって芝居は始まりを告げると、死後の光男がナレーターとして事件を語るのである。光男は誰に向かって回想をしているのだろう。そしてこの事件はいったい何時、起こっているのか?・・・それは特別な時間である。

爺ちゃんの恋物語の中で、綾野さんという美人の女性が出て来て、大学の同級生と綾野を同時に好きになり、結局、1945年に爺ちゃんが樺太に行った時に、日本は8月15日に終戦を迎えたのに、北海道では9月5日まで続いていたなんて、知らなかった。樺太を領土とするために旧ソ連軍が攻撃してきて、綾野を旧ソ連軍の兵士が暴行するところを鈴木光男が見つけて、その兵士を殺して綾野も殺してくれと懇願するので殺してしまったというのだが、その綾野に似た看護婦の清水信子が光男が描いていた裸婦像のモデルとなっているようだ。

綾野を演じた安達祐実の美しさと、常盤貴子の美しさが実によく似ているシーンが出て来る。光男は綾野の裸婦像を描きたかったのだが、死んでしまってから現れた信子に、綾野の姿を見つけて重ねて描いているようにもとれた。それと、綾野と信子が好きだった中原中也 の 「山羊の歌」の本と、 更にその中の 「夏の日の歌』」を巧みに引用しているのが印象的でした。

大林映画と言えば、音楽も重要です。最初から最後まで楽団がどんちゃかどんちゃかと、いかにも主人公の一生を祝っているような、49日までは冥途に行かないというから、せめてこの世に居る間でも楽団で賑やかに送ろうというのだろうか。
それに台詞が棒読みのように聞こえ、あれはそういう演出をわざとされているのか、そのおかげで普通よりも早いテンポの台詞でもよく聞き取れました。
気になったのが映像の中で、真っ赤な色彩が目立っているのだ。まずは、電気スタンド、光男が描いた裸婦像の身体に血のような線が、それに風景の道が赤く描かれ、大学教授の冬樹の靴下の赤、曾孫の赤いコートなど、たくさんの赤い色が目立っていた。それは想い人が流した赤い血の色かもしれない。

92歳で死んだお祖父ちゃんと、その下は、その孫の世代と曾孫まで出て来るのだけど、その間のお祖父ちゃんの息子、すなわち孫たちの親は誰も出てこないのだ。何故だかみんな、物語上は都合よく死んでいる。ちょうどそこの時代が団塊の世代に当たるわけで、戦争を語れない世代というわけなのだ。だからなのか、戦争を語るこの映画には出番がないということか。
なななのかとは、「四十九日」のことで、まだ現世で彷徨っていた死者たちが「なななのか」を終えると、決然とその行く先を定める日のことなのだ。しかしだ、亡くなった爺ちゃんだって、冒頭で死んじゃって、以降は登場しないのだろうに。死んだ爺ちゃんだって喋りたいだろうと、結果は出ずっぱりの主演という語り部になっていた。いやはや、長時間の上映に疲れも吹っ飛ぶような、凄まじい映画でした。
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