クラインの壺と呼ばれている壺があります。
imidasによると、クラインの壺とは、「円筒の一方の末端を自身の内部に通して他方の末端につなげた、内部と外部の区別がつかない壺」と説明があります。(https://imidas.jp/genre/detail/K-127-0090.html)
壺とか箱とか伏せられたカップとか、中に何かが入っているか入っていないかという推測問題は、カップ&ポールという古くから伝わるマジックなどに見られるよう、外側から見た視覚のみを頼りに判断するのが時に難しい問題であると言えると思いますが、クラインの壺が特殊なのは、内部と外部の区別がつかないところにあります。空クラインの壺なのか、そうじゃないのか・・・そういう質問自体繰り返すことが不毛なのか・・・
哲学者デカルトが考案したとされるXY座標は二次元なので、そういった空か空じゃないか論争に明け暮れる必要もなさそうですが、少なくともデカルトの居た時代には未だクラインの壺が発明されていなかったことを考えると、ドイツの数学者フェリックス・クラインが発明したクラインの壺とは、他者によって立てられた答えの無いかも知れない質問の答えを探し続けるより、時には視点を変えて物事を捉え直す必要があるのでないかと問いかけられているような気がします。
現代を生きる私達にとって、先人が愛し残してくれた智恵とか思いとか、そういった人類共通のかけがえのない財産とも言えるような学びを継承し、将来の世代に引き継いでいことが、共生社会を生きる私達にとって大切なのことなのかも知れません。
赤塚不二夫公認サイト「これでいいのだ」には、ギャグ漫画として知られる『天才バカボン』に登場するバカボンのパパの通っていたとされる「バカ田大学」の入学試験での志望動機を問う質問が掲載されています。
子供の頃よくアニメを見ていましたが、アニメも漫画も最後まで追って見ていなかったので、随分歳をとってから『天才バカボン』の複数ある最終話を知りました。驚かされたのは、この漫画に登場するバカボン・ハジメちゃん兄弟に訪れる悲劇なのですが、最終話を知ってしまうと、先の「バカ田大学」の入学試験での志望動機を問う質問が、また違った感覚で捉えられるようになるというのは、何とも不思議なものに感じられます。
https://www.koredeiinoda.net/manga/bakadai_test.html
幸い自分自身は虐待家族の子として産まれて来なかったため分かるのですが、「親父の背中」という言葉の持つイメージと「お前」という対立をまねきかねない(confrontationalな)言葉の持つイメージほど、乖離した父性(paternity)はないと思います。
第三次産業に分類されるserviceという英語の単語は、ラテン語のservitium(奴隷の状態)という単語に由来しているそうですが、南北戦争でのEmancipation(奴隷解放宣言)を経たアメリカでは、serviceに奴隷という認識などは持っておらず、逆にサービス(を評価してそのサービス)にtip(チップ)を渡すという習慣が根付いています。tipを渡したから或いはtipを受け取ったから何方かが奴隷であるとか奴隷にならなければならないとかいう事はなく、それがキッカケでrevolt(反逆)が起きるという必然性もありません。日本人には馴染みの薄いtip文化ですが、アメリカなどに旅行する機会があれば、そういった文化の違いなどに触れるのも良い経験になるのかも知れません。