クラインの壺と呼ばれている壺があります。
imidasによると、クラインの壺とは、「円筒の一方の末端を自身の内部に通して他方の末端につなげた、内部と外部の区別がつかない壺」と説明があります。(https://imidas.jp/genre/detail/K-127-0090.html)
壺とか箱とか伏せられたカップとか、中に何かが入っているか入っていないかという推測問題は、カップ&ポールという古くから伝わるマジックなどに見られるよう、外側から見た視覚のみを頼りに判断するのが時に難しい問題であると言えると思いますが、クラインの壺が特殊なのは、内部と外部の区別がつかないところにあります。空クラインの壺なのか、そうじゃないのか・・・そういう質問自体繰り返すことが不毛なのか・・・
哲学者デカルトが考案したとされるXY座標は二次元なので、そういった空か空じゃないか論争に明け暮れる必要もなさそうですが、少なくともデカルトの居た時代には未だクラインの壺が発明されていなかったことを考えると、ドイツの数学者フェリックス・クラインが発明したクラインの壺とは、他者によって立てられた答えの無いかも知れない質問の答えを探し続けるより、時には視点を変えて物事を捉え直す必要があるのでないかと問いかけられているような気がします。
現代を生きる私達にとって、先人が愛し残してくれた智恵とか思いとか、そういった人類共通のかけがえのない財産とも言えるような学びを継承し、将来の世代に引き継いでいことが、共生社会を生きる私達にとって大切なのことなのかも知れません。