藍蔭鼎
(日本語:らんいんてい 台湾語:ナウムティン 英語:ラン・インディン)
1903年、日本統治時代の台湾宜蘭市羅東で生まれた。
頭のてっぺんに丸い凹面のあざが有り父親は彼を蔭鼎と名付けた。
父親は彼が医者になることを望んでいたが母親は絵を描くことも認め父親不在時に絵を描かせた。
1907年~16年まで 石川欽一郎は台湾で陸軍通訳官として勤務、兼務で美術を教え各地を巡り人材を発掘した。
育てた弟子は倪蒋懐、黄土水、陳澄波、陳英聲、郭柏川、李梅樹、李澤藩、李石樵、
●藍蔭鼎など。
1914年、羅東公立学校高等教育科卒業
1920年、羅東公立学校の代用教員となり美術教師を務めた。
1921年、結婚
1923年、来日し油彩画と水彩画を学んだ。
1924年~32年まで 石川欽一郎は再び台湾に渡り台北師範学校で美術教師を務めた。
石川は羅東校で藍の作品に触れ彼を弟子として受け入れ台北で外国絵画を研究させた。
初期の作風は師匠石川の影響を強く受けチャイナドレスを着た女性などノスタルジックな田舎を題材にした。
1926年、日本で最も権威のある帝国美術展に入選
1927年から1930年まで京都市立絵画専門学校で学んだ。
1928年、石川欽一郎の薦めで台北第一高女・第二高女で唯一の台湾人教師に選出
彼は正式な教師教育を受けておらず、高女の夏休みを利用して
京都市立絵画専門学校および東京美術学校で単位を補った。
1929年、師匠石川の推薦により英国王立水彩画協会の会員に選出、作品「街」が第10回日本帝国美術展に入選
台湾絵画研究所(翌年 台北洋画研究所に改称)に参画
1931年から1932年まで東京美術学校で学んだ。
1932年、日本水彩展出品
1933年、自治体の依頼で先住民区域に入りフィールドワークとスケッチを行った。
優れた作品とされる「達邦(タボン)の風景」制作
1934年、
●昭和9年 田岡登志枝(吉田)記 藍先生が入蛮手続きに来られたと聞いた。
* 入山(入蛮)手続 原住民族の狩猟区域、山(蕃界)に入るには安全のため警察の許可が必要だった。
1936年
●昭和11年 津曲敏子(守)記 藍先生の授業でスケッチをした時私は決まって校舎を写生した。
今でも瞼の中の校舎が描けそうだ。
1938年、日本水彩画会25周年記念展入選
1941年、皇民化運動もあり日本名を石川秀夫とした。
●昭和16年 小山美智子(富士)記 藍先生の本格的デッサンに驚嘆
1945年
●昭和20年 大浦寿恵(能勢)記 藍先生の授業は笑ってばかりでした。
左右対称の闘鶏を両手で同時に描くのに驚いた。
中正紀念堂壁画は先生の作品(* ChatGPTは否定)
1945年、教職を辞した。
1947年、台湾画報の社長、編集長を務めた。
1951年、半月ごと発行の農民雑誌を創刊
中期には伝統的な水墨画のエッセンスを取り入れ水彩画に独自の作風を確立、
台湾の美しい田園風景をモチーフにした。
1952年、フランス水彩画協会の会員に選出
1954年、台湾初のテレビ局、台湾電視公司の設立に関与
1960年、フランス水彩画協会審査員に就任
1962年、台北市商工会議所 会長に就任
ジュネーブ国際芸術祭で世界で最も優れた現代アーティスト25人の一人に選出
1963年、台湾テレビ公司の番組審査委員
1960年代後半から1970年代にかけ台湾テレビ公司と中華テレビで上級職を歴任し、中華テレビの会長を務めた。
●山口香(榎本)記 同窓会の母校訪問で藍先生が中華テレビ局ホールで迎えて下さり
暖かい心のこもったお話をされ涙が出た。
1966年、作品「The Duck Farmer」がロンドンのケンブリッジ美術館に収蔵
1969年、世界芸術家年鑑に掲載
1971年、ヨーロッパ美術評論家協会とアメリカ美術批評家協会が共同で世界の水彩画家トップ10に選出
1973年、中国テレビの会長に就任
晩年は
国連芸術委員、中華民国教育部学術審査委員会委員、中国文化ルネッサンス運動推進委員会委員を歴任し、
創作面では筆遣いの技法が成熟し独自の画風を形成
1979年、永眠
(日本語:らんいんてい 台湾語:ナウムティン 英語:ラン・インディン)
1903年、日本統治時代の台湾宜蘭市羅東で生まれた。
頭のてっぺんに丸い凹面のあざが有り父親は彼を蔭鼎と名付けた。
父親は彼が医者になることを望んでいたが母親は絵を描くことも認め父親不在時に絵を描かせた。
1907年~16年まで 石川欽一郎は台湾で陸軍通訳官として勤務、兼務で美術を教え各地を巡り人材を発掘した。
育てた弟子は倪蒋懐、黄土水、陳澄波、陳英聲、郭柏川、李梅樹、李澤藩、李石樵、
●藍蔭鼎など。
1914年、羅東公立学校高等教育科卒業
1920年、羅東公立学校の代用教員となり美術教師を務めた。
1921年、結婚
1923年、来日し油彩画と水彩画を学んだ。
1924年~32年まで 石川欽一郎は再び台湾に渡り台北師範学校で美術教師を務めた。
石川は羅東校で藍の作品に触れ彼を弟子として受け入れ台北で外国絵画を研究させた。
初期の作風は師匠石川の影響を強く受けチャイナドレスを着た女性などノスタルジックな田舎を題材にした。
1926年、日本で最も権威のある帝国美術展に入選
1927年から1930年まで京都市立絵画専門学校で学んだ。
1928年、石川欽一郎の薦めで台北第一高女・第二高女で唯一の台湾人教師に選出
彼は正式な教師教育を受けておらず、高女の夏休みを利用して
京都市立絵画専門学校および東京美術学校で単位を補った。
1929年、師匠石川の推薦により英国王立水彩画協会の会員に選出、作品「街」が第10回日本帝国美術展に入選
台湾絵画研究所(翌年 台北洋画研究所に改称)に参画
1931年から1932年まで東京美術学校で学んだ。
1932年、日本水彩展出品
1933年、自治体の依頼で先住民区域に入りフィールドワークとスケッチを行った。
優れた作品とされる「達邦(タボン)の風景」制作
1934年、
●昭和9年 田岡登志枝(吉田)記 藍先生が入蛮手続きに来られたと聞いた。
* 入山(入蛮)手続 原住民族の狩猟区域、山(蕃界)に入るには安全のため警察の許可が必要だった。
1936年
●昭和11年 津曲敏子(守)記 藍先生の授業でスケッチをした時私は決まって校舎を写生した。
今でも瞼の中の校舎が描けそうだ。
1938年、日本水彩画会25周年記念展入選
1941年、皇民化運動もあり日本名を石川秀夫とした。
●昭和16年 小山美智子(富士)記 藍先生の本格的デッサンに驚嘆
1945年
●昭和20年 大浦寿恵(能勢)記 藍先生の授業は笑ってばかりでした。
左右対称の闘鶏を両手で同時に描くのに驚いた。
中正紀念堂壁画は先生の作品(* ChatGPTは否定)
1945年、教職を辞した。
1947年、台湾画報の社長、編集長を務めた。
1951年、半月ごと発行の農民雑誌を創刊
中期には伝統的な水墨画のエッセンスを取り入れ水彩画に独自の作風を確立、
台湾の美しい田園風景をモチーフにした。
1952年、フランス水彩画協会の会員に選出
1954年、台湾初のテレビ局、台湾電視公司の設立に関与
1960年、フランス水彩画協会審査員に就任
1962年、台北市商工会議所 会長に就任
ジュネーブ国際芸術祭で世界で最も優れた現代アーティスト25人の一人に選出
1963年、台湾テレビ公司の番組審査委員
1960年代後半から1970年代にかけ台湾テレビ公司と中華テレビで上級職を歴任し、中華テレビの会長を務めた。
●山口香(榎本)記 同窓会の母校訪問で藍先生が中華テレビ局ホールで迎えて下さり
暖かい心のこもったお話をされ涙が出た。
1966年、作品「The Duck Farmer」がロンドンのケンブリッジ美術館に収蔵
1969年、世界芸術家年鑑に掲載
1971年、ヨーロッパ美術評論家協会とアメリカ美術批評家協会が共同で世界の水彩画家トップ10に選出
1973年、中国テレビの会長に就任
晩年は
国連芸術委員、中華民国教育部学術審査委員会委員、中国文化ルネッサンス運動推進委員会委員を歴任し、
創作面では筆遣いの技法が成熟し独自の画風を形成
1979年、永眠