団塊団子

団塊世代の暇潰し冗談 ぼやき と たわごと

ラン・インディン

2024年09月26日 00時14分24秒 | 台北第二
藍蔭鼎
(日本語:らんいんてい 台湾語:ナウムティン 英語:ラン・インディン)

1903年、日本統治時代の台湾宜蘭市羅東で生まれた。
  頭のてっぺんに丸い凹面のあざが有り父親は彼を蔭鼎と名付けた。
  父親は彼が医者になることを望んでいたが母親は絵を描くことも認め父親不在時に絵を描かせた。
1907年~16年まで 石川欽一郎は台湾で陸軍通訳官として勤務、兼務で美術を教え各地を巡り人材を発掘した。
  育てた弟子は倪蒋懐、黄土水、陳澄波、陳英聲、郭柏川、李梅樹、李澤藩、李石樵、
  ●藍蔭鼎など。
1914年、羅東公立学校高等教育科卒業
1920年、羅東公立学校の代用教員となり美術教師を務めた。
1921年、結婚
1923年、来日し油彩画と水彩画を学んだ。
1924年~32年まで 石川欽一郎は再び台湾に渡り台北師範学校で美術教師を務めた。
  石川は羅東校で藍の作品に触れ彼を弟子として受け入れ台北で外国絵画を研究させた。
  初期の作風は師匠石川の影響を強く受けチャイナドレスを着た女性などノスタルジックな田舎を題材にした。
1926年、日本で最も権威のある帝国美術展に入選
1927年から1930年まで京都市立絵画専門学校で学んだ。
1928年、石川欽一郎の薦めで台北第一高女・第二高女で唯一の台湾人教師に選出
  彼は正式な教師教育を受けておらず、高女の夏休みを利用して
  京都市立絵画専門学校および東京美術学校で単位を補った。
1929年、師匠石川の推薦により英国王立水彩画協会の会員に選出、作品「街」が第10回日本帝国美術展に入選
  台湾絵画研究所(翌年 台北洋画研究所に改称)に参画
1931年から1932年まで東京美術学校で学んだ。
1932年、日本水彩展出品
1933年、自治体の依頼で先住民区域に入りフィールドワークとスケッチを行った。
  優れた作品とされる「達邦(タボン)の風景」制作
1934年、
  ●昭和9年 田岡登志枝(吉田)記 藍先生が入蛮手続きに来られたと聞いた。
  * 入山(入蛮)手続 原住民族の狩猟区域、山(蕃界)に入るには安全のため警察の許可が必要だった。
1936年
  ●昭和11年 津曲敏子(守)記 藍先生の授業でスケッチをした時私は決まって校舎を写生した。
  今でも瞼の中の校舎が描けそうだ。
1938年、日本水彩画会25周年記念展入選
1941年、皇民化運動もあり日本名を石川秀夫とした。
  ●昭和16年 小山美智子(富士)記 藍先生の本格的デッサンに驚嘆
1945年
  ●昭和20年 大浦寿恵(能勢)記 藍先生の授業は笑ってばかりでした。
  左右対称の闘鶏を両手で同時に描くのに驚いた。
  中正紀念堂壁画は先生の作品(* ChatGPTは否定)
1945年、教職を辞した。
1947年、台湾画報の社長、編集長を務めた。
1951年、半月ごと発行の農民雑誌を創刊
  中期には伝統的な水墨画のエッセンスを取り入れ水彩画に独自の作風を確立、
  台湾の美しい田園風景をモチーフにした。
1952年、フランス水彩画協会の会員に選出
1954年、台湾初のテレビ局、台湾電視公司の設立に関与
1960年、フランス水彩画協会審査員に就任
1962年、台北市商工会議所 会長に就任
  ジュネーブ国際芸術祭で世界で最も優れた現代アーティスト25人の一人に選出
1963年、台湾テレビ公司の番組審査委員
1960年代後半から1970年代にかけ台湾テレビ公司と中華テレビで上級職を歴任し、中華テレビの会長を務めた。
  ●山口香(榎本)記 同窓会の母校訪問で藍先生が中華テレビ局ホールで迎えて下さり
  暖かい心のこもったお話をされ涙が出た。
1966年、作品「The Duck Farmer」がロンドンのケンブリッジ美術館に収蔵
1969年、世界芸術家年鑑に掲載
1971年、ヨーロッパ美術評論家協会とアメリカ美術批評家協会が共同で世界の水彩画家トップ10に選出
1973年、中国テレビの会長に就任
  晩年は
  国連芸術委員、中華民国教育部学術審査委員会委員、中国文化ルネッサンス運動推進委員会委員を歴任し、
  創作面では筆遣いの技法が成熟し独自の画風を形成
1979年、永眠





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イハタ-イ

2024年09月11日 22時56分21秒 | 台北第二

岩田泉

州立臺北第二高女教諭 イハタ イズミ
大正十五年 臨時教員養成所卒業

昭和20年5月10日夜、北二高女は空襲の被害を受け、吉中吾郎一校長と女性教師2名、指導員をしていた卒業生の合計4名が犠牲となった。
このとき岩田先生も学校に泊まりこんでいたが、難を逃れたという。
卒業生の回想には、岩田先生に出会ったことで生涯音楽を愛するようになったとか、クラシックが好きになったという声がある。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生徒が悪いことをしても

2024年09月07日 23時28分05秒 | 台北第二
昭和7年4月
中岡正子(安部)

手続きもしていないのに のこのこと付いて行き
編入試験に合格してしまい 切っ先が 「反対!」 と指摘される有様・・

私は生徒が悪いことをしても
私の教え方が悪かったと反省の意味で
自分を罰した・・
その教訓をすっかり忘れてしまった


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャイナドレスを着た女性などノスタルジックな題材

2024年08月30日 22時56分41秒 | 台北第二
台湾の水彩画家 藍蔭鼎(1903-1979)の代表的な作品をチャイナドレスを着た女性などノスタルジックな題材をメインにして作品の名称を年度別に列挙して下さい

代表的な作品と年度

1935年 - 「チャイナドレスの女性」チャイナドレスを着た女性の姿を描いた作品で、当時の台湾の都市文化とモダンな女性像を表現しています。
1941年 - 「午後の休息」チャイナドレスを着た女性が午後の静かな時間を過ごしているシーンを描いた作品で、ノスタルジックな雰囲気が漂っています。
1948年 - 「旧式庭園の美女」伝統的な庭園を背景にチャイナドレスを着た女性を描いた作品で、古典的な美と台湾の伝統文化が融合しています。
1952年 - 「ランタンの下で」チャイナドレスを着た女性がランタンの下で過ごすシーンを描いた作品で、夜の台湾の風情が表現されています。
1959年 - 「ノスタルジア」昔の台湾を象徴する街角で、チャイナドレスを着た女性がたたずむ姿を描いた作品で、過去への郷愁が感じられます。
1967年 - 「古い路地の思い出」古い路地を背景に、チャイナドレスを着た女性が思い出にふけるシーンを描いた作品で、ノスタルジックな雰囲気が強調されています。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ターヤン

2024年08月23日 23時46分54秒 | 台北第二

国名の由来

マレー系先住民が外来者や客を「ターヤン」と言っていた
のが
なまって「タイワン」となった。

やがて島を示す固有名詞となり台湾と記されるようになった。


という説もあるが
信じるか

あなた次第・・




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする