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私的戦後史① そして戦争が終わった


映画『ALWAYS三丁目の夕日』をご覧になっただろうか。物語は東京タワーがまだ工事中の頃(昭和33年)から始まる。鈴木オートの一人息子、一平君は小学校4年生。後に『団塊世代』と呼ばれた世代だ。私は一平君より少しばかり年下になる。

昭和30年代に入ると戦後の復興もかなり進み『もはや戦後ではない』が流行語になった。しかし私の住む地方都市ではまだまだ様々な場所に戦争の痕跡が残っていた。

時代はALWAYSから数年遡る。

近所の子供達の遊び場になっていた小高い丘の上にはかつての高射砲陣地の砲台が形をとどめていた。魚釣りに絶好の場所は軍艦を沈めてコンクリートで固めた防波堤。地面を少し掘ると焼夷弾やら砲弾の破片が出てきた。

大掃除で家の床板をめくると地面に大きな穴があいており、親戚の家の裏の崖には大きな横穴があった。不思議に思い「あの穴は何と」父に尋ねると、「戦争中に掘った防空壕だ」との返事が返ってきた。近所に港湾の浚渫の仕事をしている人がいて、「港を掘っていたら不発の爆弾やら機雷が出て今日も仕事が中断だ」という会話も良く聞いた。

確かに国家の戦争は昭和20年8月15日に終わった。しかし、これで人々の戦争が終わった訳ではなかった。

叔父は昭和16年初頭に20歳で招集され、マレー、シンガポールと南方戦線を転戦し、ビルマ(ミャンマー)で終戦を迎えた。その後俘虜収容所に収監された。叔父の最後の戦いはインパール・フーコン作戦と呼ばれ最悪の戦場であった。敵は連合軍だけではなかった。飢餓と疫病、深いジャングル、泥水に何日もつかり、虱と蛭に血を吸われ続けた。至近弾の爆風に吹き飛ばされたり、栄養失調で視力が無くなる等、幾度も死に直面した。

昭和16年にはじめて連隊に配属された同期の新兵およそ50名中、終戦時の生存者はわずか10名余りという苛烈な戦いであった。そして、転戦中は一度も故国の土を踏むことも無く、両親の死に水も取れなかった。内地に復員したのは昭和21年の初冬であった。

終戦直前、父母と6歳の兄、と4歳の姉、18歳の叔母は満州の奉天にいた。父は警察官であった為、軍隊への招集は無かったが、終戦とともに厳寒のシベリアに抑留された。父の本当の戦争は終戦と共に始まったといえる。飢えと寒さと重労働に多くの仲間が倒れていった。本来父は頑健な身体ではあったけれど40近い年齢での抑留は大きく健康を害した。父が帰国したのは4年後の昭和24年であった。

昭和20年8月9日。日ソ不可侵条約を一方的に破ってソ連軍が満州に侵攻。父は非常召集で警察署に出署、家族と離れ離れになった。侵攻したソ連軍は非戦闘員の市民にも容赦なく機銃掃射を行った。母と兄と姉、叔母の4人はソ連軍の弾の中を掻い潜って必死の脱出。寸断された鉄道を乗り継ぎ、あるいは徒歩で、引き揚げ船の出る朝鮮の港まで、壮絶な旅を続けた。

赤軍兵士や暴徒と化した朝鮮人、中国人の強奪や陵辱から身を守るために、母も叔母も髪を坊主頭にし、顔には鍋の底の煤を塗って男物の服を着た。
いざという時は自決しようと叔母と誓いあったという。昼は廃屋の床下や物陰に潜み、星明りを頼りに夜間に歩く逃避行が続いた。
ようやく博多港に上陸したのは奉天脱出から半年後であった。

母と兄と姉の戦争はまだ終わらなかった。引き揚げ後、父の実家に身を寄せたが、親戚の冷たい仕打ちにあった。極端な食料不足。自分一人が食べるのも大変な時代に引揚者は余計物として疎まれた。母は幼い子供たちを育てるために身を粉にして働いた。

引き揚げ時の苦労とその後の過労がたたって、母は床に伏すことも度々であった。極貧と病の床の中で「いっそ親子で死のう」と思いつめ、兄と姉に打ち明けた。「父さんに会うまでは生きよう」の兄の言葉に、母はようやく気を取り直した。やがて復員した叔父が戦前勤めていた会社に復職。叔父と叔母の献身的な援助もあって、母も健康を取り戻した。父の消息が分かったのは昭和24年の春であった。


我が一族だけがつらい体験をした訳では無い、戦地、外地、内地を問わず、日本人の殆どが血の出るような苦労を味わい尽くしてきたのである。
『もはや戦後ではない』そんな政府のお気楽な言葉とは裏腹に、多くの人々にとって戦争は十年一昔の話では無く、まだ昨日の出来事であった。

次回に続く


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