冥土院日本(MADE IN NIPPON)

人は何故手を合わせるのか

人が神や仏の前で手を合わせて真摯に祈る姿は美しい。人が祈る時、両手のひらを合わせたり、指を組み合わせるという行為は、祈りの儀礼として多くの宗教で用いられている。また神仏に祈る場合だけでなく、食事の感謝に手を合わせたり、人に必死の懇願をする時にも手を合わせる。人は何故手を合わせるのだろうか。

手を合わせる意味を神道では宇宙の陰と陽の合一であると説いている。また仏教では仏と人が一体となると説いているようだ。しかし今回はそのような抽象的な解釈ではなく、もう少し別の視点から考察をしてみたい。


この世に存在する全ての生物、植物、鉱物は波動(振動波)を出していることは、スピリチュアリズム的な啓示だけでなく、最新の量子物理学でも証明されてきている。最新科学の理論によればこの宇宙の存在するものは全て振動波から成り立っており、今我々が眼にするもの、触れるものは実体があるように感じるが、実は実体がないらしい。つまり私達の想念が作り上げている、ホログラムのようなバーチャルな世界である。仏教で言うところの色即是空、空即是色である。

しかし、私達は実際に物に触れることが出来る。何故なのか。私達が現実世界を実体があるように感じるのは、この世界の波動に私たちの想念の波動が同調しているからだということらしい。考えれば考えるほどややこしい理論だが、今回のテーマからそれてしまうので、詳しい解説は省かせていただく。要点はひとつ。祈りも波動エネルギーだということである。

さて、私は毎月一日と十五日は出来るだけ、近所の産土神社にお参りに行くようにしている。古くからある神社というのは大抵、その地域で気の良い場所(気が強い場所)に建てられている。そのような場所に行って、大地の気を吸収することは心と身体に良いばかりでなく、祈りが増幅されて、神様(宇宙)に届きやすいことを昔の人は、感覚的に良く知っていたようだ。

ある日、拝殿の前で手を合わせ心の中で祈っていると、左手が極端に熱くなり始めた。想念を抱くと想念エネルギーが右手から発せられ、それが感じられるということを気功のところで書いたが、まさにその現象である。祈りが深まるに連れて、想念の気が右手から左手へ移り、左腕から肩をめぐって右腕へと伝わり、そして何度もぐるぐると身体を回るような感覚が伝わってきた。

私達の身体は、宇宙エネルギーを常に受け取っているということなのだが、どうやら脊椎が受信アンテナの役割を果たしているらしい。そこで無線機を思い出していただきたい。無線機の受信アンテナは発信アンテナにもなるのである。両手を合わせれば腕がコイル状になる。そのコイルの中に脊椎がある。つまり想念の波動エネルギーを腕と身体のコイルが増幅し、アンテナを通じて宇宙へと発信しているのではないだろうか。

この説には何の根拠もない。あくまで私の直感である。しかし試しに今、手を合わせずに祈っていただきたい。続いて眼を閉じ、今度は手を合わせて祈ってみていただきたい。前者よりも後者の方が、思いや願いの密度が増すような感覚にはならないだろうか。

「手を合わせれば祈りの波動が強くなり、届きやすくなる」昔の人々はそれを知っていたのかもしれない。


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コメント一覧

フォトン
なるほど!
ホンダさん、いつもご訪問いただき有難うございます。



魏志倭人伝によると古代の日本人は、身分の高い人と出会うと拍手を打って挨拶をしたとありますが、三橋教授の説で納得出来ます。



「両手を添えるということは真を表す」というのも、いいお話ですね。私も忘れずにその気持ちを大切にしていきたいと思います。



私は高校生時代に山岳部に所属していましたが、槍ヶ岳の山頂からご来光を初めて見たことがありました。はじめて見る3000M級の山頂でのご来光の神々しい美しさに感動して、しばし呆然。気がついたら太陽に向かって手を合わせていました。まだ信仰心も芽生えぬ高校生ですから、一瞬、気恥ずかしくなって周りを見たら、部員全員が手を合わせていました。(笑)



理屈を超越した存在に出会った時、人は自ずから手を合わせるものなのですね。



fgnpd582
いつも拝見してます
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582
手を合わせることの意味については諸説あるようですね。國學院の三橋教授の著書「みそぎ考」によると、「神を拝むときに両手を合わせ柏手を打ちますが、これは、神の前に立ってやましい気持ちがないこと、下心がないことを形に表したものです。必ず両手を使って、柏手を打つ。柏手は絶対に片手では打てない。片手で拝むというようなことは、もう一方の手になにかを隠し持っているということです。裏工作、裏心があることを意味します。下心がないということを証明するために柏手を打つのです。神へ供え物をするときも必ず両手で供えます。片手で供えるのは真ではない。どんな些細なことでも、両手を添える気持ちが大切だということなのです。お母さんが赤ちゃんをだっこするのも必ず両手です。これは、単に安全のために両手を使うということではないはずです。真(まこと)の心のあらわれなのです。西洋などでは食事のエチケットとして、必ずテーブルの上に両手を出しておくというのがあります。これも手を隠していると、武器を隠しているのではないかということになるわけです。握手も同じことです。」なんて書いています。量子力学は文系神主には少々難解です。あれこれ読んでますが(-_-)ウーム

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